第26話

 


 時間はお昼前。

 7月の肌身に纏わりつく熱気がじんわりと首筋に汗を流させる時期だ。空いた窓から夏の予感を漂わせる風がふわりと病室に流れ込み、白いカーテンをばさりばさりと扇いでいた。

 一人になった病院の個室で、テンジは閻魔の書を見ながら呟いた。


「うん、変化はなしと」


 地獄クエストをクリアしてから、閻魔の書に変化のあった部分はこれである。


 ・召喚可能な地獄獣ページに赤鬼種:小鬼(五等級)が追加

 ・召喚可能な地獄武器ページに赤鬼シリーズ:赤鬼刀(五等級)が追加

 ・召喚可能な地獄装備品ページに赤鬼シリーズ:赤鬼リング(五等級)が追加

 ・小鬼のステータスページが追加

 ・地獄領域の赤鬼種が「1/2」に変化

 ・魔鉱石変換のポイントが55から47に減少

 ・現在実行可能な地獄クエストページが白紙に変化

 ・小鬼の召喚で攻撃力25追加

 ・赤鬼リング装着で攻撃力25追加


 魔鉱石変換のポイントは8も減っていた。

 テンジはこれについて、地獄領域で手に入れた鬼灯と天然水で3ポイント消費し、さらに小鬼の召喚で5ポイント消費したのではないかと考えていた。

 まだ確証は得ていないが、おそらくそうではないかと踏んでいる。


 地獄クエスト前後で変化した項目は意外に多かったが、簡単にまとめると地獄獣、赤鬼シリーズが追加されたことが大きな変更点だ。

 元々地獄クエストの報酬で手に入れる予定だったこれらが、テンジのとって大きな収穫と言えるだろう。


「やっぱり僕が変な天職を授かったことに間違いはなかったようだ」


 もしかしたら死の間際に夢を見ていただけなのかもしれない。

 そう考えてしまったテンジだったが、閻魔の書を改めて確認することで自分が本当に特級天職:獄獣召喚に目醒めたのだと知ることができた。


 本をぱたんと閉じ、ふぅと安堵した息を吐く。


「何が間違いじゃんかったんですか?」


 その時、テンジの病室に一人のナース――今坂いまさか芽実めみ――が現れた。

 ボブな茶髪の毛先はくるんと外にはねており、あまり化粧に時間をかけない派なのかナチュラルなメイクを申し訳程度に施している。

 背は150前半くらいしかなく、その童顔も相まって小動物のような可愛さを持つナースであった。


「あ、いえ……ただの独り言です」


「ふふっ、そうですか。そういえば食事持ってきましたよ。病院食なので薄味ですがちゃんと食べてくださいね? 天城さんは三日間も口から何も食べていないので、ちゃんとですよ?」


「……三日?」


 テンジはその言葉を聞いて、思わず素っ頓狂な声を上げていた。

 そんな患者の様子を見て、ナースは不思議そうに首を傾げた。


「あれ? 七星さんから聞いていませでしたか? あ~、あの人はまた適当な仕事しちゃってぇ……。天城さんは三日間この病室で寝たきりだったんですよ」


「三日も……そんなに寝ていたんですか、僕」


「そうですね、寝顔は結構かわいかったですよ? あっ、そういえば自己紹介まだでしたね。私は天城さんの担当看護師、今坂芽実です。今日からよろしくお願いしますね?」


 テンジの担当看護師、今坂芽実は微笑みながらベッドサイドテーブルの上に色味の薄い食事を置いていく。

 三日も寝ていたということ聞かされて、テンジは初めて自分のお腹に碌な物が収まっていないことに気が付いた。知ってしまうと、お腹がギューッとなり始め、今坂看護師に笑われてしまう。


「よ、よろしくお願いします」


「はい、お願いします。それじゃあ点滴も外しちゃいますね」


 今坂看護師はそう説明すると、手際よく点滴の注射を外し片付けてしまった。

 そして用事の澄んだ今坂看護師は病室を出ようと振り返った。


「そういえば何かありましたらナースコールで呼んでくださいね。30分後には食器を片付けに来ますので、その時に検査について詳しく説明しますね」


「わかりました。ありがとうございます」


「はーい、ちゃんと食べるんですよ?」


「わかってますって」


 お母さんのような物言いの今坂看護師に苦笑いしながら返事をすると、彼女は病室を後にした。

 テンジは後姿を見送り、目の前に置かれた食事へと視線を移す。


「……いただきます」


 箸を手に取り、盆に置いてあるお味噌汁から食べる。

 ずずっとスープを口の中に入れると、今坂看護師の言った通り味は薄めだった。

 それでもテンジにとっては三日ぶりの食事、ダンジョンを入れれば21日ぶりのまともな食事であり、体の芯に染みわたっていくような美味しさだった。


「美味しい」


 それからテンジは我を忘れて目の前の食事にありついた。

 おそらく点滴で栄養を補給していたと思うので、死ぬほどお腹が空いたというわけではないが、それでも懐かしの和食を目の前にして食欲が収まることはなかった。

 これもテンジの家計が火の車だったこともあるだろう。久しぶりに食べたまともな食事は本当に美味しかったのだ。

 ただ一点、他人のお金で食べているという状況だけがテンジの心を重くしていた。


「ふぅ、もっと食べたいな……」


 五分も経たずに空っぽになってしまった食器を名残惜しそうに見つめる。

 ただテンジは久しく腹いっぱいに何かを食べたことはなかったので、この状況には慣れている珍しい人種であった。

 大体いつも腹六分目が彼の平常運転なのである。


「まぁ、いつもより栄養の高いものを食べられただけ良かったとしよう」


 そう呟きながら、テンジはふと外の景色を眺める。


 立ち並ぶビルや高層マンションには見覚えがあり、ここは御茶ノ水ダンジョンの近くに建てられた御茶ノ水ダンジョン前総合病院であると判断できた。

 とはいっても協会や国からの支援の厚い病院という経緯もあり、周囲の環境は緑にあふれていた。病室からでも散歩をする人たちやかけっこをする子供たちの様子が見える。


「本当に生きて帰れたんだなぁ、僕」


 テンジはしみじみと感じながら、徐にテレビの電源を点けた。

 番組をニュース番組へと切り替えると、ちょうど御茶ノ水ダンジョンについての報道をやっていたので、テンジは耳を傾けた。


 21日前にチャリオットギルド主導で中規模レイドを結成し、合計34名で始まったダンジョン攻略。目的は知らされていなかったが、チャリオットが懇意にしている企業からの依頼であると聞かされていた。

 その二日後、レイドはダンジョンのうねりに巻き込まれ、裏ダンジョンと思われる抜け出すのが困難な場所へと閉じ込められてしまった。

 なんとか出口を探すべく進んだレイドだったが、ちょうど二週間後にチャリオット正規メンバー八人の死体を発見した。

 藻岩孝、神田彩加、大山祐樹、麻生優馬、黒田和、甲賀千絵、草薙英梨、細井夢生、彼らは未知の蜘蛛型モンスター「クイーンスパイダー」に殺された。

 そして運が悪いことに、テンジたちはブラックケロベロスと遭遇する。そこでもまた一人――魚田景――が殺された。

 レイドは逃げることを選択したのだが、テンジは同級生の稲垣累に尻尾切りの尻尾として生贄に選ばれた。

 そして、誰も知らない天職に覚醒したのだ。


「凄いな五道さん……完全に英雄扱いだ」


 その報道番組では将来の探索師である日本探索師高校の生徒を無事に生還させたと報道されていた。

 知っている人が見れば明らかな虚を含む報道なのだが、協会や国が圧力をかければマスメディアの虚実なんてこんなものなんだと、テンジは知った。

 そう、実際に五道が生還させたのは朝霧愛佳と稲垣累の二人だけなのだ。


「あ~、やっぱり御茶水ダンジョンは等級格上げか。四等級から一等級ダンジョン……もう僕が御茶ノ水ダンジョンの申請に通ることはなさそうだな」


 学生がダンジョンに潜るには、あくまで低等級のダンジョンであることが前提なのだ。

 一等級に格上げされたダンジョンならば、学生が事前申請を通過できるわけがない。

 その事実を知ったテンジはほんの少し肩を落とす。


「拠点を八王子に変えようかな。横浜はちょっと遠いよね」


 幸いにも、日本は世界屈指のダンジョン国家として知られている。

 一等級魔鉱石がザクザクとれるようなダンジョンはあいにくなかったのだが、二等級以下のダンジョンは合計で七個も存在し、一国に存在するダンジョンの数は世界でもトップを誇っていた。

 それもこれほど小さな面積で七個もあるのだ、必然と日本の観光業は賑わうこととなった。


「と、その前に……だよね。もしかしたら僕自体が申請通らなくなる可能性もあるのかぁ。憂鬱だ」


 はぁと溜息を吐いた時だった。


「ま~た独り言ですか?」


「あっ、今坂さん。すいません、昔から独り言が多いんです」


「なるほど~、これからは聞かなかったことにしますね」


「そうしてくれると助かります。それでまだ時間前ですが何かありました?」


「いえいえ、たまたま通ったら食器が空っぽになっていたので片付けに来ただけですよ~。それじゃあ一旦片付けてから、また説明しに戻ってきますね」


「あ、はい。お願いします」


「は~い」


 今坂看護師はてきぱきと食器を纏めてしまい、足早に病室を後にした。

 その間、変化がないとわかりつつもテンジは閻魔の書をぱらぱらとめくりながら時間を潰していく。

 そうして数分と経たずに今坂看護師が透明なファイルに入った書類を持ってきた。


「どこ見てたんですか?」


「え?」


「自覚なしですか? 検査します? なんだか何かをジッと見つめながらぽけーっとしてましたよ?」


「あ、いえ。ぽけーっとしてました」


 テンジは今坂看護師の言葉でようやく理解した。

 他者からは見えていない閻魔の書を見ている間は、傍から見ればぽけーっとしているように見えるらしい。

 これからは色々と行動を模索していかなければと考えるテンジであった。


「そうですか。まぁ、寝ている間に行った検査でも脳には特に異常はなかったので大丈夫だとは思いますが、何か違和感があれば遠慮なく言ってくださいね? それが私たちの仕事ですから」


「はい、わかりました」


「それじゃあ、協会からやるようにと言われている検査内容をぱぱっと説明しちゃいますね。結構、多いですよ? 日本探索師高校の生徒で、報道にも取り上げられる事件になったので、協会はかなり天城さんの容態を心配しているようですね」


「なるほど。そういう立場だったんですか」


「そうですね。まぁ、今回は運が悪かったんですよ……って、あ! すいません」


 今坂看護師ははっと気が付いたように謝った。

 今回のこの事件では少なからず死者は出たのだ。テンジたちのレイドでは生存者は多いとは報道されているものの、実際には九人もの死者が出ている。

 そのことに気が付き、天城看護師は自分の言動が軽率だったと気が付いたのだ。


「いえ、大丈夫ですよ。これでも探索師の卵なので、自分や仲間が死ぬことに覚悟は持っています」


「さすが日本探索師高校の生徒ですね、私なんかとは覚悟が違います。じゃあ、重たい話もこれくらいにして。まずは一般的な医療検査から始まります――」


 それから天坂看護師は、一方的に検査内容と趣旨を説明していく。

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