前夜
寒さが薄れ、日に日に日差しの暖かさが増す。
妓楼の桜樹も八分咲きとなり、妓女や客を楽しませている。
王宮で花見の宴が開かれる前日の酉の刻。梅花の元に、桃苑が尋ねて来た。
「いよいよ明日ですね」桃苑が緊張した面持ちで言う。梅花は表情を引き締め頷く。
明日の予定を客らも知っているからか、今宵は客の入りが少ないように思う。
梅花が頷いたことを見、桃苑は淡々とした口調で切り出す。
「王妃様のことは、手をこちらで打ってあります。ご安心ください。
此度の計画が成功し、お嬢様の婚儀が済めば、梅花殿を入内させることが出来ましょう」
「そうなるよう、期待しております」
梅花の言葉に桃苑は、笑みを浮かべる。
「今宵は、このことを伝えに参りました。
これから予定がありますので、わたくしはこれで」
暇乞いをすると桃苑は、部屋を後にする。
桃苑の姿を目で追いながら、兎に角明日と再度気を引き締める。
妓楼を出た桃苑は、すぐさま王宮に戻り白桜の元に急いだ。
「梅花の様子は」宮に帰ってきた桃苑に、白桜はそう尋ねる。
「普段と変わらないようにお見受けいたしました。明日のことで、多少は緊張や不安はあるでしょうが」
無理もない。ただ王宮に参内するだけではなく、王族や重鎮の前で舞や管弦を披露するのだ。緊張や不安があって当然である。
桃苑の言葉に頷く。
「蕾柚殿は」桃苑が尋ねる。
仕事が終わったら、蕾柚に顔を出すようにと言付けていたが、未だ蕾柚の姿はない。
「明日の準備で、それどころではないのだろう。
それに今動けば、母上が勘付くやも知れぬ」
蕾柚は尚食に属する女官。内廷の食を司る尚食にとって、宴の前日は目の回るような忙しさである。故に、こちらまで手は回らないことは、容易に想像が付く。
蕾柚が白桜の元に顔を出したのは、日付が変わる頃であった。
「遅くなり申し訳ございません」謝意を口にする。
白桜は「いや」と頭を振る。
「準備は良いか」白桜は蕾柚と桃苑に確認を取る。
ふたりは揃って大きく頷く。
白桜は桃苑に、蕾柚に同行するようにと予め指示していた。
白桜は蕾柚に薬が入った、陶器を手渡す。受け取った蕾柚は、大事そうに陶器を両手で包み込む。
「桃苑。蕾柚のことを頼む。
そなたも何かあれば、桃苑に頼ると良い」
桃苑が蕾柚に向けて会釈をする。
「白桜様」蕾柚が神妙な顔をして口を開く。
「そろそろ、この中身を教えて頂いてもよろしいですか。いくら身体に害はないとはいえ、正体が分からぬようでは尚食の女官として、許可は出せません」
蕾柚の指摘に、白桜は盛大にため息を吐く。
「眠り薬だ」ぼそりと呟く。
「眠り薬?」蕾柚が眉を顰める。
「あぁ。眠れない時に、主治医から処方されている。
無味無臭で水や茶にも良く溶け、身体に害はない。しいて言えば、強い入眠作用と起床時に軽い頭痛があるやも知れぬが、所詮その程度だ。
これで良いか」
白桜の説明に蕾柚が頷く。
宮を後にした蕾柚と桃苑は、尚食の建物に向かう。蕾柚は
桃苑は建物の外の壁に凭れ掛かり、周りの様子を窺う。辺りはしんと静まり返り、人の気配はない。
蕾柚は建物の中に入り、奥に進むと様々な乾物が並んでいる棚の前で、座り込み息を殺す。誰かが入ってきても、こちらの気配には気づかれないように、手燭の火を吹き消す。火が消えると辺りは一瞬にして闇夜に包まれ、煙の臭いが鼻につく。
宵闇の中にぼんやりと、行灯の火が揺れる。砂利を踏む足音と共に、人影が動く。春玲付きの女官が一人、尚食の建物に入っていく。
その状態でどれぐらい、息を殺していただろう。建物の扉を開ける音が聞こえ、蕾柚は耳を澄ます。
蕾柚は気づかれないように、棚の影から音の主の様子を窺う。
その人物は春玲に付いている女官であった。女官は行灯で辺りを照らしながら、慎重に進んでいく。そして、ある几の前で足を止める。几の上には明日、妓女らに出す料理を盛りつける膳が数十人分並んでいる。膳には参加者一人ひとりの名が認められた麻紙が置かれ、更には食器が配置され、明日の朝出来上がった料理を盛りつけるのみになっている。
女官はその膳のうち、一客に手を伸ばす。酒を注ぐ
更に女官は、もう一客にも同様に盃に陶器を傾ける。
女官は何事もなかったかのように、建物を後にした。
行為の一部始終を見ていた蕾柚は、女官が建物を後にしたことを見届け、そっとその場から動く。長時間暗夜に身を潜めていたからか、眼が慣れ暗闇の中でも何があるか手に取るようである。
蕾柚は手慣れた手つきで、普段火を付けるのに使用している火打石を手に取り、おがくずの上で打ち付け火花を散らす。おがくずに火花が降り、小さな炎となり辺りを照らす。手燭を傾け、蝋燭に火を付けおがくずの炎を消す。
蕾柚は手燭で辺りを照らしながら、先程の女官が行動を起こした几の前まで足を進める。几の前で足を止め、事の真意を確かめる。
女官が行動を起こしたのは、桜月の名と梅花の名が認められた、麻紙が置いてあ二客の膳である。
蕾柚は盃に手を伸ばし傾ける。どちらの盃にも、黒い液体が少量入っていた。蕾柚は手で扇ぎ、匂いを嗅ぐ。
甘い―。
独特な甘い香りに、蕾柚は表情を引き締める。すぐさま、食器が収められている棚から、同じ盃を取り出し液体が入ったものとすり替え、懐に収めてあった白桜の眠り薬を垂らす。幸い盃は、漆が塗られ艶のある漆黒である。故に、液体が鴆毒か眠り薬か一見しただけでは、判別することは難しい。
盃を手に蕾柚は、建物を後にする。
「桃苑様」外に出た蕾柚は、建物の壁に凭れ掛かっていた桃苑に声を掛ける。
「上手くいきましたか」桃苑の問いに答える代わりに、盃を見せる。
桃苑は盃を受け取り匂いを嗅ぐ。
「これは……」桃苑の反応に、蕾柚は小さく頷く。
「恐らく、毒酒で王様と妓女を亡き者に…という策略でございましょう。更には、責は尚食の女官に」
蕾柚の指摘に、桃苑も賛同を示すように頷く。
「後はこちらで対処を取ります。最悪な事態にはならないでしょう。
蕾柚殿。明日は頼みます」
桃苑は揖礼をすると、盃を手にその場を後にする。蕾柚も桃苑を見送ると、同じくその場を後にする。
「上手くいきましたか」
月旭宮にて戻って来た女官に、春玲がそう問いかける。
宮では春玲の他に、桜薫と白蓮も女官の報告を待っていた。
「はい。滞りなく」女官は、笑みを浮かべ言う。女官は几の上に、鴆毒が入った陶器を置いた。春玲はその表情を見、満足げに頷く。
「王妃様。何故、王様にも毒酒を?」
女官の言葉に春玲は朗らかに笑う。
「不公平ではありませんか。白桜を誑かした妓女だけが、亡き者になるのは。二人の関係を、容認した王様ももはや同罪です。罪人には罰を与えねば」
「王妃様」不意に白蓮が声を上げる。
「鴆毒を少し分けて頂けますか」
白蓮の発言に、その場にいた三人全員眼を瞠る。
「一体、何をするつもりだ」横にいた桜薫が、白蓮に詰め寄る。
「別に、何という訳ではありません。ただ、お守り代わりに」
沈黙が満ちる。
口を開いたのは、春玲であった。
「誠に他のことに使うのではありませんね」
春玲の念押しに、白蓮ははいと頷く。春玲は立ち上がり、鏡台の引き出しにある一回り小さな
小さな陶器に、鴆毒を半分程注ぐ。勿論、これだけでも致死量としては充分な量である。
「これで、構いませんか」
春玲の言葉に、白蓮は感謝の意を述べ陶器を、大切そうに手に取る。
この時は誰も、白蓮がある決断をしているとは思わなかった。
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