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「まだ、メール終わらないの?」

 がしゃんがしゃん、とアカネが机を、椅子を蹴り飛ばしている、蹴散らしている。ここは教室。三階の、一番奥の教室。本来なら四組か五組か、それくらいの数字が収まる教室。しかしここは廃校だ。打ち捨てられた学校だ。四半世紀まえ移民の減少にともなって放棄された、インターナショナルスクールだ。グラウンドは不法投棄となんら変わらない資材置き場に、一階と二階は雨をしのぐ家出少女とホームレスと三〇匹近い野犬のコロニーが国境線を争い、三階は乱交グループがグラウンドからかっぱらってきた大型マットを持ち込んでにゃんにゃんあんあんイヌのように腰を打ち付け合っている、とアカネは楽しそうに説明した。ここには世界の縮図があって本当に飽きないのだ、とアカネはそう言って狗のように笑った。

 がしゃんがしゃん。

 そして今日は試合会場だ。戦場だ、戦場になる。これからこの瞬間から、戦場となる。

 教室は暗い。時刻は十二時を回っている。だから暗い。廃校だから真っ暗だ。それでも光源はある。明かりは窓から、サッシしか残っていない窓から入り込む光だ。月の光だ。わずかな光源だ。

 がしゃんがしゃん。

 しかし橘の顔は明るい。携帯電話のバックライトに照らされて、明るい。橘はメールを打ち終わる――送信する。携帯電話を置く。汚れていない、と感じられるような比較的清潔そうな机を探して携帯電話を置いた。立ち上がる。

 がしゃんがしゃ、

「やるの?」

 アカネが振り向いた。先日と服装は変わらず黒のパーカーに黒のジャージだ。フードはかぶっていない。ショートカットの髪は黒だ、闇の色だ。橘は周囲を視界に入れる、観察する、確認する。正面にはアカネがいる。その周りの机が蹴散らされて床が、顔を覗かせている。その面積が大きくなっている。風雨に晒された床が円形に広がっている。試合 会場が、戦場ができていた。

「ねぇ学校って楽しかった?」

「学校?」

 返事の発語に合わせて橘は気息を身体に通す。

「そう、高校の頃は? 中学校は? 大学はどう?」

 余裕が、消えていた。アカネは悠然とした態度を打ち消して橘に矢継ぎ早に訊いてくる。「部活は? 恋愛は? 友達は? どんな悪いことした? 勉強は楽しかった? 学祭は? 修学旅行は? ねぇ楽しかった?」

 何を焦っている、と橘は思う。

「あたしは楽しくなかった」

 アカネの顔から表情が削ぎ落ちた。

「だから最後くらい、楽しみたい、そう思った」

「どういう意味だ?」

 アカネは答えない。代わりに言った。

「もう一度、訊くわ。橘修、学校って楽しかった?」

「意識したことがない」

 橘は答えた。なぜか正直に答えていた。

 アカネは―――笑っている。八重歯が牙のように口から覗いた。狗のように、笑った。

「やっぱりあなたは強いね。うれしい、ホントにうれしい。あたしはササキ・アカネ。あなたは覚えていないかもしれないけどもういい、それはもう気にしない」

 がしゃんがしゃん、とアカネはさらに机を蹴り飛ばす。飛び回るようにアカネは机を、椅子を蹴散らしている、がしゃんがしゃん。

 その時、橘の視界の隅で携帯電話が光った、ように見えた。単にそれは携帯電話を載せている机がアカネの蹴飛ばした足の曲がった椅子の衝撃によって振動して角度が変わった携帯電話のディスプレイが月明かりを反射してそう見えただけだ、と理解した橘が視線をアカネに戻すと、目前に机が飛んできている。

 机が飛んできていた。

 開始の合図だ。

 同じミスは犯さない。もう不意打ちは通用しない。

 橘は腰を落とす。気息は充分に行き渡っている。身体が意識と同じレベルで追従してくれる。視線は一瞬、足元の使用済みコンドームを捉える。

 低姿勢のまま視線だけを上げる。机はまだ頭上。髪の毛が机の起こした乱流に巻き込まれるのがわかる。机が通過していく、まとった水滴を弾きながら通過していく。感覚が鋭敏になっているのがわかる。

 正面――アカネがいない。

 見えたのはスニーカー、その底。

 机を投げ同時に飛んだ――起き攻めか――橘は守る。前のめりの体勢から顔を守る。両腕を交差させ、守る、待つ、インパクトの瞬間を待つ。

 右腕と左腕の交差点/中心/顔の正面で衝撃が弾ける。骨が鳴く。骨が鳴った。ぎし、と骨が鳴った。きしんだ。橘は全身の気を腹腔の中心に/丹田に留める、集中する、耐える、耐える、耐える、ぎぎぎぎぎ、と骨は鳴り続ける。

負ける、負けた。どん、と橘はしりもちをつく。衝撃が抜ける。腕を抜けて顔の前で鼻の上で弾ける。めきょ、と鼻が潰れる。

 激痛。

 目の前が真っ赤に染まる。出血、呼吸が一気に乱れる。

 アカネが離れる、距離をとる。見なくともわかった。飲めるだけ血を飲み込む。呼吸を確保する。自分の血で溺れるわけにいかない。

 橘はガードを、交差した腕を下げる。視界を確保する、確認する。手の届く位置にアカネがいる。アカネは脚を上げている。蹴りの姿勢――橘は下げた腕を咄嗟に上げる、ガン、腕が痺れた。アカネはそのまま執拗に蹴り続けるガンガンガンガンガンガンガンガンガンガンガン、掴んだ。橘はアカネの脚を掴んだ。腕は真っ赤に腫れている。痺れて握力はない、しかし放さない。上半身だけの力で身体を跳ね起こして、アカネの脚を背後にふりかぶる。

 握る力、掴んだ腕、踏みつける床、全身で橘は投げる、アカネを投げ飛ばす。「型」を無視してただただ力の赴くままに投げ飛ばす。とっておきを、使っている余裕はない。

「うおおおぉおおおおぉぉ」

 力が、声となってほとばしった。

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