生存者 二十一
ドア・ブリーチングの痕跡だろう、周囲には木材の焦げたような匂いが漂っている。強烈な火薬の匂いもだ。にもかかわらず、ケネスがゴートに近寄ってきた途端に、甘ったるい、胸の悪くなるような整髪量の香りが鼻を衝いた。不快感という意味においては後者のほうが遥かに影響が大きかった。
ゴートは相手を真正面に見据えて言った。
「当然だ、グリーン。いいタイミングで来てくれた。実は、ちょうどきみに会いたいと思っていたところなんだ」
聞きたいことは山ほどある。
「そうですか、それはよかった。約束もなく訪ねたものですから、追い返されても仕方がないなと不安に思っていたんですよ」
「動機はなんだ、なぜ取り決めにないことをした」
彼は相手に先んじて切り出した。その行動に裏には、非難の意思をことさらに強調したいという思惑があった。そうすることでケネスのリアクションを誘発し、何かしらの情報を引き出せないかと試みたのだ。
ところがケネスの心情は不透明そのものだった。目、口、鼻頭、手指から首筋の血管に至るまで、およそ内面を窺えるような要素というのは見て取れない。意識的に整えた笑みや手の組み方といったものが、不要な感情の表出を抑えているのだ。そういった彼の掴みどころのなさというものは、その声にもまた現れていた。
「情が移ったのですよ。あなたとジャッカル様が見せた熱意に心を打たれた、といったところでしょうか」
「さすがにそれは通らんよ」
「そうですか、通りませんか」
ケネスはさらに言葉を続けた。軽快かつ溌剌とした、好感を強いるような声色で、だ。
「しかしね、フィッツジェラルドさん。商売のためだと言ってしまうのは良くない。冷たい感じがするでしょう? お金のためだなんて」
「まさか市場の獲得が狙いか? このサウスランドシティに、本格的に進出してこようとしているのか」
「ええ、一部にはそういう目的もあります。まあ正確には獲得ではなく、開拓、と言うべきなのでしょうが。つまり、新たなる需要の創出、あるいは業界の活性化ということです」
「そんな物をばら撒くつもりか」
ゴートは部隊のうちの一人を顎で指し示しながら言った。彼の口にした「そんな物」という言葉は、男が構えたマシンガンを差したものである。
「ええ、そのつもりです。もちろん御用入りであればですが」
「馬鹿を言うな! この街は戦場じゃないんだぞ」
「失礼、フィッツジェラルドさん。お言葉ですが、あなたがそのように憤るのはいかがなものでしょうか? 『デモニアス』と申しましたでしょうか、例のギャングたちは。彼らも、リーダーとその跡取りを同時に失ったからには、いかに隆盛を極めた一大勢力と言えど弱体化は免れません。つまり、地域で最大の縄張りを持つ武力組織がはっきりと弱みを見せたということです。そうなれば、その後の展開は誰にとっても明らかではありませんか。有力者の後釜に収まりたいと望むのは誰しも同じでしょう? たとえどんな手を使ってでも、どれほどの被害を引き起こそうともです」
「だからこそジャッカルがいるのではないか。横から手は出さないと、そう取り決めがしてあったはずだぞ」
力なき者たちの反逆であること。声なき者たちの警句であること。それがジャッカルの存在する意義だ。それこそが、この寡黙な闘士の創造に際しゴートが込めた祈りだ。
次に支配者の冠を戴くのが誰であれ、もはや玉座は安泰ではない。この街にはジャッカルという前例がある。魔王を殺めた男の存在が。
ケイン・マルドネスの死とそれに連なるデモニアスの瓦解は、一種の警告でなくてはならない。次なる暴虐と圧制に対する抑止力でなくてはならないのだ。
そういう意味を持つはずの死、強大なる暴君の破滅が、特定の団体の利益や個人的な野心の糧などにされたのでは報われない。あの運び屋も、スタンリーも、ザックも、また彼らと同様の不条理に苛まれ、生命や、それと等しいほどの存在を奪われた数多の魂たちは決して納得しないだろう。
そうしたゴートの憤慨とは対照に、ケネスはあくまでも冷静な態度を崩さなかった。
「もちろん私だって、あなたがたのご都合に干渉する気はありませんでしたよ。余計な手出しをして、話をこじらせでもしたら一大事です」
「だったら――」
「しかし、あなたは私の予想以上にご熱心でいらっしゃいました。素人が要人の暗殺を試みるなんて馬鹿げたアイデアを、現実に実行してしまったのですからね。相手のご子息を殺めた時点で後戻りや撤退という選択肢はなくなりました。もう冗談では済まされない。以降、仮にあなた方の予定が狂い、計画の全容が敵に知られるようなことにでもなれば、あなたや私だけではなく、私の知人にまで累が及んでいたことでしょう」
ケネスもまた、何らかの勢力に属する人間であることに変わりはない。たかが小銭を稼ぐために、割に合わぬリスクを負うわけにはいかない。一人の個人としても、また、一軒の販売業者としてもだ。彼が予定にない暗殺の補助を決行させたのは、知らぬ顔を決め込んで逃げ出すよりも、禍根の元を断ってしまうほうが確実だったからだ。
「正直に言えば私も、それに私の上役もですが、あなたがあれほど相手方に切迫するとは思っておりませんでした。失礼な話ですが、下っ端を数人仕留めたていどで行き詰るのではないかと、そういうふうに踏んでいたのです」
「私とジャッカルの健闘は誤算だったということか。とんだ言い草だな」
「滅相もない! いいですかフィッツジェラルドさん。あなたは私どもに多大なるチャンスを授けてくださいました。ご心配は不要ですとも。デモニアスの首を獲ったのが誰かなど、我々は吹聴するつもりは毛頭ございません。真実はどうあれ、解放をもたらしたのはあなた自身、他ならぬあなたとジャッカル様ご自身なのです」
「解放だと?」
「そのとおり。既得権益、逼塞感、予定調和からの解放! それらに根差した歪な秩序から、あなたは欲望と混沌を解き放たれた。フィッツジェラルドさん、いえ、本名はフィデリオ・バーンシュタイン氏。そしていまはゴート氏」
ケネスの顔から笑みが消える。すっと背筋を伸ばしつつ、向かい合うゴートに鋭い視線を向けると、ケネスは壇上の判事を思わせる厳めしい声で告げた。
「自覚するべきでしょう。あなた方は〝怪物〟をお造りになった。少人数の暴力による政変の、その実例というものをです。遠い過去や遥か海峡の彼方ではなく、まぎれもなく現代の合衆国における実例を。そして、私と傭兵たちはその第一の被害者です。身に降る火の粉を払うために、我々は望まぬ殺人に手を染めなければなりませんでした。同様に、あのケインなる男は第一の犠牲者だと言うことができるでしょう。襲撃者を見事に退け、一連の危機を乗り切ったにもかかわらず、結局は彼も命を奪われました。それも、その殺害を望まぬ者たちの手によってです。これだけ大きな影響をもたらす一大事を、いまは個人の計画から実行できる。あなたが人々に証明して見せたのは、そういうことに他ならないのですよ」
そこで言葉を終わらせると、ケネスは部隊に合図を出した。挙げかかった手を前に倒すような比較的小さい動作だった。それから数秒と経たないうちに、ゴートは二人がかりで地面に組み伏せられた。迅速で的確。反抗の余地もない動きだ。彼にとって唯一の武器だった拳銃は、ほとんど気付きもしないほどのあいだに、その手から奪い取られていた。
片方の頬が床に押し付けられる。苦しげに息を荒げながらも、ゴートは目線を上げて対話の相手を睨み付けた。
「私をどうするつもりだ」
彼のその問いに応えるケネスは、早くも元の笑みを取り戻していた。
「ご安心ください。これよりのち、下手にご抵抗なさらなければ、手荒な真似はしないと誓います。ただ身柄だけは拘束させてください。なにせ我々もあなたに何かあっては困るのです。あなた方の闘争は終わってなどおりません。なぜなら、怪物はまだ産まれたばかりに過ぎないのですから」
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