第3話 花色のお節介
放課後になった。
ホームルームが終わるやいなや俺は一目散に教室を飛び出した。あの授業を終えた解放感で気分良さそうに談笑を始めるクラスの空気が嫌いというのもあるし、学校そのものにいたくなかったからだ。
古びた廊下に立て付けの悪い扉。施錠された屋上と埃だらけの階段の踊り場。大した学校でもないくせに、辺りを囲む桜並木。思い出したくないものが好き勝手に脳内で駆け回る。
俺は地面に落ちて黒ずんだ桜の花びらを靴で蹴飛ばした。
『佐保山くん、また靴の先が擦れてますよ』
聞こえたのは『過ち』の幻聴。地面を蹴りながら歩く俺の足元を見たあと、心配そうに見上げてくる『過ち』の幻覚。俺が人と関わった、最後の記憶。
どうしてか、今日は疲れた。体力的にも、そして精神的にも。早く家へ帰ろう。録画しておいたアニメを見ながら、スマホのゲームでもして、カップ麺を食ったら風呂入って寝る。一人暮らしだからこそ許されるこの憩いの時間に一刻も早く浸りたい気分だ。
誰かに咎められる心配をせず気楽にアニメを視聴できるのは最高だ。音量だって気にしなくていいし、サービスシーンや声優さんの渾身のエロい演技に、部屋の前を通り過ぎた家族がドン引きすることもない。
アニメオタクは白い目で見られるし、変な奴が多いと認識されていることも知っている。だが俺はそれに偏見だと真っ向から対立する気はさらさらない。何故ならそれは正論だし、こうして俺みたいに現実に呆れ果てて二次元に逃げ込む奴らはたくさんいる。
そんな奴、三次元に生きている者から見たら変と思うのは当たり前なのだ。
俺だって、四六時中昨日見た夢の話をしている奴がいたら正気を疑ってしまうと思う。しかし本人からしてみれば、夢に逃げざるを得ない何かつらいことがあったのかもしれない。まぁ、起きて歯を磨いたら今日見た夢を忘れるような一般人からしてみれば、やはりそいつは変な奴なのだが。
羽ばたく羽の重さは鳥だけが知っている。つまりはそういうことだ。
俺は誰とも関わりたくない。誰がなんと言おうが、俺が嫌ならそれは嫌。どれだけ他の人間と交流することが尊く、正しくて高貴なものであったとしても。
「ああ、さっさと帰ろ」
思考すればするほど疲れる。俺がもし猫やウサギだったとしたら今頃ストレスで死んでしまっているだろう。
頭をクリアにするために、そして少しでも早く家へ帰るために俺は早足だった足を更に動かして走った。
桜並木を通って駅を抜ける。無駄に都会っぽさを出したエセ商店街の横を走って路地に出る。もうすぐで俺の家だ。といってもただのオンボロアパートなのだが。
そういえば顎を引いて腕を意識すると速く走れると前にスポーツ番組で言っていたな。
俺は慣れない走法を試すように腕を大振りにして前を見た。
おお、なんか早い気がするぞ!
ぐんぐんと進んでいく景色を見て俺は嬉しくなり更にギアをあげる。
俺は死ぬほど運動が苦手だ。
先ほども言ったがこれは事実で本当にどうしようもないくらい要らない神様からの贈り物。いや、ハンデだ。では代わりに何か秀でたものがあるのかと言われたら無し。そんな理不尽なハンデに進んでいた景色が角度を変える。
「ぶ」
転んだ。頭から。
受け身なんてとったことがない。それは運動神経以前にもう生物としての防衛本能が皆無であることが見て取れる。おそらく俺の祖先は猿ではなくミドリムシの類だったのだろう。
痛い。鼻と額が熱い。膝が染みる。体育の後につけた絆創膏のガーゼが再び黒くなる。
運動不足で弱った関節がミシミシと軋んで立つことができず、俺は地面に蹲った。こんな醜態を誰かに見られたら、きっと指を差されて嘲笑れるんだろう。
だが、後ろから聞こえてきたのは、そよ風に揺れた木々の擦れる音に近い、どこか心地の良い声だった。
「うわっ、大丈夫?」
声はすぐ近く。俺の後頭部に投げかけられたようだ。
「立てる?」
蹲って地面を這いずるような視線の先に、長く細い足が現れる。靴下はダボダボで、所謂ルーズソックスというヤツだろうか。履いている靴はよく分からん英語のメーカーの革靴。この二つのパーツだけでこの声の主が俺とは真逆のオシャレの世界の住人だということがわかる。そんな人種が俺になんの用だ。
次に目の前に現れたのは綺麗な手。じゃらりとカラフルなブレスレットが揺れる。
意図は汲み取れた。成る程、この手に捕まれとそう言っているのか。
俺は痛む手足を動かして腰を起こす。何とか立ち上がると汚れた膝を掃った。
手は、取らなかった。突然現れたどこの馬の骨とも知らない奴を信用するほど俺はこの社会に心を開いていない。故に差し伸べられた救いは拒否。カエルみたいに地面に伏せていたヤツの言うセリフではないのかもしれないが、この際気にしても仕方がない。
「マジで大丈夫? ヤバイ勢いで転んでたけど」
「・・・・・・」
――黄色だった。
金髪ではない。薄く、どこか淡いオレンジの亜種。桜の次は蜜柑でも成ったのかと思ったが今は春だ。俺の記憶に両者の花が肩を並べている映像は存在しない。なら目の前の柑橘はなんなのかと言われると、紛れもない、人だ。立ってみるとそいつは俺よりも身長が低く、見下ろす形となる。
奇怪な色の髪、だぼだぼのルーズソックスに短いスカート、腕や耳には装飾品を付けているこの独特の容姿をする生物を俺は知っている。極めつけは腰に巻いた上着に胸元を少し開けたワイシャツ。これはもう、その生物である証のようなもので、生態そのものだ。
霊長目ヒト科ギャル属。
そいつは俺が立ち上がると、納得のいかないような顔で差し出した手を引っ込めて、こちらを見上げた。
目が合った。派手で低俗な恰好のギャルとは思えないほどに純粋で綺麗な瞳。化け物のような厚化粧はしていないし、長いまつ毛が瞬きをするたびに精密に交差する。
何秒か無言が続いた後、知らないギャルの前髪が風で目にかかったところで俺は口を開いた。
「大丈夫です」
それだけ言った。見たところ制服もうちの学校だしリボンも赤だから同じ二年生だ。敬語を使う必要なんてないだろうが、俺の中では知らない人間なのでとりあえず波風立たない口調にしておいた。
「じゃあ」
礼のひとつでも言えばよかったのだが、謎の羞恥心が喉を通ろうとした声を阻んだ。
俺は逃げるようにその場を去ろうとする。
しかし、踵を返した俺の腕を彼女が掴む。少しひんやりとしていて弱い力の女の手。振り払おうとすれば簡単なものだが、俺の中に微量に残っていた粕のような良心に足を止める。
「ちょいちょい! 待ってって。こっち見てよ」
「なんですか」
「ほら、やっぱり顔に傷付いてるし。おでこのとこ。さっき擦りむいたでしょ」
彼女は背伸びをすると手を伸ばして俺の額に触れる。突然の接触に驚いた俺は思わず後ずさった。
「あっ! ごめん、痛かった?」
自分でも傷ができているなんて気づかない程に痛みなんてありはしなかったが、細く綺麗な指の造形と、冷たい感触に驚いたとは言いたくないので無言ではぐらかす。
「あたしガーゼ持ってるから、手当してあげる。はい座って」
「いやそんなもん要らないし、ほんと大丈夫なんで帰ります」
「い、い、か、ら!」
両肩を掴まれ強引にその場で膝立ちの恰好になる。下がった視線の先には膨らんだ胸。そして香るフルーツの匂い。視覚と嗅覚がこれでもかというくらいに反応している。今頃俺の脳内の細胞達は大はしゃぎしていることだろう。
目のやり場に困った俺は遠くの換気扇を見つめ、なるべく匂いを嗅がないよう息を止めながら言った。
「ありがとうございます」
突然こんなことをされて正直動揺している俺だったが、それを悟られたくなかったため、努めて冷静に振る舞った。
「いいって。それにしてもほんと派手に転んでた。最初はヘッドスライディングの練習でもしてるのかと思ったけど佐保山、野球部じゃないもんね」
傷にガーゼを当て、ポーチから救急テープを取り出した。
って。今こいつ、俺のこと呼んだか?
「今日の体育の時も思いっきり転んでたよね。あ、もしかして佐保山って運動苦手?」
「なんで今日の体育のこと知ってるんですか」
「変なこと聞くなぁ。だって見てたもん。今日の体育は男女合同だったっしょ?」
俺は自分の記憶を辿るも正解は出てこない。なら今頼るべきは記憶ではなく、要所の判断と予測。まさかこいつ、俺と同じクラスか?
「あ、ちょっと待って。その顔、もしかしてあたしのこと知らない!?」
「まぁ」
「嘘! クラス替えしたばっかとは言ってももう一か月経ってるんだけど!? あ! だからさっきから敬語で喋ってたの!?」
テープとガーゼを張り終えると同時に彼女は弾かれたように後ろへ下がると口元に手を当てて信じられないというような表情をする。
そんなことを言われても仕方がない。だってクラスの奴なんか健人ぐらいしか知らないし、そもそも俺から見たらギャルなんて全員同じに見える。
「はぁ~、ショック」
そして今度は落ち込んだ様子で頭を抱える彼女はなんとも表情豊かだ。
「すみません」
「謝らくていいし、あと敬語もやめて」
睨まれた。ギャルに逆らって、とんでもないムキムキの男を召喚されてボコられるなんてことは是非とも避けたいので素直に従っていくことにする。
「あたし、
はじめましてと皮肉をたっぷりと込めた楠木柚子と名乗る彼女。その名前は初めて聞いた割にはとてもしっくりと来る。それはきっと彼女の黄色の髪と、果物の柚子の色が似ているからだろう。
それに前髪に付けた緑色の髪飾りも葉っぱの形をして、まるで柚子を擬人化したかのようだし、もしかすると彼女自身が自分の名前に寄せているのかもしれない。
「わかった。とりあえずありがとう楠木」
せっかく教えてもらったので早速呼ばせて貰う。当然苗字の方。いきなり名前を呼べるほど俺はできた男でも人間でもないし、楠木が俺のことを佐保山と呼ぶのだからこれでいいはずだ。
「いいって、それより佐保山の家ってこっち方面だったんだね」
「あぁ、向こうの跨線橋超えたらその下にあるアパートに住んでる」
「アパート? 佐保山、一人暮らしなの?」
うん、と俺が頷くと再び楠木は口元に手を当てて驚いた表情。
「えぇー! ウソ! なんでなんで!? ご両親は?」
「東京の実家に住んでるよ」
「ていうと、佐保山はわざわざこっちに引っ越してきたの? じゃあじゃあ、お金とかどうしてるの? バイトとか?」
「いや、一応仕送りも送られてくるしこっちに祖父母が住んでるからたまに助けてもらったりしてる」
バイトなんて死んでもやりたくない。
「へー、ご飯とかどうしてるの? 自炊?」
「カップ麺とかパンとか食ってる」
「そんなので栄養足りるの? 炭水化物ばっかじゃん」
「今もこうして生きてるってことは大丈夫だろ。割と昔から燃費は良いほうだし、それに――」
そこまで話したところで俺は口を噤む。
何を話しているのだ俺は。自分の近況をこいつに伝える必要なんてまるでなはずなのに、どうして家まで教えているのだ。それはまるで知り合ったばかりの人間同士が仲良くなるためにする他愛のない話そっくりだ。
背筋が凍る。自分のしていた事に。誰かと楽しそうに話をする自分を俯瞰で見た気がして恐ろしくなった。
俺が会話を止めたことで若干の間無音の空間となる。いいチャンスだと思い俺は今度こそ帰ろうとするが、
「ほんと、サボテンなんだね」
その言葉に、俺の思考は完全に楠木へと吸い寄せられた。
「サボテンってね、葉や茎に水分や栄養を蓄えることができるの。だから少しの水分でも生きていけるからすっごく低燃費。サボテンと言えば砂漠だけど、この貯蓄機能があるからあんなカラッカラなとこでも枯れないで立派に咲いてるんだよ」
楠木が言っているのは植物のサボテンのことなのだろうが、何故か俺までくすぐったい気分になる。
「あと、サボテンって夜型でしょ」
「? それどっちに言ってるんだ」
「両方。佐保山、いっつも学校で寝てるでしょ? どうせ夜更かしでもしてるんじゃないかと思って。植物のサボテンもね、夜に光合成をするの。正確にはCAM型光合成って言ってね、うーん。夜にお菓子食べて太っちゃう、みたいな? ちょっと違うか」
「詳しいんだな」
今の女子の間ではサボテンの予備知識があるのが当たり前なのだろうか。そうだとしたら俺が世間との交流を拒んでいる間に随分と変わったものだ。
「うち、花屋なんだよね」
楠木は少し恥ずかしそうに、はにかんで言う。
「あの、スワローってお店分かる? あそこの商店街にある」
「あぁ、見たことがあるかもしれない」
楠木が言っているのはおそらく先ほど通ったエセ商店街のことだ。確かに店が立ち並んでいるため商店街というカテゴリに該当するのだろうが、そのほとんどが老舗で、いつ開いているのだかも分からない状態のオンボロばかりだ。その中にひとつだけ、青の洒落た外装の小さな店があった気がする。
「そこであたし、色々手伝いとかもしてるからさ、ちょっとは花とか詳しい」
頬を掻いて若干自慢げな楠木。
なるほど、花屋の親なら娘に柚子という名前を付けるのも納得がいく。
「ん? でもスワローって燕って意味じゃなかったか?」
気になった点を俺が挙げると、楠木は困ったような顔で「そこ突っ込まれちゃうかー」と笑ってみせた。
「お店を開業するときにね、お母さんがイカした名前がいいって言って、私はガーベラとかそういうんでいいんじゃないって言ったんだけど、お母さんが花の名前の花屋ってなんかそれしか売ってないのかって感じがして嫌じゃない? って言ってそのまま完全に語感だけでスワローに決めちゃったの。それが燕って意味なのを知ったのは私が中学で英語を習ったとき。どうりでお客さん来ない訳だってお母さん笑ってた」
話を聞いただけで楠木母の天真爛漫さが伝わってくる。
「まぁそんなわけで絶賛集客中だから、よかったら佐保山も今度来てみてね。って、男子はお花とか興味ないか」
「まぁ、そうだな・・・・・・」
金を出してまで花が欲しいかと言われれば、否だ。
ふと、俺はあることに気付いた。
「てか。じゃあ楠木の家ってこっちじゃなくないか?」
俺はとっくにあのエセ商店街を通り過ぎていた。なら楠木がここにいるのは不可解だ。
「あー、うん。ちょっと用事があって寄り道をね」
なんとなく誤魔化しているような雰囲気を感じたが、特に深い詮索はしない。別に興味もないし。
「じゃ、じゃああたし手伝いもあるからそろそろ帰るね。バイバイ佐保山」
「え? あぁ」
何故かぎこちなく挨拶をして、くるりと回って小走りで去っていく楠木は何回かこちらへ振り返り手を振っていた。突然声をかけてきたと思ったら突然帰るその縦横無尽っぷりに俺はひとつ息をつき、額に張られたガーゼを触る。まだどこか柑橘系の香りが残っていて、風が吹くたび鼻をくすぐる。
はぁ、ともう一度。今度は深いため息。
何やってんだろうな俺。
こんなくだらない、何の生産性もない、ただ時間を浪費するだけの他愛もない話をしたのは何年振りだろうか。多分、丁度一年振りだと思う。あの、入学当初の偽りの仮面を被っていたころの俺を思い出す。
「くだらない」
俺は地面を蹴りながら、誰もいないオンボロアパートへと帰った。
その日はどうもアニメを見る気にはなれず、シャワーを浴びた後、すぐに布団にくるまった。
疲れる。やはり人と関わるのは非常に疲れる。体力面でも、精神面でも。明日はひっそりと一日を過ごそうと、そう決心した俺は目を瞑り、夜の光合成の話を思い出しながら眠りについた。
この日をきっかけに、俺の日常が変わっていくことも知らずに。
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