スーサイド・ヒューマンズ

川口健伍

1

 あたしは目の前のフェンスを飛び越えた。自分でも驚くほど軽やかに飛び越えた。屋上と空とを明確に切り分けるフェンス。立ち入り禁止の看板は錆びていて見えなかったことにしよう。

 断崖の縁に立って、大きく息を吸い込んだ。たまらない開放感。背筋が震えた。たった一歩踏み出しただけなのに、世界が変わって見えた。

 見上げる夕焼け空は赤い。目にしみて涙が出るほど、赤いのだ。

 勢いよく振り返った。赤錆びた屋上はあたしの舞台だ。ステージ衣装はもちろんお気に入りの、そしてそれ以外は着ることを許されない、病人着ローブ。くねくねと捻じ曲がった配管は幾重にも連なって天を目指し、空調の冷却機が重く低く唸って合唱し、あたしは軽やかに踊っている。

 くるくる、と。

 あたしは今日、生まれて初めて外の空気を吸った、と言ったら信じてもらえるだろうか。

 そんなことはどうでもいい、と言われても今の自分なら傷つかない自信がある。この爽快感はどんなに無遠慮な言葉でもきっと軽々と吹き飛ばしてくれる。陰鬱な身体からだの痛みでさえ簡単に吹き飛ばしてくれる。

 さあ、もう一度。

 もう一度、大きく息を吸った。

 風にはそろそろ夜の匂いが混じって、鼻をくすぐる。こんなにも明確に感じ取れること、それがまだ存在する。驚いてうれしくなってステップはさらに軽やかになっていく。

 眼下の四車線道路は恒例の交通渋滞。帰宅途中の会社員は今日の疲れを癒すため、繁華街に繰り出す若者は夜を謳歌するため、そしてあたしは昼と夜の狭間、この瞬間に生きるため、いまを共有している。

 あたしは見つけた。

 歩道を歩く人、人人人人人ヒト人人人人人の中で、あたしは見つけたのだ。

〈あたし〉を。

 笑う。

 あたしは、笑う。

〈あたし〉も、笑っている。八重歯を剥き出しにして、狗のように笑っている。向かい合った鏡の向こうのように笑っている。

 あたしは大きく息を吸い込む、吐き出す、笑う、笑った

 そして――――――空へ、踏み出した。夕焼け空へあたしは身を投げた。落下速度はすぐに取り返しのつかないものに。ばたばたと唯一自慢の、でも長すぎる髪が風にあおられて、何度も何度も身体に叩きつけられる――そしてあたしは震える。

 迫る歩道と〈あたし〉。〈あたし〉はそこにいて、変わらず笑っている。あたしも笑う、笑い返す。風圧で歪む顔を、あたしは笑みで彩る。

 ゆっくりと落下する。あたしは震える。こんな世界もあるのだ、と未知の世界にあたしは震える。

 間延びした世界の中であたしは〈あたし〉に飛び込むのだ。

 あたし達は再会する、ひとつになる、今日、この日この時に――――。

 ああ、そうして、あたしの意識はそこで途切れた。

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