生存者 三
三
人体を寝かせるための台が中央部を占め、その真上には台を覆い隠さんほどの巨大なライトがある。ごちゃごちゃと居並ぶ医療機器は雑多な印象を与えるが、反面、壁にも床にも汚れ一つなく、清潔感というのは申し分ない。そうした清潔さに限っていうなら、ここはこの広い館の内部でも最上位に位置する一室であった。そこは紛れもなく、手術室というものに相違なかった。
台の上にはロングが横たえられていた。正しくは、オースティン・ロング氏の顔と人生とを借り受けたジャッカルが、だ。
ロング自体はこの街に実在する人物である。ややズボラな性格ではあるが、かといって不真面目だと評するのも相応しくない働き者の清掃員。いまいちぱっとしない見た目の若者である。ジャッカルはこの一ヶ月間、そのロング氏に成り代わって行動をしていたのだ。
それなら当の本人はどうなったのか、ということだが、実のところこの時点ですでに、ロング氏は遥か欧州の僻地にいた。もうかれこれひと月以上、長いながいバカンスに出かけているのである。ジャッカルとこの男の手びきによってだ。
「その顔にもそろそろ飽きてきただろう?」
意識のないジャッカルを前に、男はひとり呟いた。彼こそジャッカルの守護者にして通信手、くだんのゴートその人である。彼は今年で六十一歳になる。歳相応に増えた白髪は、すべて几帳面に染められている。手足が長く、身体全体のシルエットとしては細身であるが、必要十分な筋肉は備わっているという身体つきの男だ。
彼はこのとき、度の入った頑丈なゴーグルと、袖の部分が長めに取られたゴム手袋というものを身に着けていた。これからここで行われる行為に際しては、それらは正しい装飾だといえた。備えあれば憂いなし、だ。ただ、手術衣というのは身に着けていなかった。たとえ医療行為を行うとしても、医者の格好まではしない。それが彼なりの取り決め、ひとりの闇医者として生きるうえでのルールだった。
さらに言うなら、ほかの人間に対する場合はどうあれ、これからジャッカルに対して行われる一連の作業というのは、治療ではなく単純な交換と呼ぶべき行為なのである。
ゴートは、彼自身の右手の人差し指を仰向けになったジャッカルの首筋に添えた。顎と喉とのちょうど境目、顎骨と首の筋肉との隙間にあたる部分だ。ジャッカルの構造上、抵抗の弱いその部分に対し、彼は煌めくメスの刃先をあてがった。
僅かな力で事足りた。鋭利な刃が滑り込むように皮膚を切り裂き、呆気なくその内側に到達する。そこで彼は、対象に不必要な損傷を与えないよう、注意深く手首をずらした。途端、見るからに皮脂らしい「化粧」の施された表皮に線が浮かんだ。黒く、鋭い切れ込みだ。
その黒い線が二インチほどの長さに達したところで、ゴートはぴたりと動きを止めた。そうしてから、また慎重に、今度はメスを支える手首を固定しつつゆっくりと肘を上げた。刃先をジャッカルから離したのだ。
黒一色の人工血液に濡れた切っ先はしかし、なおも白銀の輝きを失ってはいなかった。粘度を感じさせる質感にその表面を覆われてはいたが、芯の部分に見える光沢感はいまだ健在である。同じ系統の色をしたトレーの中にあってさえ、それはひと際に輝いて見えるようだった。
そうしてゴートは右手を空けると、その人差し指を再びジャッカルの首に当てた。しかし今度は最前とは異なり、指の先端は皮膚の内側にまで到達していた。切り込みを入れたのはこのためだったのだ。続けて彼は、筋肉や血管、あるいはそれらを結ぶ腱といった物を避けつつ、顎関節の下部まで指先を進ませた。そこにスイッチがあった。
かちり、と何かが噛み合うような感触が、ジャッカルの頭部全体に伝わった。と同時に彼の顔の中心部を線が走る。まるで見えない刃物に切り裂かれるかのように、縦一線に表皮が裂ける。
それは蕾が花開く瞬間にも似ていた。できたばかりの直線に沿って、皮膚と筋肉とが綺麗に剥がれ落ちる。しつこく纏わり付く血液と、黒々とした人工頭蓋だけを残し、やがてロング氏の顔は形を失った。これもまた、正しくはロング氏の顔を模した部品が、だ。ゴートはそれを取り上げると、さして興味も引かれないというような調子で、合成皮膚と人工筋肉の塊を足元の金属バケツに放り込んだ。彼にとってこの手の物体は、さして珍しいものではない。西暦二〇九四年現在、義顔は一部の人間にとっては普遍的な技術となっている。また今回に限った話をするなら、このロングの義顔を用意したのはほかでもない、ゴート自身であったのだ。
それからゴートはまた別の交換用部品を取り出しながら、いまや完全な素顔となったジャッカルに視線を向けた。多種の複合材料からなる頭蓋骨。その眼窩に収められた両目は、宵闇を内に閉じ込めたガラス玉というような様相だった。
「なんだ、メイクがないほうが男前じゃないか」
しんと静まり返った一室に、またしても老ゴートの声が漂う。いかにも冗談めかした口調だ。気付けば、彼は目じりに皺を浮かべていた。付き合いの長い友人に向けられるそれと同種の、親しみのこめられた彼の目が、部屋の中心で小さく光る。血の匂いに溢れんばかりの、その密室の中心で。
四
翌日、館の応接室でのこと。
低い角度で斜めから差す陽光が、あらゆる物の影を長く象っていた。アール・デコ調のカフェテーブルに、四客一揃いのソファ、目の覚めるようなスカーレットカラーのカーテンと、それらのすべてに光を注ぐ、艶やかな曲線をたたえたシャンデリア。室内全体が心地良い調和に包まれる。全体的に物が少なく、雑音がない。目指すイメージは確かでありながらも、決して押し付けがましくはなく、どこか奥ゆかしさを想起させる風情があった。この内装というのはひとえに、この屋敷の主たるゴートの趣向によるものであった。
彼はそのとき、一人がけのソファに座していた。細身のスラックスに包まれた脚を組み、頬に微笑を浮かべながら、ゆったりと背もたれに寄り掛かる。柔らかい曲線を浮かべたその両目は、手ごろなサイズのカフェテーブルを挟んだ対面へと向けられていた。
そこにはいまのゴートと同様、あくまでリラックスした様子の客人の姿があった。折り目正しいグレーのビジネススーツが清潔感のある顔を乗せて佇んでいる。そんな印象を与える男だった。高級外車のセールスマンにも見える。名はケネス・グリーン。少なくとも、ゴートの手元に置かれた名刺にはそういうふうに記載がしてあった。
そのケネスに対し、彼は静かに訊ねた。
「それで、どうだねその後は?」
やや鷹揚にも響く声が室内に広がる。低く、かつハリがあり、威厳に溢れた声色だ。
対するケネスは、実に軽快にそれに応えた。溌剌という言葉がよく似合うタイプというのか、やはりセールスマンだ。
「ええ、フィッツジェラルドさん。非常に順調ですよ。目立つ遅れもなく、手配は着々と進行されています」
その弁舌に含まれた「フィッツジェラルド」の姓は、ゴートを指し示す呼び名で相違なかった。洋館の主人であり、ある種の医療技術者であり、ときにゴートと自らを称する者。ミスター・バリー・フィッツジェラルド。
「それは何より」
「それで、今日はサンプルをお持ちしたんです。サービスの一環として」
そう言うとケネスは、手元のティーセットをテーブルの端に寄せた。さも大事そうに両手を添えて、だ。
取引相手の所持品にまで敬意を払う。そうすることで、彼は最上の尊敬というものを商談相手に示そうとしたのだ。無論、ケネスの言動はそのすべてが商売のためである。表情一つ、所作一つ、言動や振る舞いの端々に至るまで、まったくすべてがビジネス用に用意されたものだ。
そのビジネスにおいて彼が取り扱う品物を、ケネスは持参して来ていた。電子制御のタグが取り付けられた、樹脂製のトランクの内側にだ。その容器は書類かばんほどの大きさで、なかなかに分厚くしつらえてあった。
ケネスはゴートの表情をちらりと見やったあと、手際よくケースのロックを解除した。直後、黒い胴体が上下に開いた。いよいよ内部が明らかになる。
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