蛟
グレイの機転により、エレノアは間一髪の処で地下水脈の怪物からの強襲を逃れていた。蛇と魚が混ざったような、全長四メートルほどの蒼肌の怪物は、石畳の通路で狂暴に跳ね回っている。
「……助かったわ。あれは」
「
グレイは怪物の名称だけ告げると、素早く両手を構え魔法の詠唱を始めた。
その手からは冷気が漂い始めている。
『
輝く冷気が跳ねまわる
一瞬の間の後、硝子が砕け散るような氷解音と共に、凍り付いていた
「長く生きた
細かく舞った氷の粒が明かりに照らされてきらきらと輝いている中、グレイはゆっくりとロングソードを鞘に収め、一息つく。
「……水辺で戦えばね。匂いか明かりに釣られて飛び込んで来たのかな」
若干申し訳なさそうな表情でグレイが呟いた。それは怪物に対し、不得手なフィールドで悪かったとでも言いたげである。
今、
(……風魔法に続き、凍結系の水魔法まで)
回復魔法の準備をしていたエレノアは、グレイが怪我をせずに終わった為、詠唱を破棄した。そして、目の前でグレイが見せた水魔法の手際と鮮やかな剣技に目を奪われていた。
(そして、あの巨大な怪物を一刀で両断するなんて。剣技の方は明らかに長けている。……魔法にしてもかなりのものだけど)
修得には相応の修練と才能が必要であり、一属性すら一生レベル4の魔法を扱えない術師が居る中、彼は中級レベル以上の水と風の魔法を操っていた。
さらに
だが、そんな騎士位を預かる身分の上位者が、このような中立地帯を単独でうろついているというのは少し考え難かった。
彼には謎が多い。この秘密通路を知っている事からノーラス村とも間違いなく繋がりがある。お互い詮索はしないという約束事があったが、エレノアはグレイの素性が気になり始めていた。
「……とりあえず、無事に済んで良かった。エレノアさん、ここに留まるのは危険だね。奥へ進もう」
グレイはエレノアの手をお構いなしに掴むと、先に向かって歩き出した。
これといって逆らう理由はない。ただ、いい処を見せられっぱなしなのが、多少気にはなっていた。防御魔法の一つでも先んじてかけておけば良かったかもしれない。
◇
グレイに手を引かれたまま、エレノアは
石壁の通路は所々に傷みが現れている。グレイがなるべく使いたくないと言っていた理由もそこにあるのだろう。土魔法によって、この秘密通路を作り出し管理していたと言われる土の賢者ロック。彼が亡くなってメンテナンスが出来なくなったのが原因である。
先程の地下水脈に続く
「エレノアさん。咄嗟の事とはいえ、さっきは申し訳ない。肩は打っていないかな」
「無傷よ。貴方が腕を回してくれたお陰でね。貴方こそ身体を打たなかった?」
「僕の方は全く問題ない」
壁に叩きつけられる寸前、グレイは咄嗟に背中に手を回していた。気遣いの達人かというくらいの動きである。
「……ありがとう。もう大丈夫」
エレノアがゆっくりとグレイの手を離した。
「随分と優しいのね」
「そうかな。普通のつもりだけど」
「そして、見事な剣と魔法の腕前だったわ。正直、貴方の実力を低く見積もっていたと認めざるを得ないわね」
「
グレイは謙遜しているが、おそらく地下水脈側に居ても、そこまで後れを取るようなイメージが湧かなかった。そして彼の咄嗟の判断により、エレノアは間一髪で
長らく
「グレイ、誉め言葉は素直に受け取りなさいよ。……それにしたって水魔法まで使えるなんて。まさか他にも使えるのかしら」
「水と風だけ。さっき言った通り、光魔法はレベル1の理論は修得済みだから、いずれ使いたいなと思っているけどね。……祈りの部分が難しい。エレノアさんは流石だな」
もしやと思ったが、流石に二属性止まりのようだった。それでもかなり高いレベルの魔法を行使出来ているので大した物ではある。祈りについては多くの見習い光術師が鬼門としているので仕方ない事かもしれない。
エレノアは祈りを聖女としての日々の修練の中で自然と身に着けていた。敬虔な
「……もし、良かったら私が祈りの真髄でもレクチャーしてあげるけど。光魔法は便利だと思うわ」
「エレノアさん。それは冗談ではなく本気と受け取っていいのかな」
グレイが真剣そうな眼差しと声色で問い返してきた。エレノアは少しの自慢を兼ねて、何気なく呟いてしまっただけで、本気で返される事を想定していなかった。
「……言っておくけど簡単ではないし、
「なるほど。つまり環境が整った処まで付き合って貰えた上で、レクチャーしてくれるという事になるけど」
グレイは言質を取るようにエレノアに確認をしていた。
今からでも冗談と一言でもいえば終わりそうな話だったが、エレノアとしてもそうしようとは思わなかった。返されたのは予想外だったが、彼に教えたくないというわけではない。
「本気なら考えるけど。……でも、それ相応の見返りはあるのでしょうね。多少は名の知れた光術師のつもりよ。ただと言う訳にはいかないわ」
「もちろんだよ。その辺りは
グレイが微笑むと、身をひるがえして再び通路を歩き始めたので、エレノアは困惑した表情でその後をついていった。
(……どうしよう。話が進んでしまったけど。何処まで本気なのかしら)
エレノアは不安からか、心音が高鳴っているのを感じとっていた。
◇
一〇分ほど緩やかな下り道が続き、やがて行き止まりにぶつかった。
グレイは立ち止まり、再び合言葉を紡ぐ準備を始めた。
『土の賢者ロックよ。貴方の智慧を今ここに』
微妙に台詞回しが違ったが、意味合い的には、ほぼ同じ合言葉のようだった。
石壁がスライドすると、そこは吹き抜けになっていて、ラウンド状の壁回りは上へと続く螺旋階段が巡らされていた。
「エレノアさん、お疲れ様。この階段を上ればノーラス村だ。吹き抜けに足を滑らせないように気を付けて」
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