「ジャッカル」と「ゴート」 六


    八


 夜の帳が下りた。作りの古い立体駐車場に、華やかな街の明かりが降り注ぐ。どこか艶やかにも感じられるその光おかげか、愛想のないコンクリート製の壁や、同じ材質の柱の列にも、ほんの少しは彩りというものが見て取れた。

 時刻は深夜の一時だ。日付が変わるまではちらほらと見えた車の動きも、いまはもうどこにも認められない。まるでこの建物全体が寝静まってしまったかのように、無色透明の静寂だけが車両同士の隙間を埋め尽くしていた。

 ザックは愛車のシートにもたれながら、じっと時を待ち続けた。必ずしも待たなければならないわけではなかったが、いずれにせよ考えを纏めるためには、いくらかの時間が必要だった。

 長く黙したままの彼の隣にはジョシュア・ハーヴェイの姿があった。この不運な運び屋の若者は現在、気を失った状態で助手席に固定されている。意識はないが呼吸それ自体は安定しており、一見したところではただ単に眠っているだけにも見える状態だった。

 例のハンバーガー店で「獲物」の身柄を押さえたあと、ザックはすぐにこのパーキングへと車を走らせた。人通りの少ない街の外れ、ほとんど決まりきった人間しか使わないような、寂れた駐車場ビルである。

 本来であれば、この運び屋の身柄というのはそのままデモニアスのもとに引き渡されるはずのものであった。もしそれを実行していれば、すべてが丸く収まっていたことだろう。ザックはスタンリーからの依頼を果たし、スタンリーはマルドネス親子との信頼関係を守る。運び屋たちがどうなるのかは定かではないが、とにかくアレックス・マルドネスが機嫌を損ねることはない。望み得るかぎり最良の結末だ。

 それを理解してながら、しかしザックは決断を遅らせていた。彼はいま、時が来るのを待っている。

 ハーヴェイ青年が目を覚ますか。興奮しきったギャングどもがここに現れるか。それとも、別の誰かが我々を発見するか――。

 運命を賽の目に任せるつもりはない。が、それでも、どうしても何かしらのきっかけが必要だった。ザックにとって、この決断は容易ならざるものであったのだ。

 ゆえに、実際にそのきっかけが訪れた瞬間、彼は彼らしからぬ戸惑いを覚えた。

「あんたは……?」

 助手席から声が届く。運び屋が意識を取り戻したのだ。物理的なショックが尾を引いているのか、彼の表情は甚だうつろである。まだはっきりとは覚醒していないのだろう。

 そういう状態の相手に対し、ザックは内面の動揺を隠しつつ出し抜けに告げた。

「いいかハーヴェイ、よく聞け。俺は探偵だ。お前たち運び屋を追う側の人間だと思っていい。ただ、いますぐにお前を誰かに引き渡すつもりはない。そういう事情があるからだ」

 目線をフロントガラスの先に置いたまま、彼は意識だけを助手席に向けていた。

「なんだって……? ちょっと待てよ、ああ…………事情って、どういうことだ、そりゃあ?」

「話が聞きたい。いまのお前と同じだ」

「人をさんざん追い回した挙句、殴り倒しておいて話が聞きたいだって? おかしいんじゃないか、あんた」

 どうやら、この運び屋は気を失う直前のことを覚えているらしい。その点に関してはザックも(またずいぶんと丈夫な奴だ)と感心せざるを得なかった。

 しかしそのことはおくびにも出さず、ともあれ彼は応えた。

「お前が逃げなければ追う必要はなかった。それに、ナイフを出さなければ張り倒す必要もなかった」

「よく言うぜ」

「とにかく、抵抗をしてもどうにもならない。必要であれば何度でも殴るが、ときが経つほどに危険性が増すということだけは理解しておいたほうが良い」

「つまり、選択の余地なし、って言いたいんだな?」

「飲み込みが早くて助かる」

 このとき、ザックはあえて、ジョッシュに対するいかなる身体的な拘束も設けてはいなかった。手足を縛るようなこともせず、唯一の武装たるナイフにも手を付けていない。その理由というのは、どうせこれ以上の抵抗は己のためにならないと、暗に示したかったがゆえのことであった。

 それをジョッシュがどう受け取ったのかは定かではないが、ともかくこの若者は遮二無二に歯向かうことはしなかった。何が最善の選択なのかということを、しっかりと考えて行動しているのだ。

「ああ、ちょっといいか?」

 と、切り出したのはジョッシュのほうであった。

「もし、あんたが知ってたら教えて欲しいんだけどさ」

「なんだ」

「ダニエル・ハリスとレイモンド・ディアーコっていう名前に聞き覚えはないか?」

「ああ、知っている。スパイクボーイズのリーダーと、幹部の一人だろう」

「そう、ロクデナシ二人だ。それで……その二人がどうなったかっていうのは……あんた、知らないか?」

 ザックも、ダンがアレックスに連れ去られて以降の消息については詳しくない。反感を買って殺された、と音に聞いてはいるが、裏を取ったわけではない。

 またレイモンドという男に関しては、今日の昼ごろに捕まったという話だけは聞き及んでいるものの、それ以上のことはまったく調べていなかった。あえて根拠のない推測をするのであれば、この男もほかの運び屋たちと同様、いまはデモニアスの管理下に置かれているのだろう。

「アレックスがボーイズらをどうするつもりなのか」ということは、それこそザックの知るところではない。ともあれ現在のところ、明確に死亡が確認されているのはリチャード・ベイカー氏のみであった。この一件はデモニアスにとってもアクシデントであったらしく、尋問に失敗して死なせてしまったというニュアンスで語られていた。

 そういったことを、ザックは簡潔に伝えた。

 ジョッシュは最初、何も言葉を返さなかった。ザックがそうするのを真似るかのようにじっとフロントガラスを――またはその向こう側の、コンクリート製の壁を睨みつけていた。外界から差すネオンサインに照らされた、どこまでも無愛想な壁面を、だ。

 ずいぶんと長く、まるで抽象絵画でも見つめるようにそうしたあと、ジョッシュは不意な調子で訊ねた。

「あんた、さっきダンフォールって言ったか?」

「ああ」

「ダニエルだろう、ダニエル・ハリス。ダニエルの愛称で、ダンだ」

「いや、違う」

 正式な身分証にも、ダンの本名は〈ダンフォール・ハリス〉として記載されていた。逆に、ダニエルと記されているものはただの一つも見当たらなかった。

「本当か? あの野郎ふざけやがって、ずっと騙してたのか!」

 ジョッシュは怒りからではなく、呆れからそう叫んだようだった。その声には、強い脱力感が滲んでいた。

 その後、両手で彼自身の顔を覆い始めたジョッシュに、ザックは訊ねた。

「仕事柄、偽名を使うのは珍しいことではないだろう?」

「そりゃあ、まあな。だけど二年間も一緒に働いていたんだぞ。だいたい、あいつ自身もダニエルだって名乗っていたんだ」

「そうか。しかし、お前以外の大抵の人間は、彼をダンフォールと呼んでいたぞ」

「嘘だろう?」

「からかわれたんだな」

 溜まり場のバーテンダーですら知っているぐらいだ。故意に騙したとみて間違いない。それも、ほかのメンバーも一緒になって、である。

「まったく……ふざけやがって、ガキみたいなことしやがるぜあの野郎、今度会ったらただじゃおかねえ」

 口にしてから気が付いたらしい。勢い込んで言ったその直後に、ジョッシュは力なくシートにもたれかかった。

 今度の機会など、存在しないのだ。

 肉親。学友。そして仕事仲間。日常から知己が消える瞬間の、胸に穴が開くような感覚。深い感傷をともなった虚脱感。こればかりは何度経験しても、慣れることはない。

 またしても急に押し黙った相手を、ザックはしかし急かすことはしなかった。誰しも喪失のショックを受け止めるには時間が必要だ。プレッシャーを与えることがかえってプラスになる場合もあるが、どうあれいまは試行錯誤をすべきときではない。

 両者間の沈黙はしばらく続くかに思われたが、ジョッシュは存外に早く会話を再開させた。

「……あんたが知っているかは、わからないが」

 もしかすると、黙ったままでいることに耐えられなかったのかもしれない。その声は、誰にともなくというような雰囲気だった。

「ダンはもちろんなんだが、レイモンドのほうもな、意外と責任感は強いんだ。基本的には調子のいい奴なんだけど、幹部だからっていうのがあるんだろうな、業務連絡は欠かしたことがないし、半端な情報は絶対に流さなかった。混乱させるだけだからっていってさ」

 この若者の胸には、いったいどんな想いが去来しているのだろうか。どんな風景を、どんなやり取りを、どんな場面を思い返しているのだろう。これまでどういう人生を、この運び屋たちは送ってきたのだろう。

 それらの問いを口にせぬまま、ザックはじっと相手の言葉に耳を傾けた。

「そうか……あいつ、死んだのか……」

 驚くほど、空疎な響きだった。

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