第2話
「おとうさん」を研究するためには、どうしたらいいのか。
エアコンがあまり効かない仏壇がある畳の部屋で、ゆう子は考えていた。
「ゆう子、朝ご飯置いてあるから、冷めないうちに食べなさいね。仕事行ってくるから」
と、母親の徹子の声がして、玄関のドアが閉まる音がした。朝ご飯といっても、焼きすぎた炭の味がするトーストだけだ。
徹子がいなくなると、とたんにゆう子は、「独り」を感じた。誰もいなくなった部屋に、チリンと風鈴が鳴った。その時、ゆう子は閃いた。
「そうだ! おとうさんの体重と体温を毎日記録しよう」
その夜、またゆう子は、謙一のもとへ向かった。
「毎朝九時に体温をこれではかって、体重計にのって」
「はあ? そんなことまで調べるのかよ。俺の体重なんてメタボの寸前だぜ」
「メタボ?」
「ぷよぷよってことだよ」
また謙一はワンカップをあおった。
その日から、毎朝謙一はゆう子に監視されながら風呂場で検温と体重測定をさせられるようになった。ゆう子は、数値を棒グラフにしてみた。毎日の気温や天気もノートに記録したが、天気や気温と「おとうさん」の体温や体重は関係が無いようだった。
「だから言っただろ。俺を調べたって、メタボくらいしかわからねえんだよ」
「ゆう子わかる」
「何がわかるんだよ」
「うちの番犬のポポちゃんは、私とおとうさんには吠えない」
「ああ……そういえばそうだな」
二人で縁側でスイカを食べていると、柴犬のポポは、ハッハッと言いながら二人を見て尻尾を振っている。機嫌がいいようだ。
「あの調子じゃ、番犬にならねえな」
「きっとポポはおとうさんのことが好きなんだよ」
「そういえば今日、お母さんは?」
「残業で遅くなるって。おとうさん先にお風呂に入って寝れば?」
謙一が頭をかくと、フケが粉雪のように舞い散った。
「そうか・・・・・・じゃあそうするかな」
謙一が仏壇のある部屋の押し入れの中で眠りについた後も、ゆう子は部屋にこもってノートとにらめっこしながら、一人研究について考えていた。
カレンダーは8月に突入している。もたもたしている暇はない。
そうだ、明日、学校に行って、杉村先生にアドバイスをもらってこよう。
ゆう子はうんうん、と一人で頷いて眠りについた。
***
翌朝、ゆう子は自由研究ノートを持って、担任の杉村先生のもとへ向かった。
「あら? ゆう子ちゃん、どうしたの? 今は夏休みよ?」
職員室の椅子に腰掛けていた杉村先生は、いつも通り長い髪を束ねて清潔そうな微笑みを返してくれた。その優しい微笑みを見て、ゆう子は少し安心した。
「あの・・・・・・自由研究が上手くいかなくて」
「自由研究、夏休みの宿題の中で一番たいへんだものね。ところでゆう子ちゃんは、何を研究しているのかな?」
ゆう子は「おとうさん」と言うのが急に恥ずかしくなってしまい、
「・・・・・・うちで飼っている犬のポポちゃんです」と顔を赤らめて言った。
「ポポの体温や体重を毎日量っているんですけど、あ、あと、天気とか気温とかも記録してるんですけど……ポポのことが何もわからないんです」
「そっか・・・・・・」
杉村先生は、少し考えてから、メモ帳に丁寧な字で何かを書き、ゆう子に渡した。
『ポポちゃんの好きな食べ物、好きな場所、癖、好きなこと』
ゆう子は思わず杉村先生を見上げた。
「難しい話かもしれないけれど、今ゆう子ちゃんがやっているのは量的研究といって、数値のみによる調査なのね。研究には、質的な項目、つまり私が提案した項目も加えた方がより深い研究になると私は思うわ。ぜひ頑張ってね」
ゆう子は「はい!先生ありがとうございます!」と言って、学校をあとにした。
***
金曜日の夜、また公園で寝ている謙一を起こしてインタビューを開始した。
「お父さんの好きな食べ物は?」
「あー?、酒」
「酒は食べ物じゃない」
と、思ったが、一応『お父さんの好きなもの、酒』とノートに綴っておいた。
「どうせお前に言ったってわかんねえだろ。俺が好きなのは大人の食べ物なんだよ」
「じゃあ、おとうさんの好きなことは?」
「競馬。こないだ駅までわざわざ馬券を買いにいったのに負けちまったよ。くそ」
ゆう子は『お父さんの好きな物、けいば』と書き足した
「負けたのになぜ競馬が好きなの?」
「夢があるからだよ。ゆ、め」
「夢?」
「ゆう子には夢があるか?」
ゆう子は自由研究ノートを見て少し考えた。
「ゆう子、自転車に独りで乗れるようになりたい」
「え? おまえ、まだ自転車乗れないの? かっこわりい!」
爆笑したが、ゆう子が涙目になっているのを見て、謙一は笑うのを止めた。
「何だよ。それくらいで泣くなよ」
「だって・・・・・・独りじゃ乗れないんだもん」
謙一は、ワンカップをベンチに置いて言った。
「仕方ねえな! 俺が教えてやるからよ!」
「本当? 独りで乗れるようになるかな?」
「当たり前だろ! 俺はおまえのお父さんだぜ?」
翌日から、謙一とゆう子の自転車の猛特訓が始まった。補助輪を外した状態でどれくらいバランスを保っていられるか、ブレーキをどこのタイミングで踏めばいいのかを事細かく謙一は教えてくれた。
ゆう子が側溝にはまって、汚水にまみれても公園の水道で洗い流してくれた。
一週間も立つと、ゆう子は若干ふらついているが補助輪が無くても一人で自転車に乗れるようになった。
その頃がちょうど八月の中旬だった。
「なあ、ゆう子。今度お父さんとパチンコに行ってみないか?」
「パチンコ?」
「おう。きれいな玉がたくさん出てきて、大当たりすればお金と交換できるし、お菓子ももらえるんだぜ。お母さん、お菓子買ってくれないだろ」
「お菓子!? ゆう子! パチンコに行ってみたい!」
母親の徹子は、お菓子などゆう子に必要ないと、がんといって買うのを許さなかったのだ。
「じゃ、明日日曜日、駅前のロータリー集合な!」
「うん、お母さんには秘密ね!」
***
翌日、
ゆう子は目一杯のおしゃれをして、鏡で自分をチェックした。雑誌の付録についていたキラキラのリップグロスも塗ってみた。
「あら? ゆう子、どこに行くの?」
「舞子ちゃんちー」
ゆう子がおしゃれをしているのを不審な目付きで見つめる徹子をおいて、ゆう子は、駅までスキップして向かった。
謙一は時間よりも十分遅れて到着した。
「もう! 遅いよ!」
「わりいわりい、ちょっとウンコしてた」
ゆう子は謙一と手をつないでパチンコ屋に入った。耳をつんざくような騒音に、ゆう子は両耳を塞いだ。
「ここうるさいよ~」
「ば~か! この騒音が闘争心をかきたてるんだよ! 快感だぜ!」
ゆう子はノートに『パチンコのそう音はとうしんをかき立てる。かいかん』と綴った。
お父さんはパチンコに勝ったらしく、ほくそ笑んでいた。「ほらよ!」とゆう子にお菓子もくれた。
「夕飯、どうすっかな。赤提灯でもいこうぜ」
「あかちょうちん? なにそれ? おまつり?」
「大人が集まる酒場よ。行けば良さがわかるぜ」
人がごった返す駅、電車がちょうどごおおおと音をたてて通りすぎるガード下に、お父さんの好きな赤提灯の店はあった。店の中では野球中継が流れていて、中年の親父たちがひしめきあって酒を飲みながら野球中継を楽しんでいた。
「お父さんはな、ここのモツ煮込みと、板わさで、グビーッとやるのが好きなんだ」
ゆう子はすかさず『おとうさんは、いたさわ、もつにこみでぐびーが好き』とノートに綴った。
「おまえもさ、そんな勉強ばかりしてないで、たまにはパーっといこうぜ。パーっとよ!」
ゆう子は、オレンジジュースとモツ煮込みを交互に食べながら、謙一に言った。
「でもね、おとうさん、もうゆう子には時間がないの。ゆう子の夏休みは終わってしまうの。それがどういうことか、わかるよね?」
その言葉に、大音量で流れていたテレビの音が少しかき消えた気がした。
謙一は、水滴だらけになったグラスを置いて
「そうだな。わかるよ」
とふっと笑い、少しセンチメンタルな表情をしたかと思うと「かっとばせー!!」とテレビ画面に向かって大きく叫んだ。
***
夜、家に帰ると母親の徹子が仁王立ちをしていた。
「あんた!こんな遅くまで何してたの!」
怒鳴られるゆう子のことを、心配そうに柴犬のポポが見つめていた。
「舞子ちゃんちに行っていたなんて嘘でしょ!今日舞子ちゃんちのお母さんに会ったら、塾に行ってるって行ってたのよ」
徹子は今日は町内会の打合せのはずだったのに、帰りが早くなったのか、とゆう子はげんなりした。
「九月から新しいお母さんの結婚相手来るんだから、もっとしゃんとしなさい!しゃんと!これじゃ新しいお父さんに嫌われちゃうわよ」
ゆう子は、ポポを撫でながら、徹子のくどくど話を聞いていた。
「だから研究してるじゃん・・・・・・おとうさんのこと」
「は?! 何言ってるかよくわかんないけどさっさとお風呂入って寝なさい!」
おかあさんなんて、死ねばいいのに。と思いながらゆう子はお風呂に入って寝た。
布団の中に入って静かにしても、まだパチンコの騒音が鳴り響いてる気がした。
***
八月三十一日、ゆう子は一枚の封筒を持って公園に向かった。
ベンチにはいつも通り、謙一がいた。凝りもせずワンカップを飲んでいる。
「これ。今まで研究に協力してくれてありがとう」
ゆう子はお金が入った封筒を謙一に無表情で渡した。
「・・・・・・で、おまえの新しいお父さんが来るのはいつなの?」
「九月一日。明日の夜だよ」
ゆう子はなぜか胸が苦しかった。痛いというか、呼吸が苦しいというか、それをどういう感情と表現すればいいのか、幼い彼女はまだわからなかった。
「・・・・・・受け取れねえよ、こんな金」
「なぜ? そういう約束で始めたじゃん」
「なぜって・・・・・・俺とゆう子はそんな仲じゃ・・・・・・」
「そんな仲だよ。私は小学生。あなたは妻子失ったホームレス」
「・・・・・・」
感極まった謙一は、ゆう子から封筒を奪い取り、公園から走り去った。途中謙一のボロボロの靴が破れて転んだが、ゆう子は見向きもしなかった。
もうすぐ夏が終わる。ゆう子はそう思って枯れつつある公園の向日葵を見つめた。
(つづく)
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