チェロ弾きと小屋の鍵

 先日の失神以来、古川の運動の時間はより厳重な監視下のもとに行なわれるようになった。それが功を奏したのか、ラジオ体操中に倒れることはもはやなかった。

 ところがその日の朝食、デザートの糖分がいつもより多かった。普段あまり甘いものを摂取しない古川には、それが災いとなった。運動後、昼食時に突如血糖値のバランスを崩したのだった。手足が痺れ、やがて痙攣が起こった。そしてまた目の前が暗くなった。しかし古川の心に恐怖はなかった。またあの人に会える。そう思うとワクワクする気持ちさえ生じた。


**********


 気がつけば、いつか来たあの岩場にいた。古川はあの小屋に向かって歩いて行った。ところが小屋は閉まっていて辺りはひっそりとしていた。取手を引いても施錠されていて扉が開かなかった。よく見ると扉の横に鍵が掛かっていた。それは黄色いプレートが黒い紐で結わえてあるもので、古川はそれに見覚えがあった。そしてその記憶が甦るとともに、古川の胸は強く締め付けられた。

「うわああっ」

 古川は腰を抜かしてその場にしゃがみこんだ。立ち上がることが出来ない。しばらくすると、誰かの手がその鍵に手を伸ばした。あのチェロ弾きの青年がやって来たのだ。青年はその鍵で小屋の扉を開いた。

「やあ、よく来たね。さあ、おいで」

 青年は手招きするが、古川は首を横に振った。彼の顔すらまともに見ることが出来なかったのだ。「どうしたんだい。話してごらん」

 古川はしばらく黙っていたが、やがて意を決して話し出した。その鍵にまつわる出来事を。


 古川は中学生の頃、クラスメイトからいじめられていた。休み時間になると、清掃用具入れのクローゼットに閉じ込められ、鍵をかけられた。その狭い空間の圧迫感はとても苦しかった。ある時、教室の片隅にクローゼットの鍵が放置されているのを古川は見つけた。古川は思った。この鍵さえなくなれば閉じ込められることはない。そうして辺りを見回して誰も見ていないことを確認すると、古川はその鍵を盗んだ。

 やがて、クローゼットの鍵がないことがクラスの中で問題となった。放課後のホームルームでは担任がいつもそのことを話題に取り上げた。隠している者は、速やかに返しなさいと。担任の先生は普段おとなしかったが、時折発作的に癇癪を起こした。何日も鍵が出てこないことに苛立った先生は、ついにホームルームで暴言を吐いた。

「こんなに人を困らせて一体何が楽しいんだ! そんな奴は最低のクズ野郎だ!」

 クラス全員に緊張が走った。そして古川はこの時初めて自分のしたことがどれほど悪かったか思い知った。しかし先生にあそこまで言われてしまうと、今更名乗り出ることが出来なかった。それから古川はずっと罪責感に苛まれた。担任の顔をまともに見ることさえ出来なかった。鍵を隠し持っていることが苦しくて、近所のドブ川に投げ捨てた。しかし泥流は古川の罪責感までは流してくれなかった。やがてクローゼットも新しくなり、鍵のことはクラスの誰もが関心を向けなくなった。不思議と古川がクローゼットに閉じ込められることもなくなったが、古川はもはや償いようのなくなった罪の重荷に苦しめられた。


「で、でも、いじめてた人、もっと悪い。いじめなかったら、僕、鍵隠さない」

 古川が弁解するように顔を上げて見ると、目の前にいたのは青年ではなく、かつてのクラスメイトの一人、高田慎吾だった。

「し、しんご、どうして?」

 高田はカナー自閉症で、古川よりもずっと重度の障害を背負っていた。古川は自分よりさらに弱い高田をいじめていたことがあった。古川はその時のことを時々思い出しては罪責感に苛まれていた。

 おののく古川を、高田はじっと見下ろしていた。中学生の頃と同じように、その表情からは心が読み取れなかった。

「ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい……」

 古川はひたすら謝った。そうして頭を下げていると、あのチェロの音が聞こえた。心を癒やすような、優しい旋律だった。ふと顔を上げると、すでに高田はいなくなっていた。やがて青年はチェロを置き、古川に近づいた。

「僕の手を見てごらん」

 そうして開かれた両手の平には、釘の刺さった傷跡があった。「僕は十字架にかけられて死んだんだよ。君が今思い悩んでいる、その罪のためにね」

 古川は後ずさった。

「僕を……恨んでるの?」

 青年は首を横に振った。

「まさか。君が救われることを喜んでいるよ。君はもう何にも心配いらない」

「何にも、心配いらない?」

「そうだ。僕を信じるかい?」

 古川は頷いた。すると、青年は彼を小屋の中に招き入れた。

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