第192話
真っ赤な色をした地獄扉。
その狭間の油膜は赤とは真逆、新緑のような落ち着く色合いを映し出していた。
その狭間からひょっこりと、小鬼よりも僅かに小さいサイズの地獄獣が現れた。当たり前のように現れたそれは、ゆっくりとまわりを見渡すと伊吹童子のところで目を止めた。
「酒呑童子さんお久しぶりですね。いつ以来でしょうか? 以前のお――」
「いいからさっさと癒せ。その王とやらが死ぬぞ」
被せるように、伊吹童子は愛想なく言い放った。
そんないつも通りの伊吹童子を目の前にして、優しく包み込む母のような微笑を木霊は浮かべる。
「あらあら、また虐めたのですか? 私がいないと本当にもう」
可愛らしい木霊と呼ばれるその地獄獣は、ぺたぺたという足音が似合いそうな下手くそな足取りでテンジの目の前まで歩いていく。
ふわりと、テンジの鼻腔に自然の香りが通り抜けてきた。その香りを嗅いでいるだけでも、どこか癒されているような感覚がある。
「どれどれ……十秒ほど掛かりますよ、これ。酒吞童子さん」
「いいから癒せ。もう三分と持たないぞ、小僧の命は」
「分かりましたよ。あまり現世の森の力は浪費したくないのですが、王のためなら仕方ないですね。--『森王ノ息吹』」
ふぅ、と。
一筋の爽やかな風が吹いた。
それと同時に、つい身を委ねたくなるほどの心地よい風と香りがテンジを包み込んでいく。痛みがみるみると引いていく。
その香りは近くにいた冬喜や千郷、九条、炎の元まで僅かに届いていた。
ただ匂いが漂っているだけ。それだけなのに心の底に溜まっていた邪気が洗われていくような。今まで蓄積していたダメージが根こそぎ消滅していくような。体力が無限に漲ってくるような。
本当に今ならなんでもできそうだ。
木霊はそんな効果を周囲に撒き散らしていた。
周囲がその香りに驚き、心地よいと思っていた。
まさにその時であった。
「ルォォォォォォォオオッ!!」
白いモンスターが突然、がむしゃらに地面を四肢で蹴り出しながらテンジに向かって突進を始めたのだ。
もはやなりふり構っていられないと言いたげに、残った片目を血走らせながら、手も足も変わらずに化け物のように気味悪く回しながら、ギザギザな口から涎と唾を吐き散らしながら、奇襲を仕掛けた。
でも、なぜか伊吹童子の胸以上に頭は上がらない。
伊吹童子の縛りからはどう足掻いても抜け出せない。
それでも、それでも。
本体であるテンジさえ、殺してしまえば。
テンジが誰かなんて今は関係ない。
今、この時、自分が生きられる道があるのならば。
「ルォォォォォォォォォォォォォォォオオッ」
木霊とテンジもろとも。
この爪で真っ二つにしてやる。
「邪魔だ」
気が付けば、自分の顔面に伊吹童子の下駄の底が押し付けられていた。
何と言うこともない姿勢、振りかぶることもしない余裕な表情だった。ただ目の前に立ち、モンスターを見下ろしながら片足を上げているだけ。
たったのそれだけで、王の一角である自分の奇襲が失敗した。突進がいとも簡単に止められてしまった。
ふざけるな、そう言いたげにモンスターは叫び散らかす。
「ルォォォォォォォォォォォオオッ!!!!!!」
「ククククッ、みみっちいプライドだな。酒の肴にはなるか」
さぞ面白そうに伊吹童子は笑うと、不意に下駄の底を勢いよく地面へと押し付けた。
たったのそれだけなのに、気がつくとモンスターは全身を地面に強く打ちつけていた。そのまま何かの力に引っ張られるように大きく地面をバウンドすると、伊吹童子の顔面の前で無様に舞っていた。
「どこかで遊んでろ。王崩れが」
まるでお遊びの如く、片脚蹴りを鳩尾に一発。
気がつけば近くの地面や木々、空気さえも巻き込んで、モンスターは遥か遠くへ、あっという間に吹き飛ばされていた。
伊吹童子はあきらかに次元が違う。
テンジ含めその様子を見ていた五人の探索師は、この異様な光景に目を疑っていた。
さきほどまであれだけ苦戦させられたあのモンスターが、こんなにも一方的に嬲られ、遊ばれ、酒の肴になると言われているこの状況に理解が追い付いていなかった。
何か、見てはならない力を見てしまったようなそんな気がする。
覗き込んではならない地獄を、彼らは覗き込んでしまったのかもしれない。
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