二十五通目の手紙

 雨が弱まったのを見計らって帰った後に、ジャケットのポケットの中にまだイタチへの手紙が残ったままであったことに気が付いた。本当は、僕はこれを届けに行くために、あの道を通ったのではなかったか。それが、偶然現れた別の手紙のために、すっかり忘れ去られてまだこんなところにある。きっと、イタチも怒っているだろう。


 だが、こうした偶然を僕は好都合と捉えることにしよう。ノートを広げて、落書きも同然のメモ書きから、またしても僕はちょっとしたゲームを思いついたのだ。


 届け損ねた手紙を開封して、読まれるのを大人しく待っていた便箋に書き足した。




   追伸


 雨の日の暇つぶしに、ちょっとしたゲームです。


 この中にある言葉の中から、目をつぶってランダムに五つの言葉を選んで、文章を作ってください。


 どんなにへんてこな文章が出来上がっても、不思議なことに、それは僕が昨日の夜見た夢が出来上がるはずです。へんてこであればあるほど、正確に言い当てていることになります(僕自身もよく覚えていなくとも、そのはずです!)。


  


 【夕日 蝶 蜂 雨 カエル こうもり傘 迷子の手紙 困った人の眉 怒った人の眉 疑う人の眉 眉間のしわ 落書き 舞台 芝居 拍手の音 おしゃべり 詩人 職業病】


 


 


 そこまで書いて、ふとペンは止まった。最後の『職業病』は余計だったかもしれない。何より、あまり詩的ではないだろう。ノートと手紙、双方からその言葉を消そうとしたが、一つくらいはいかにも現実的な言葉があってもいいだろうと、そのまま残しておくことにした。


 夢は、その日一日に起こったことを脳がきちんと整理しようとしているのだと、聞いたことがある。それにしては、何の脈略も無いことが起こるのは何故だろうか。せめて、思った通りの夢を見たいものである。だが、自分の頭で起こっていることなのに、自ら操ることが不可能であるとは、なんとはなしに理不尽さを感じずにはいられない。


 その晩僕が見た夢は、自分のその日の記憶の象徴でもなければ、希望を叶えてくれる夢でも無かった。


 ぴかぴかと、どんなに遠くからでもわかる光を放つ、にぎやかな音楽の中のサーカスの夢ならば、良かっただろう。その中で、僕は火の輪潜りをさせられる、気弱なライオンだったとしよう。気弱であっても、百獣の王、火の中を駆け抜けていけば、観客は熱心に拍手を送ってくれるではないか。


 でも、残念ながら、全く違う。僕は水の中の魚だった。魚のくせに泳げない、ただカモメに食べられるのを待ってるばかりの、悲しい魚だ。


 ああ、こんなに情けないことってあるか!


 無事に夢から抜け出せた時には、また僕は僕ではあったので、安堵したものの、到底夢から脱出できたようには思えない。また外は大雨が降っていたからだろうか。


 手紙は、書きっぱなしで机の上に放って置いたままだった。そこで、僕はその偶然を都合よく思い、また幾つかリストの中に言葉を書き足した。


 気弱なライオン、火の輪潜り、泳げない魚。


 同時に、その言葉をノートにも書き留め、便箋を新しい封筒の中に入れた。今度こそ、この手紙をイタチへ届けなくては。


 昨日の繰り返しで、小さな封筒を一つ持って、僕は姉の家へと向かった。ついでに、これで天気まで同じであれば、ついに発明に成功したタイムマシンを誰かが使った副作用で僕も巻き込まれたのかと思ったかもしれない(僕自身はそんなものを使った覚えはない、断じて)。だが、昨日の夕方には一旦収まった雨は、今日は朝からずっと降っていた。劇団の連中はすっかり稽古を諦め、宿のロビーでいつものように思い思いに、それなりに体裁よく言うならば『自主練習』をしていた。そして、僕は傘を持って出かける。これらが、決してまた同じ日を繰り返しているわけではないことを教えてくれた。


 そして、イタチへの手紙が忘れることなくきちんと届けられる、それも昨日とは違うはずだ。雨の中を意気揚々と、ずんずん突き進んで行く。それはまるで、自分が泳げぬ魚であることを否定するかのように。


 もっとも、そんな風に大仰に言ってみても、郵便受けに手紙を入れるだけで、何の挨拶もなしに、まるで僕はここへ来なかったかのように、去っていくのだが。それが、僕らの手紙のルールというものだ(見つかってしまっては、手紙の存在価値を半分以下にも減らしてしまうので、気をつけること!)。


 それなのに、どうしてだろうか、ただそれだけのことが、この上なく困難な大仕事のように、なかなか上手くいかない。まるでこの手紙は、イタチの手に渡るのを嫌がっているかのようだ。どういうことだろうか、僕は特にどうということは書いていないはずだ。何の不都合がある?今更言っても仕方がないようなことをつらつらと並べ立てているような、人を悩ませるだけの手紙とは違う。だが、あの手紙はどうあっても彼女の手に届きたがっていたというのか。滅茶苦茶だ。


 そういえば、今日はまだ彼女の姿を見ていない。一人でまたあの手紙を読んでいるのだろうか。それも、昨日とは同じようで違うことだ。


 どこにいるか、生きているのか、もうこの世にはいないのか、わからないのに、持てる力の全てを持って、探し出してまで、聞かせようとしたその泣き言を、飽きもせず繰り返し読んでは反芻している、そんな姿が僕の頭に自然と浮かんでくる。何よりも光り輝く宝石のように、一文字一文字を、それはそれは丁寧に、愛しく感じながら、頬に涙を伝わせて。


 


  きっと、今更どうしてこんな手紙を、と、君は怒るかもしれないだろう。でも、今の私は、何をしていても後悔の塊のような人生を生きているんだ。


  恐らく、君が去ったあの瞬間から、少しずつ軌道が狂っていったのだろう。月を失った地球のように。そうだ、君はぶれた軌道を整えてくれる月のようだった。他の誰かに言わせれば、衝突した隕石のようであるとしてもだ。


  君がいなくなった劇団は、まったく面白味がないものになった。どんな演目でも、大人しく行儀の良い型に填まった、当たり障りのないものにしかならない。


  色も何もない。だから余計に私の中に後悔と罪悪感が日々積み重なって行き、君の幻影はゴーストのように、夜な夜な現れるようになった。時には甘い言葉を囁き、時には涙ながらに恨み言を投げつけてくる。


  本当に君がもうどこでも生きていけなくなってしまわないように下した決断だったけれど、どうしても手放した後悔が消えない。


  東奔西走して(雇った探偵が、だが)ようやく君の居場所がわかった時は、胸が躍ったよ。ああ、でもしかし、会いにいくわけにはいかないだろう。だから、せめて、どうしても手紙を書かずにはいられなかったんだ。伝えたいこともわからないし、君を見つけたからといって、どうしたい、というわけでもないのだけれど。でも君に、どうしても、劇団のことを、そして私のことを忘れてほしくなかったのかもしれない。君が私の書いた字に、言葉に、ぼんやりとでも、夏の日に咲くひまわりの花のように、凛と輝いて咲いていたあの日々のことを思い出してくれれば、そんな、ずるいことを考えていたんだろう。無意識に。


 なんという愚か者!


 


 ああ、そうだとも!そう思っているならば、何故手紙を彼女によこしたりしたんだ。


 しかし、女王陛下は、こんな馬鹿馬鹿しい手紙を胸に抱きしめて、余韻に浸るのだ。或いは、もう数度、手紙を読み返すだろう。


 僕は、目が回りそうな苛立ちを、彼女に、そして自分自身に感じ、傘を跳ねる雨が、それを鎮めて、代わりに言い知れぬ悲しみをもたらした。こうして、感情の言うなりに思考を泳がせていると、またイタチへの手紙の存在は、片隅に追いやられることになる。そこへ、さらに別の気を逸らせる材料ができたとなれば、尚更だ。


 それは、昨日とまた同じ場所で起こった。手紙が間違って届けられたあの家の前で、ここら辺では見かけない一人の男が、ふらりとやってきて、有り難くも僕の余計な思考を邪魔してくれたのだ。だが、そちらに気を取られることになるので、結局は手紙の存在を僕は忘れたままであった。こうなると、一体僕は何故また昨日と同じようにこの道を歩いていたのかということになるが、それさえもすっかりどこかへ追いやられてしまっていたのだ。出鱈目にもほどがあるが、それほどにも僕の行動と思考は出鱈目であったと言えよう。


 そこへさらに出鱈目さに輪をかけたのは、その来訪者というのが、どこからどう見ても、品のある立派な紳士であることであった。少々長旅をしてきたのであろう、少々の疲れは見えるものの、列車か(あるいは車か、はたまた飛行機か。何かはわかるはずもないけれど、とりあえず、僕は旅と言えば、列車がロマンチックだと思う)に揺られて来たはずの彼の上等なグレーのスーツは、しわ一つない。よくよく彼を見ていて、ああなるほど、と考え至ったのだが、万が一しわが出来たとしても、あのピンと伸びた背中で伸ばされて、しわも退散してしまうのだろう。だが、あの元警察官の男ほどの堅苦しさはなく、柔和な雰囲気も併せ持っていた。だから、先ほど彼のことを『紳士』と表現したわけである。


 彼は、まず声をかける前に、僕の方をじっと見ていた。明らかに何か用があるというように。目が合うと、少し遠慮気味に言った。


「あの、すみませんが、道を教えていただけませんか」


「あ、はい」


「この住所を探しているんですが、どうもそれらしい場所がなかなか見つからないんですよ」


 困ったようにそう言いながら、僕にメモ書きを見せる。なるほど、今日は迷子の手紙ではなく、道に迷った男というわけか。そのメモ書きに書かれている住所も、あの迷子の手紙と同じ、そこへたどり着くのはなかなか困難な場所、すなわち、劇団の連中のいるあの派手な宿である。今の姿はこの上なく目立つのだから、見つけやすいといえばそうなのだろうが、まさかそこが目的地であろうとは、誰も思わないだろうし、気が付いたとしても容易には認められないだろう。その気持ちはよくわかる。


「ああ、そこの……ちょっと傾いた赤い屋根の建物です」


「えっ、あそこに……人が住んでいるのですか?」


 そう言いたくなる気持ちもわかる。僕は苦笑いで頷いた。


「はい、僕もその一人です」


 男に焦りの色が走った。


「それは、申し訳ありません。うーむ、何と言いましょうか……個性的ですね」


 褒め言葉として何か見つけようとしても、それしか見当たらないのだろう、その気持ちもよくわかる。


「もしかして、劇団の誰かに用事ですか?」


「ええ、そうなんです」


「それはそれは……個性的なお知り合いがいらっしゃるようで」


 皮肉交じりの冗談に、彼は声を上げて笑った。目じりに出来た笑い皺に、ようやく折り目正しさの隙を見た気がした。


「そうですね、まったくその通り。世の中に似た人間が三人はいるとは言いますが、あの人に似た人などいるはずもありません」


 それを言ったら、あの劇団の誰しもが、そうと言って差し支えない。いや、ああいう人間が二人も三人もいたら困りものである。だからこそ、そういう連中が寄り集まっているのだろうが。しかし、このように身形が整っていて、それなりに社会的地位もありそうな人が(あくまでも、見た目から受ける印象ではあるが)、そんな連中に一体どんな用があるというのだろうか。


 微妙に異なる昨日の繰り返しのような出来事に、僕の直感は告げていた。昨日、女王陛下の手に渡った手紙。今度はその送り主が現れたというわけか。


 もしそうだとすれば、果たして、この人を彼女に会わせていいのだろうか。だが、僕にそれを阻害する権利もない。彼がここまでやってきた事実は事実として、知る権利と必要性はある。そこからどうするのか、選ぶのは彼女自身だ。


「でも、あそこに足を踏み入れるのは、なかなか勇気がいるでしょう」


「そうですね、なんだか現実感が無い。バランスだとか重力だとか、そういったあるべきものをとことん無視しているように見えるからでしょうか」目を細めて、雨のベールに霞む三軒先の歪んだ建物を眺め、彼は独り言のように言った。それから、苦笑して首を横に振った。自分自身を否定して。「そうじゃない、あれがなんの歪みも無い新築で最新鋭の技術を駆使した建物であっても、私にとっては勇気がいるでしょう。ここまで来ておきながら、あの建物に気付かぬふりをしていたのも、躊躇いがそうさせたのかもしれない」


 まるで、作られた台詞のようであるが、彼は道に迷っているうちに、自分でそんなことを考えながら歩いていたに違いない。さっきまでの僕と同じように、手紙を読んでいる彼女を思い浮かべながら。


 そんな想像は、腹の内側を突かれるような不快感を、じりじりと募らせていった。


「最初からここに来なかったことをいずれ悔いるのか、ここまで来たもののその人に会わずに帰り、その時間を無駄だったと悔いるのか。或いは、会ってしまってから悔いるのか。結局どれにも後悔は付いてきそうですし、本当はどれが良かったかなんて、実際にどれかを選んでみないとわからない。どうせ正当性や倫理を持って考えたところで、何百年かかっても決断は不可能でしょう」


 ちくりと針でつつくような一言を言うと、彼は一瞬、驚いたように目を丸くしてこちらを見た。だが、すぐに気まずそうに目を逸らしてしまう。


「事情をご存知ですか」


「ある程度は」


 少しの間を置いてから、彼はため息のついでのように呟いた。


「そうですか」


「あみだくじで決めても同じじゃないですか。それくらい、どれでもいいってことですよ。そこまで考え込む必要もなく」


 人を唆す詐欺師のような気分になってきた。そうは言っても、僕はこの人をどの道へ唆したいのか、自分でもよくわからないのだが。論理が主張する正当性と感情の不一致が未だに自分で自分を困惑させ不愉快にさせる言葉を吐き出させ続ける。もし僕が誰かにこんなことを言われたとしてたら、掴みかからんばかりの勢いで、猛然と講義をするだろう。君は一体何を考えてそんなことを言っているんだ、空っぽの頭で言葉に操られて勝手にそう言ってるだけだろう、ならば、口を縫い閉じて言葉が引っ込むまで黙っているといい!


 だが、相手はこんな馬鹿馬鹿しい話を、笑い飛ばして好意的に受け止めてくれたようである。


「あみだくじ、ですか。なるほど」


「まあそれは単に一つの案として提案してみただけですが……そうですね、こういう日ならば、僕はカエルに託します」


「カエル……ですか」


「そう、カエル。門の前で、カエルが現れたら、帰るんですよ。どんなに待ってもカエルを見なければ、それは帰るな、というサインだと。そういう、馬鹿馬鹿しい洒落に賭けるくらいでいい」


 そんなおおらかな紳士に対して、また一針、ちくりと突き刺してやる。彼はしばらく黙っていた。雨の音だけが饒舌で、彼を励ましていた。それがまた、僕の中の苛立ちを募らせて行くのだ。


「彼女は、手紙を読んでくれましたか」


「ええ」


「こういうことを尋ねるのは、ずるいとわかってはいるんですが……手紙を読んで、どんな様子でしたか、何と言っていましたか」


 まとわりつく雨の鬱陶しく耳障りな音に、僕は思わず舌打ちをしそうになった。


「こぼしたインクが染みただけの手紙……意味のない文字の羅列……その程度にしか思ってないようでした、と言ったらどうします?」


「そうですか」


 彼の落胆振りを雨がさらに演出して、僕の中の苛立ちに罪悪感を抱かせた。知らずに出たため息は、幸いにも聞こえなかっただろう。


「嘘ですよ。花のつぼみを見つけたときのような、春がやってきたとばかりの喜びようでした」彼の顔にもまた、春がやって来たような輝きが走った。だが、僕は彼の一喜一憂する様子を面白がってはいたが、しかしやはり苛立ちも燻っていた。「それも嘘です。……僕にはわかりません。あの人はペテン師のようで、何を考えているかなんて、さっぱり見えませんから」


「確かに……ただからかわれているんじゃないかという気になることが、よくありました」


 半分くらいは実際にそうだったのではないかと、僕は何も知らないくせに言ってしまいそうになった。引っ込めた言葉の代わりに何と言おうか、そんなことを考えているうちに、気が付けば黙ったままずいぶん時間は経っていたようである。雪と違って、雨はどれほど降ったかということを目で確認することは出来ない。それでもなお、出てくる言葉は皮肉ばかりで、僕を蝕み始めている正体のわからない不快感は、そうやって地にじわじわと染み込んで行く雨のようであった。


 隣にいる男は、それに気がつきもせず、彼は彼でまた頭の中を別のものにすっかり蝕まれていたのである。そこにはない、女の幻影に。


「いつだって演技をしているようなもので、本当のことは見せない。だから、彼女のことが面白いと思っていた。まだこの劇団で続けていてくれてよかった。もう芝居などというものに愛想をつかしたかもしれないとも思っていたから」


「そんなきまぐれなものを捕まえておこうなんて、出来るわけもないのに。それでもここへやって来たんですね」


「自分でもその偏屈さに驚いていますよ」


 自嘲した男に、僕は何故か同情の二文字がじわじわと湧き上がってくるのをはっきりと感じた。もっともそれは、単純な哀れみではないのは確かだ。苛立ちも未だにそこにあるのだから。


「見てみますか、舞台を。……どうせなら、そこでカエルを待てばいい。そうは言っても、自慢できるような立派なものじゃありませんがね」


 躊躇いを意味する間を置いた後、彼は静かに頷いた。僕も頷き返す。

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