生存者 九
九
その部屋への対策は、ゴートにとっては大きな課題であった。
それはいわゆる「パニックルーム」の一種である。ナイトクラブ、マーキュリーサイドの最奥部に位置し、堅牢な合金製の壁に覆われたその一室は、部屋というよりはむしろシェルターに近しい代物だった。防弾・防爆性に優れた壁面。外部を見張るための監視装置。数名が立て篭もるにも充分なほどの広さに、豪奢なインテリアまで備え付けられた室内空間。篭城に必要な各種の物資と設備。
そのうえ、たった一つしかない出入り口の扉は、オーナーのアレックスかその父親たるケイン・マルドネス、あるいは親子が最も信頼する側近連中にのみロックが解除できる仕組みになっている。
父親の用心深さか。それとも息子の狡猾さか。いずれにしろ、その部屋はマルドネス親子を不慮の事態から遠ざけることを第一の目標として設計されていた。
最初の関門は門前に控えるボディガードこと、計二台の防衛システムの存在だ。しかしこれに関しては、すでに解決法は考えてある。
いかに優秀な索敵プログラムといえど、天井裏の鼠まで対処するようには設定されていない。ならば鼠となって配線を齧るまでだ。より具体的に言うなら、鼠代わりの小型ロボットを防衛システムの設置個所まで移動させ、天井内部に存在する配線や電子部品そのものに直接ダメージを与えるということだ。可能ならソフトウエアをハックするほうがよりスマートであるのだろうが、このさい手法など選んではいられない。ハードウェアへの攻撃はアナクロな発想ではあるが、厄介ごとの解決法というのは大抵、シンプルであるに越したことはないのである。無論、「それで効果を得られるなら」という限定さえ忘れなければ。
そういうゴートの持論を証明するかのように、彼の操作する小型ロボットは見事その使命を全うしてみせた。いまや防衛システムは完全に沈黙している。いまジャッカルの視界に映り込むそれらは、まるで発条の壊れた時計の如く青ざめた顔で虚空を睨み付けるのみだ。今となっては、彼らに与えられた任務を果たすだけの力は残されていない。
ともあれこれでひと段落、と言いたいところだが、本当の問題はここからだ。なにせ、厳重なロック機構で閉じられたチタン合金製の扉を、これからどうにかこじ開けなければならないのだ。ぼやぼやしてはいられない。計画を次の段階へと進めるべきだ。
このときゴートは、自宅の屋敷に用意してあった狭苦しいモニタールームにいた。種々の通信機材や作戦の遂行に必要な資料などが置かれた部屋だ。まるで樹木の根のように電気コードが床じゅうを這いまわるその部屋の中から、彼はジャッカルのバックアップを行ってきた。
ゴートは手元の機材を操作した。ジャッカルに搭載された通信機を呼び出すためだ。直後、暗い室内に確認用のコール音が鳴り響いた。ジャッカルの耳に届くのと同種の音である。それから二回同じパターンが繰りされたあと、やがてそれは音声へと移り変わった。
「こちらジャッカル」
その応答の声を確認してから、ゴートはヘッドセットのマイクに語りかけた。
「ゴートだ。防衛システムはダウンした。いまなら行けるぞ」
「了解。扉に接近する」
ゴートの目が見据える通信機材の画面には、ジャッカルの視界をそのまま転送したものが映し出されている。このときそこに見えたのは、床や壁にいくつかの弾痕が残された、細長い通路の風景であった。またジャッカルの足元には、ぼろぼろに千切れ飛んだジャケットの欠片と、金色に輝く薬きょうとが、それぞれいくつも散らばっているのが確認できた。
通路の突き当りには扉が見えた。例のパニックルームに通じる唯一の通用口だ。ただし、ジャッカルが立つ通路側から見えているのは、なんの変哲もない木製のドアに過ぎなかった。問題はそれが二重扉であることと、そのもう一枚の扉というのが極めて頑丈な造りをしているということだ。当然、力任せに開くような代物ではない。
そういう場合、やるべきことは一つだろう。つまり、戸が駄目なら鍵をどうにかするまでだ。ジャッカルは彼自身の目線を、ドアの取っ手にほど近い壁面へと移動させた。彼の目が見つめる先には、タッチパネル式の小さな操作盤と生体認証用のスキャナーとが並んで設置されていた。見た目のうえではカメラ付きのインターホンに近い様子のものだ。
そういったものを青く輝く画面上で確認しつつ、ゴートは言った。
「いいぞ、アクセスを許可する」
「アクセス許可、了解」
ジャッカルの行動は実に素早かった。彼はまっすぐドアに近づくと、それを操作すための二種類の装置に対して、それぞれ一発ずつ肘うちをくらわせた。するとそれらの機械は、火花の閃きと焦げたような匂いを発したのち、やがてひびだらけのガラクタへと変貌を遂げた。
言わずもがな、そんなことをしたところでロックが解除されるはずがない。そのていどで鍵が開いてしまうのなら、予期せぬ暴力を退けるためのパニックルームとしてはまったくの出来損ないということになってしまう。
実のところ、この関門におけるゴートらの狙いというのは、外から強引に侵入するということではなかった。操作盤を破壊したのはあくまでも、このあとの都合に基づいた行動だ。
固く閉じられた門を開く一番の方法は、適切な鍵を用いることだ。今回の場合、門の鍵はその主が握っている。ならばその主の手を借りればいい。相手が自ら望んで外に出てくるよう、燻り出してやればいいのだ。
そこでゴートはいったん、メインモニターから離れると、別の機材へと向き直った。そうして移動した先にもまた、やはり青白い光を発する画面があった。しかしそこに映るのは映像ではなく、多数の文字と数字の組み合わせというものだった。
彼は静かに作業を始めた。かたかたと音を立てながら、キーボードで命令を打ち込んでいく。この機材から発せられる信号は衛星インターネットアクセスを介して、その命令を待つ別の機器へと送信される仕組みになっている。そしてその別の機器というのは現在、例のナイトクラブの換気扇内部に設置されている。それも、パニックルームのほんのすぐ真横に、だ。ジャッカルが清掃員のロング氏に成りすましたのは、まさにこの下準備のためだった。
その機器を端的に表すなら、それは有毒ガス発生装置ということになる。エアダクト内の空気の流れを遮断するとともに刺激性のガスを発生させ、それを目標範囲内に充満させることが、この仕掛けに課せられた主な使命だった。それらの目的が確実に遂行されるよう、装置はバックアップも含め複数個が用意されていた。
ガスそれ自体は非致死性兵器としての性格を失わないために、濃度を調節しつつ散布される手筈になっている。また防毒マスクのたぐいで対処されないよう、表皮に対する接触でも効果を発揮する成分を選択してあった。
そうした厄介な有毒成分が、複数の通気口を通じて一挙にパニックルーム内を侵略するのである。被害を受ける側にしてみれば、正体もわからぬものに肌を切り裂かれ、目鼻を焼かれるような思いであるに違いない。室内の混乱は必至だ。内部に何人いるのかは定かでないが、どうあれ長く室内に篭もり続けることはできないはずだ。
そういう期待と、計画に齟齬が生じることへの不安感とがゴートの時間感覚を狂わせた。眼前の画面に映る「作動済み」の文字と、とくに新しい動きの見えないジャッカルの視界とのあいだを、ゴートの目は何度も行き来した。その間、彼の周囲に存在していたのは、息が詰まりそうなほどの静寂のみであった。
例えるなら防護ネットのない綱渡りか、でなければ、人の運命を支配する者との対面といったところだろう。栄光か破滅かという両極端な未来の可能性が、動かしがたい現実に変わる瞬間。決定的な判決の時。それほどの緊張の只中に、このときのゴートは置かれていた。
彼は試しに、パニックルーム内の状況を想像してみた。
まず最初に、天井からもやが降り注ぐはずだ。視界を遮るほどの濃い霧が、白い濁流となって室内を覆いつくす。それは急激ともいえる速度で成長を続けながら、やがて空間という空間を埋め尽くすことになるだろう。毒はありとあらゆる隙間に入り込む。人間と人間、家具と家具、肺と気管のあいだにもだ。
機転の利く者はガスマスクの一つでも見付けたかもしれない。しかし、その手柄を上げたのが誰であろうと、結局のところ戦利品は主人の手に渡るはずだ。つまり、アレックス・マルドネスのその手中に。
アレックスが中にいるのは間違いないとして、あとは何人だ? 手下の二人くらいは護衛につけているだろうか。あるいは、この部屋が平時にはオーナールームとして使用されていることを考えると、運悪く巻き添えをくった人間もいるかもしれない。その人物にしてみれば理不尽極まりない話であろう。
しかしながら、いまさらになって作戦を中止することはできない。いくら凶悪なギャングたちが相手とはいえ、このクラブの中だけでもすでに十五人は殺害しているのだ。後戻りが利く時点というのはとうの昔に過ぎている。
そうだ。もはやじたばたするような段階ではない。たとえどんな結末を迎えようと、あとはそれを受け容れるのみ。そうする以外に、いかなる道も残されてはいないのだ――。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます