17
「どうしたのお姉ちゃん!」
姉が帰ってきた。もう深夜の十二時を回っていて、つまり姉は午前様で帰ってきたわけでそれだけなら私だってもう高校三年だし、大声を上げたりするようなことではない、とわかってはいる。でも――でも、だ。なんだって姉はぼろぼろなんだ……?
姉は私の大声に少しだけ顔をしかめると、私の複雑そうな顔を見て、あらためて自分の格好を見下ろし、納得したようにうなずいてから、言った。
「お母さんは?」
「今日は夜勤だよ」
「そう」
少しほっとしたように表情をゆるめると、姉は片方だけのパンプスを脱いで、玄関口に座り込むと、うんしょうんしょと伝線だらけのストッキングを脱いで白い生足をさらすと立ち上がってそのまま、意外な軽快さでバスルームに向かった。よく見れば腕にも足にも、すり傷や切り傷があちこちついていて、髪はとりあえずまとめましたといった風情で、白いシャツは泥と血と草の汁と水が渾然一体となって見事なモザイク模様を描いていて、まるで――と私は自分の想像にぞっとする。まるで、暴漢に襲われたようではないか。
「ねぇお姉ちゃん、本当にどうしたの? 大丈夫なの? ねぇ!?」
バスルームの扉を開けて口からついてでたのは、自分でもびっくりするぐらい、深刻な声だった。でも、その過剰な深刻さは、姉の、蛍光灯の下で見る白い身体があっさりと吹き飛ばしてくれた。ああなんだ、大丈夫なんだ、と私は素直に納得した。バスルームに突入した勢いが一気に霧散して、その落差にむしろ姉の方がびっくりしていた。
「ごめん、お姉ちゃん、大丈夫だね。ごめんごめん」
私は猛烈に気まずくなって、バスルームを飛び出そうとして――手をつかまれた。
「ごめん、リミ。心配かけて。でも大丈夫。ただ、こけちゃっただけだから」
そう言って姉は舌を出して笑って、裸体をさらして、なんだかとってもすっきりしているみたいで、私は場違いにもきれいだなぁと見惚れてしまって――なんで家族に、と頭が回転し出すと今度は猛烈に恥ずかしくなってきて、私はバスルームから逃げ出した。背後でくすくす笑う声が聞こえて恥ずかしさに拍車がかかって、私はもう何がなんだかわからないままキッチンに向かって冷蔵庫を開けて、姉のプリンを引っつかんでむしゃむしゃやってしまう。一心不乱にやってしまう。バカだ。わかってる。でも、おいしい。
姉は――全然イライラしていない。シュウさんと喧嘩してたのは知ってるし、その仲裁をかってでたのも私だし、今日はたぶん逆ナン目的でバリバリにきめて家を出て行ったんだろうし、さっきだっていつもなら私の過剰な心配をきつい一言であっさりと封じ込めて、そこでようやくすっきりするのに――なんだろう、さっきの姉はとてもさばさばしていた。
それにしても――これ、おいしいな。少し落ち着いて、私はプリンのパッケージを確認する。大きく、丸にR字が刻印されている。いまはやりの復刻系の商品だ。二十一世紀初頭のいまはもう商標しか残っていないようなおやつやインスタント食品や生活雑貨をリファインする、そういうメーカーの商品だ。だいたいの商品はいまでも普通に食べられるものばかりで、意外に味覚というか嗜好は変化しないものなんだなと、私は思って、でもリファインなのだしもしかしたら調整されているのかもしれないし、それでもそうやって連続性みたいなものを実感して、私はここにいる――。
「あー!」
私は、声に振り向いた。
「食べてる!」
姉がいた。髪をバスタオルでまとめ、下着姿の姉が、いた。私の食べかけをひったくるとあーあーと言っている。よっぽどショックだったのか、じろりとにらまれる。
ごめんなさい、と私は素直に謝る。すると姉も素直に、まぁいいわ、と私にプリンを押しつけて自分は冷蔵庫の中からミネラル・ウォーターを取り出して、キッチンを出てそのまま部屋に戻ろうとする。私は言った。
「明日、シュウさんが来るよ。言っておいたから。お昼はたぶん三人でオムライス。連絡、あった?」
「あー、うん。さっき」
「よかったね」
「でも、場所変更。なんかあの、廃校の屋上だって。知ってる?」
「え、うん――あそこはよくスーサイド、あ……」
姉が、正面から私を見ている。私は思わず目をそらす。姉が言った。
「
「いいけど、なんで
「……言ってなかったけど、シュウは私が勝手に呼んでるだけで、本当は彼、名前、オサムって読むのよ」
知らなかった。
「そ、そうなんだ」
「うん」
私は黙る。でも、言った。
「えっと、とりあえず了解、案内します。何時に?」
「また連絡するって」
はーい、と言って私は手の中の食べかけのプリンを見る。妙に色あせて見えた。
「それと、」
私は顔をあげる。まだ何かあるのだろうか。
姉は言いよどむ。
どうしたの、と私はうながす。
「父さんは、いまどこ?」
「え、父さん?」
「うん……」
「なんで?」
姉は黙る。考えている、というよりも自分でもあんまりよくわかっていないのかもしれない。それでも私は、久しぶりに姉の口から父の話題が出てきて、すこしうれしくなる。
「お母さんなら知ってると思うよ。このあいだ、電話あったみたいだし、欧州ツアー、今年も順調みたい」
そうなんだ、と姉はつぶやく。うん、そうなんだよ、私は相槌を打って姉の背を押す。そろそろ着替えないと風邪を引きますよ、お姉さん、と私は姉の背中を押してキッチンを出る。残ったプリンは、後で食べよう。姉の分を買ってきてもいい。そうして一緒に食べよう。私はそう思いながら、姉の、白い背中を押して歩く。
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