第89話



「おっとっと……今回は尻もちを着いてやらないぞ」


 閻魔の書に吸い込まれ地獄領域へと転移してきたテンジは、転ばずになんとか片膝立ちで地面に着地した。

 ここに来るのももう三度目だ。毎回尻もちを着かされては負けた気になるので、今回は転んでやるかと最初から意気込んでいた。


 もはや見慣れたと言ってもいい樹海のような深い森、顔を上げれば天空には真っ赤な色が広がっている地獄領域。

 そうして周囲の確認をすると、前にも感じた微細な違和感に気が付いた。


「あっ……またなんか広場が少し広がってるな。それに……ボロいけど掘っ立て小屋もできてるし。小鬼たちが暇つぶしにでも作ってるのかな?」


 始めてここに来たときには、運動するのに適当な広場すらない森だった。

 二回目に来たときには、ギリギリ運動できそうなほどの広場ができていた。そして三度目で小さな掘っ立て小屋ができていたのだ。


「小鬼たちは寝ずに経験値を稼いでるんだと思ってたけど……こういうのも好きなのかな?」


 もしかしたら指示を出せば村をここに作ってくれるのかな、とテンジは考える。

 まぁ考えるだけで、今は少しでもレベルを上げるために経験値が欲しいので、このまま寝ずに経験値を稼いでくれる方がありがたい。


 気持ちを切り替えるためにふぅと溜息を吐き、持ってきていたバッグを地面に置いた。


 ――その時であった。


 あの声が脳内に響いてくる。


《地獄クエストが開始されました。制限時間は90分。条件その1:スクワット25000回を実行してください。時間内に条件が達成されない場合、このクエストは破棄されます》


「了解っと」


 テンジは考察する時間すら惜しいと、アナウンスが言い切る前にスクワットを開始した。

 それと同時にシュポンと青色の模造閻魔の書が目の前に出現し、回数のカウントが動き始めた。

 スクワットをしながら、テンジは考え事をしていた。


(前回は60分で5000回だった。今回は90分で25000回か……普通にやるだけでもキツそうなのに、一体どんな追加条件を加えられるのやら)


 その時をドキドキと待ちながら、全力でスクワットをしていく。


 つま先からさきに膝は出し過ぎないように、お尻を落とすイメージで足をひたすらに折り曲げしていく。お腹の体幹には常に力を入れ、背筋はできるだけ曲げない。

 これだけのことを意識して、ただひたすらに無心で筋肉をいじめていくテンジ。


 そして――。

 本当の地獄クエストが幕を開ける。


《カウント:100を通過しました。隠し条件その1:8トンのバーベルウェイトの付加、が実行されます》


《カウント:100を通過しました。隠し条件その2:視界の暗転、が実行されます》


 その瞬間、二つの地獄が追加された。

 全身に上から超重力が圧し掛かり、さらには見ていた明るい視界が真っ暗闇へと切り替わったのだ。


(うわっ!? 目が見えない!! 難しいよ、これ……)


 重力による付加は、確かにキツイが気合いで何とか出来る範疇だ。

 しかし視界が奪われるのはまた別の話だ。平衡感覚を測る感覚器官の一部を奪われた状態で、超負荷の筋トレをやっているようなものだ。

 最初の方は息も上がっておらず、筋肉も元気なために問題なくやっていける。しかし視界の暗転が本領を発揮するのは、終盤である。


 筋肉が悲鳴を上げ呼吸も乱れてくる中で、目隠しされると自分の体勢や平衡感覚が徐々に失われていき、自分がどんな態勢で何をしているのかわからなくなってくるのだ。


「やってやらぁぁぁぁぁぁぁっ!」


 テンジの気合の咆哮が森の中に響き渡る。

 彼が雄たけびを上げるのは、地獄クエストのときだけである。

 叫んでないとやっていられないのだ。


 こうして三度目の地獄クエストが幕を開けた。



 † † †



 足を曲げ、伸ばすと勢いよく汗が飛び散る。

 すでにテンジは上半身の服を脱ぎ捨てており、初期の頃よりも鍛え上げられた筋肉が悲鳴を上げている。服は汗を吸収してしまうので、途中からは絶対に脱いでしまう。

 もしここに七星医師がいれば鼻息荒くして、間近でテンジの筋肉を拝んでいる頃だろう。それほど今のテンジの筋肉は立派に育ちつつあった。


 閻魔の書の数字は『残り:296秒』と『カウント:24999』を示していた。


「……ラストっ!」


 プルプルと震える太ももの筋肉に無理矢理働かせ、何とか最後の一回をやり切った。

 その瞬間視界の暗転が終わり、目の中に光が戻ってくる。

 テンジはカウントが25000になり、閻魔の書がシュポンと目の前から掻き消えるのを見届けると、ガッツポーズする暇もなくそのまま後ろへと豪快に倒れていく。


 真っ赤な空を見上げ、胸を激しく上下に動かしながら、勝利の美酒と言う名の達成感を味わう。

 もはやテンジに勝利の雄叫びを上げるほどの気力は残っていなかった。


「……しんど。あぁ、そうだ……鬼灯食べないと」


 千郷が手作りクラフトで作ってくれたベルトポーチのボタンを外すと、小さなポケットからシュルンと鬼灯アイテムが手の中に落ちてくる。それを次のクエスト開始までに飲み込んで胃袋へと入れておくことにした。

 すぐに体に力が漲り始め、体力が万全になったことを感じる。

 以前はポイントが貴重な可能性を考えて鬼灯アイテムは使わなかったが、今はポイントが飽和状態となっているため、千郷の助言もあり鬼灯アイテムを遠慮なく使うことにしたのだ。


 そうして一分ほどだろうか。

 テンジが地面で仰向けになりながら息を整えていると、再びあの声が脳内に響き渡る。


《達成条件その1および隠し達成条件その1、その2の終了を確認しました。お疲れ様です》


《続いて、達成条件その2:シャドーボクシング15時間を実行してください。一度でも手足が止まった場合、カウントが0に戻ります。実行可能回数が3回以上の場合、このクエストは破棄されます》


《並行して、達成条件その2:青銅鐘の破壊を実行してください。クエスト終了時までに、一度も手を触れてはいけません。試行回数がリセットされると、青銅鐘の状態も初期化されます》


《10秒後にカウントが始まります。10、9、8――》


 アナウンスが終わると、テンジの目の前に青銅鐘が現れた。

 高さ2メートル、幅70センチ近くあるそれは、初詣でよく見るお寺に備え付けられた除夜の鐘のような物体だった。


「は? こんなものを触れずに壊せって……どんな冗談だよ」


 触れてはならないということ、シャドーボクシングという言葉。

 これらの意味から、クエストクリア方法だけは簡単にわかってしまった。

 拳を振りぬいた風圧だけで15時間以内に分厚い装甲の青銅を破壊しろ、ということなのだ。

 これがわからないテンジではなく、だからこそ戸惑いを隠せないでいた。


 それでもアナウンスが返答をする訳もなく。


「はぁ……やるしか道はないってか」


 条件に設定されているということは、できないことはないということなのだろう。

 しかし風圧だけで青銅鐘を壊す想像なんて、生憎微塵も想像できなかった。


 それでもやれというのなら、テンジは本気でやり遂げるつもりだ。


 持ってきていたタオルで軽く汗を拭きとり、スポーツドリンクで水分と塩分を補給していく。そのまま息が整うまでジッと始まるときを待つ。


 そして無慈悲な声が響く。


《――5、4、3、2、1。カウントが動きます》


「よし、地獄でもシャドーでも鐘でも……なんでもかかってこい」


 静かに、ファイティングポーズを取る。

 するとシュポンと閻魔の書が現れ、見慣れた数字が出現する。


『残り:54,000秒』

『青銅鐘のHP:10,000/10,000』

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