三十一通目の手紙

 だが、何故だかこの話に関係のないブタが、演劇の台本を男に向かって投げつけるという不意打ちを食らい、その怒りはその驚きによって、勢いを失わざるを得なくなった。


「煩いのも黙るのも、お前の方だ、台詞が覚えられないだろう!」


「確かにお前は舞台に出るけど、台詞は無いだろう。一体何を覚えるっていうんだよ」


 アヒルが冷たくぼそりと一言そう言った。そう、やはり人手が足りず、彼は舞台に引っ張り出されることになったのだ。それで、余計に神経質になっているのだろう。例え、台詞も何もない、ほんの一瞬舞台に上がるだけの役であるとしても。


「台詞のあるなしは関係ない!」


「関係ないかもしれないが、覚えるものがなければ覚える必要も無いだろう!」


「だからと言って覚えたらいけないことはないだろう!」


「覚えちゃいけないとは言ってない、必要はないと言ってるだけだ!」


「必要無くても覚えて何が悪い!」


「悪いとは言ってない、覚えなくてもいいんだから怒るなと言ってるんだ!」


「いちいちうるさい!」


「お前こそ、いちいちうるさい!」


 またお決まりの喧嘩が始まった、そんな風に思い、半ば呆れた気持ちで静観していたが、それで終わるはずも無かった。今度はアヒルが自分の台本をブタに向かって投げつけたが、ブタは器用にそれを避け、その後ろにいたヴァイオリン奏者に当たってしまう。それもまた相当に気の短い人間であったのが不幸の始まりである。本来ならば、自分の命のように大事なバイオリンであろう。だが、バイオリン奏者は、その命よりも大事なバイオリンを、こともあろうか、武器の代わりに使ったのだ。無作為に乱暴に振り回し、誰にともなくぶつけようとする。もはや、怒りの原因などどうでもいいという具合に。そして、巻き添えを食った人間の怒りに火をつけることになり、更なる混乱を招き寄せるのであった。瞬く間に、誰もが、誰にともなく怒りをぶつけ、暴れまわっているのであった。どこからか飛んできたボロ雑巾が自分の上に落ちてくると、ソファーの上でくつろいでいた猫も、さすがに暢気にはしていられない。


 なんて気の短い人間ばかりなのかしら。


 僕の推測に過ぎないが、おそらくはそう言っていたに違いない、そんな唸り声を上げて、御年百歳超とは思えぬ見事な跳躍を見せ、早速その喧騒の中に混じり、犯人であろうがそうでなかろうが、片っ端からその爪で引っかいていった。人間もそれに負けじと応戦するが、猫はすばしっこく動き回るので、余計に場は混乱するばかりである。


 気が短い人間というのは、要する不満の塊で出来た人間のことであり、いつでもこうして騒ぐきっかけを探しているのだ。そして、そいつを見つければ、憤怒しているように見せかけて、喜び勇んで飛びつくわけである。僕は頭上を飛び交う様々なものを避けながら、そうノートに書き記しておいた。


 そんな僕もまた、気違いに見えるのだろう。ペルシャ猫と男は僕を未知の生物でも見るかのような目で見ていたのだから、間違いない。


「一体何なの、この気違い沙汰!」


「いつものことよ」


 女王陛下は、今更動揺したりはしない。自分に向かって飛んでくるものを、当たらないようにかわしながら、平然と言った。しかし、そろそろ面白がっている場合でもなくなってきた。僕とイタチは、この喧騒も女同士の争いも、被害の及ばぬ隅の方へ非難して、観客に徹する決意を固めたのだった。


 ペルシャ猫はここぞとばかりに、にやりと嫌味たっぷりに笑った。


「まあ、あなたには似合いじゃない」


「ありがとう、自分でもそう思うわ。だから、私はここにいるって言ってるんだから、もう帰ったらどう?」


「私が……どんな思いでここまで来たかわかっている?」


 その問いに、女王陛下はわざとらしくため息などついて、頭を振って見せる。だが、それはペルシャ猫の怒りよりも悲しみに訴えかけることになったのだ。彼女はハンカチを取り出して、うっすらと目に浮かんだ涙を拭った。


「……あの後どうなったかわかる?」この問いに、女王陛下はうんともすんとも答えなかった。周囲の喧騒とは切り離された空間であるかのように、そこだけに粛々とした空気が流れた。「やっぱり、看板役者がいなくなったことは痛手といえば痛手よ。だから、客の入りは激減したし、なにより演目自体が面白くなくなったと見に来た人たちは言い出すようになったわ。おかげで、劇団員の士気は下がる一方よ。そして、どんどん劇の質が悪くなる。そんな負のスパイラル」


「それは、お気の毒に」


 まるで他人事のように髪の毛の毛先をいじりながら女王陛下は言った。だが、そんな彼女の態度が気にもならないくらい、語っているペルシャ猫は自己陶酔とも言える状態にあったのだ。


「はっきり言えば、私だってあなたに嫉妬していたし、だからこうして戻ってこないように釘を刺しにも来た。それ以上に何よりも、あなたはもう輪を乱すものでしかない。あの事件が起きる前からね」


「わかっているわよ、そんなこと」


 この場合、嫉妬をする側よりも、される側の方が輪を乱すとして排除されるものなのか。もしも、大勢が嫉妬をしているものの気持ちを理解しているとしたら。


 大衆心理というものに、僕は改めて恐怖を覚えた。それと同時に、どこか女王陛下に対して同情の念というよりも、もっと自分自身と重ねて考えてしまう自分がいた。


 ペルシャ猫はまるで自分が悲劇のヒロインであるかのように、目元をハンカチで拭っていたりする。それを、ひどく冷めた目で見ていた。女王陛下も、僕も。


「それでもね、あなたに対して罪悪感がないわけでもないの。私だけじゃなくて、もちろん劇団のみんながね。だから、ただ戻ってこないように釘を刺しに来ただけじゃなくて……お詫び……いいえ、和解の印と言っては何ですけど、あなたに良い話を持ってきたのよ」


「何?」


「私の知り合いがね、この劇団をここの土地ごと買い取りたいと言っているの。ここは宿屋じゃなくて、劇団の事務所や稽古場にするのよ。もっとまともで、もっと客の呼べるしっかりした劇団にするためにね」ペルシャ猫は、ちらりと紳士に目をやった。「そこにいるその人よりも、もっと大きな力を持っている人がね、そう言ってくれたの。どうかしら」


 その一言に、一番衝撃を受けたのは、ひょっとすると、宿の主人か、いや、本当のこの宿の主である猫だったかもしれない。誰かれ構わず引っかくのに夢中になっていたかと思いきや、突然に猫にしても素早すぎる速さでそちらへ飛んで来て、ペルシャ猫を睨みつけていた。やはり、この猫は本当に人間の言葉がわかるのかもしれない。だが、とりあえず今はその真偽は問題ではない。


 得意げなペルシャ猫の笑み、それがどれほど女王陛下に大きな意味と衝撃を与えたか、お分かり頂けるだろうか。空を飛ぶペンギンを初めて目撃した人間だって、あんな顔はしないだろう。もちろん、その間抜けな顔には喜びの色など欠片も無い。普通ならば喜ばしいことのはずである。だが、その通念が、この気違いな劇団と気違いな宿にも当てはまるかと言えば、そんなわけはないのだ。


「だ……誰もそんなこと頼んでないし、望んでいないわよ」


「だからよ」


 なるほど、これは彼女なりの親切に見せかけた復讐、というわけか。それにしても、女の争いというのはえげつない。


 頬をひきつらせて、女王陛下はぴしゃりと言った。


「折角ですけど、丁重にお断りいたします」


「一つ言わせてもらうが、この土地はこいつらのもんじゃない。いくら積まれても、売る気は無いぞ。何より猫がそう言っている」


 たまらず宿の主人がこの騒動に口を挟むと、相変わらずギラギラした三日月の目で、ペルシャ猫を睨んでいたこの宿の猫が、猫の鳴き声としても奇妙な、文字には無い音を出し、二言三言何か警告のようなものを告げた。だが、悲しいかな、やはりそれを理解できる人間はもういないのだ。そして、届かぬ言葉は軽視されてしまう。ペルシャ猫は、そんな猫の様子を取るに足らぬものとでもいったように、大して気にも留めない。


「わかっています。こちらも無理強いする気はありません。あくまでも、好意として受け取っていただきたいのよ」


「好意………ね。白々しい。それじゃあ、どうすれば、このまま黙ってお引き取りいただけるのかしら。取り繕ったりしなくていいわよ。まだるっこしいだけだもの」


 表面上はあくまでも綺麗にしておきたかったのだろう、ペルシャ猫は、一瞬眉を顰めたが、すぐに開き直ったようである。


「そう、だったらはっきり言いましょうか。……あなたがこの場所、そしてこの劇団からいなくなると約束してくれれば、関係ない人達まで巻き込んだりはしないわよ」


「なんですって?」


「あなたは、ここがとても気に入っているし、自分でも似合いであると思っているんでしょう。あなたが何か一つ拘っていることがあるとすれば、それだけ。……だから、それを捨てなさい。今のあなたを作っているものを捨てて、もう誰も、本当にあなたの後を追って行くことが出来ないところで、ひっそりと暮らして」


 お気に入りの玩具を取り上げる。そんな子供じみたことをして何になるか。最初はそう思ったものだ。だが、これはもっと奥が深いのではないか。例によって、頭をフル回転させて、正確とは言い難い計算をしてみよう。


 彼女がそれでもここを離れないと言えば、ペルシャ猫は有言実行し、この劇団とこの土地を知人に買い取らせるだろう。彼らにとって居心地の悪い環境、不慣れなやり方、ただでさえも気の短い連中の集まった劇団(今もまだ、先ほどのすったもんだは終わっていない)は、すぐに痺れを切らし、女王陛下を糾弾するようになる。お前のせいで、と。そうすると、ここは彼女にとって『似合いの場所』ではなくなるだろう。いずれにしても、彼女はここを離れなければならなくなる。


 また、輪を乱した者として。輪などないように見えるこの劇団でも、ある種のルールがある以上、そういうことも起こり得る。


 なんと、この陰湿さこそ、絵に描いたようなメロドラマの展開ではないか。そんな場合ではないが、ついまた僕はノートにメモを取ってしまった。ペルシャ猫は、そんな陰湿なメロドラマの悪役の手本のような笑みを見せるものだから、余計にペンは紙の上で生き生きと踊りだしてしまうではないか。


「あなたに選択の余地はない。わかるでしょう、それが罪滅ぼしよ」


 一体誰の罪滅ぼしなのか。


 成す術も無く、言葉も無く、悲しそうな顔だけを残して去っていく、そんな女王陛下の後姿がはっきりと見えてしまった。すると、ふとペンも止まってしまう。


「あの、関係ないのに口出しして申し訳ありませんが……」僕はノートを閉じて、一度深く息を吸った。すると、未来の幻も綺麗に消えてしまう。「どちらにしても、もうすぐ控えている演劇を一度は上演するまで待ってはもらえませんか。一度目は予想外の事件に巻き込まれてめちゃくちゃ、二度目もそうでは、この物語が報われません」


 それに何より、もともと生み出した人間にも放棄されてしまったような哀れな物語である(ゴーストライターの消息は耳に入ってこないが、またどこかでゴーストライターをやっているのだろうか)。せめて一度くらいはまともに劇にしなければ、それこそ悲劇であろう。


 ペルシャ猫は、不満そうに僕を睨んだ。僕も睨み返す。ややしばらく、そのままでいると、猫がニャアと一声鳴いたのをきっかけに、ペルシャ猫はため息とともに頷いた。


「わかりました、いいでしょう。……言っておくけれど、ただの脅しだと思わないでね」


 いつもの女王陛下なら、ここで皮肉の一つでも言っただろう。だが、この時は何も言わずに、気違いじみたこの場から逃げるように、あっという間に姿を消していくペルシャ猫を見送っただけだった。


「彼女は私が説得しておくから。もう一度、どうするかよく考えてみてくれ。本当に、自分が一番いいと思うことを」


 女王陛下にそんな言葉を残して、紳士もまたこの場を去って行った。この街へ来た時とはすっかり様変わりした、ひどく疲れた様子で。


 嵐はひとまず去った。


 緊張が解けて油断したところへ、真っ青な絵の具がこってりとついた絵筆がこちらへ向かって飛んでくる。避けそこなって、絵の具は僕のジャケットの袖にべったりとくっついてしまった。


 一難去って、また一難。


「さあ、どうする?」


 女王陛下は、肩をすくめただけで、言葉では何とも返事をしなかった。未だ収まらない喧騒を眺めていた、焦りと迷い、そしてほんの少しの後悔が入り混じった目が、僕のノートへと不意に向けられた。


「じゃあ、芝居を書いて、この先の話を。ここまでの話はそのノートに全部書いてあるんでしょう」


「なるほど、それは面白いね」


「冗談よ」


 踵を返し、この場を去ろうとした女王陛下に、僕は最後にこう言った。


「どうするにしても、僕は君のいいように手を貸すつもりだよ」


 ありがとう。こちらに背を向けていたので、その顔までは見えなかったが、彼女にしては珍しく素直な言葉は、はっきりと聞こえた。


 この宿には、そう遠くはないうちに別れを告げることになるであろうとは思っていた。甥であり親友であるイタチを、また置き去りにしていってしまうことへの罪悪感もあった。だが、ここに第三の喪失感が僕に与えられることになった。どれも同じようでいて異なる、それでいて不可避な喪失。


 また騒ぎの中に戻ろうとした猫を、イタチは無理矢理捕まえて、しきりに何事かを話しかけて、返事を無理強いしていた。猫は迷惑そうにもがいてイタチの手から逃れようとしている。子供の力といえども、猫にとっては侮れぬものなのだ。やっとの思いで自由になると、そのストレスを全てぶつけてやるといわんばかりに、意気揚々と騒乱のなかへと混じっていったのだった。恨めしそうに猫を眺めるイタチに、僕の心臓には針の筵になったような痛みが襲ってくる。


 それでも、せめてその痛みを軽減させるために、一番賢いやり方を模索するしかないだろう。そう、それこそ、これが演劇であるならば、僕はどういう筋書きにするかと、思考を巡らせるのだ。


 虫がいい話だとしても。

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