ネイキッドヒーロー

御調

村の英雄

 悲劇は突如として襲い来る。

 前兆も因果も無く、暴力的なうねりがただ偶然にそこに居合わせた人を呑み込んでしまう。少女にとっては今この瞬間がまさにそうであった。

暴れ猪エージャが出たぞ!家に隠れろ!」

 村に響く叫び声はしかし彼女にとって遅すぎた。激しく土煙を上げる怪物は、種としての限界を優に超える体躯と速度で少女へと猛進し、その距離は瞬く間に縮まってゆく。辺りに逃げ込める家屋は無いなどと判断するより先に、少女は逃れ得ぬ運命を悟った。へたり込んだ膝に伝う地響きが死へのカウントダウンだ。静かに閉じられた瞼の端から滴が溢れる。頬を伝うそれが地に落ちるより先に彼女の命は散るだろう。誰もがそう思った。ただ一人を除いては。

 衝突の瞬間、イノシシは少女の手前数歩のところで急停止した。いや、それは正確ではない。イノシシの四足は幾度も大地を蹴り、前へ前へとその身を進めようとしている。しかし蹄は無様に地表を掻くばかりで、その巨躯は見えない壁に阻まれたかのように場に静止していた。

 少女が恐る恐る目を開けると、目の前には何も、イノシシの姿すらもなかった。ただただ地平が見えるだけだ。しかしすぐ目の前から聞こえる荒い鼻息と地を掻く足音は、そこに怪物がいることを示している。

 視覚と聴覚の不一致に戸惑う少女の視界で、景色がぐにゃりと歪んだ。と、歪んだ景色の中から滲み出すように現れたのは、逞しい男の尻だった。

 現れた尻から広がるように、筋肉を纏った背中、肩、両手足が現れた。よく見れば肌の色が急速に変化していることがわかる。何もない空間から現れたのではない、体色を変えて周囲の景色に溶け込んでいたのだ。迷彩を解いて全身を露わにした裸の男。その両足は固く大地を踏みしめ、その両手は猪の牙を掴んでいた。

「遅くなって悪いな、嬢ちゃん。ちょっと離れてな」

 男が肩越しに笑ってみせる。余裕を崩さぬ態度に違わずイノシシは完全に抑え込まれている。しかし怪物も伊達ではない。いくら押しても突破できぬと悟れば即座に次の一手を打つ。

「おっと」

 イノシシは後方に飛び退いた。数メートルの距離を置いて男を睨み付け、暫し沈黙する。先刻は見えない敵からの不意打ちを食らって勢いを殺されたが、そこに居ると判っているのなら話は違う。今さら姿を隠したとしてもこの距離ならば避けることはできない。殺せる。イノシシは男に狙いを定めて地を蹴った。

「見かけより賢いじゃねえか。だがな・・・」

 男は姿を隠さない。裸身一体、仁王立ちのまま悠然と怪物を迎える。大地を蹴る度に怪物は加速する。先ほどの、通過がてら少女を跳ね飛ばそうとした時とは全く違う、目の前の強敵を突き殺さんとする突進だ。未だ姿を隠さぬ男に目掛け、最大の力を込めて一歩を踏み込んだ。その瞬間。

「…姿を隠すだけが能じゃねえんだ」

 男の体が光を放った。いや、違う。凄まじい速度で次々に色を変えているのだ。さらに明滅に合わせて複雑な模様が浮かび上がっては消える。瞬間的に繰り返されるそれはさながら稲妻のようだった。遠巻きに見ていた村の人々ですら思わず目を覆うほどの視覚刺激の暴力は、至近距離で怪物の脳を直撃した。前後不覚に陥り踏み込みの一歩を損ねた巨躯は男になされるまま地面に激突し、そのまま痙攣して動かなくなった。

「東の国では雷鼠ピカテウがコレで大勢を気絶させたと聞くが、なるほど効くもんだな」

 男は満足したように頷くと、また足下から背景に溶けていった。隠れていた人々が恐る恐る近づいたときには、ただただ倒れたイノシシが泡を吹いているだけだった。

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