誰かの祈りに応えるものよ⑦

「すみません。すみません。そんなつもりがあったわけでは……」


 青い顔をして、ニエは俺の方を見つめる。

 震える指先、何度も泳ぐ瞳。動揺と困惑、それ以上に見て取れる……罪悪感。


「大丈夫だ」


 頭を撫でて、軽く抱き寄せる。何が大丈夫なのかも考えておらず、事態の把握も出来ていない。

 おそらくニエは英雄を呼び出す儀式を自分もしてしまったのではないかと考えて、俺を無理矢理こちらに召喚したと思っているのだろう。


 何が大丈夫なのか、それすら考えていないがもう一度言う。


「大丈夫だ。……大丈夫」


 怯えているニエを見ていたくないというだけだった。

 本当にそうだったとき、本当にニエを恨まないでいられるかを考えそうになり、ガリ、と口の中を噛む。


「な? 怒ってない」


 口の中に血の味が広がる。きっと上手く笑えていたのだろう、ニエはホッとしたように笑みを浮かべて冷たくなった手で俺の手を握る。


「あ、あの……私、何でもしますから! 帰る手伝いも、生活する手伝いも、全部するので!」

「気にするなよ。別にそうと決まったわけでもない。俺自身、そんなに英雄ってほど強くもないしな」


 ……帰る手伝い、か。日本に帰るというのはあまり考えてこなかったこと、というよりも意味がないから避けてきたことだ。

 帰りたい帰りたくない以前の話として、違う世界にいて、闇雲に走り回っても帰られるはずがなく、帰る方法を探すには生活の環境をある程度整えなければならないからだ。


 今日食うパンがなければ、何をすることも出来ない。


「……あの、カバネさん?」


 ……考えていなさすぎて、この世界で大切なものを作ってしまった。もし帰る手段があってもニエを放って元の世界には帰れないだろう。

 ニエの頭をゴシゴシと撫でていると、不意に腐った肉のような悪臭が鼻に入る。


「……何だ、これ」


 眉を顰めて周りを見渡すと、同様に他の人も異臭に気がついたのかキョロキョロとしていた。


「なんでしょうか……。ん、あれ……」


 ニエが指差したのは謎の汁が漏れ出している麻袋だ。アレのせいかと思いつつ、ニエを連れてそれから距離を取る。


「誰かが捨てたりしたのでしょうか?」

「……そうだな。次はミルナの番だし、終わったらさっさと離れるか」


 ミルナの番が来て、他の女性に比べても豪華な服の少女が登場したことで視線が石像の方へと集まる。

 その瞬間、辺りがほんの少しだけ暗くなり、不思議に思って顔を上げた瞬間、大きな羽が目の前にゆらりゆらりと落ちてきた。


「……ッ」


 人よりも遥かに巨大な鳥。翼の形は翼長の割に幅が広く鷹に似ている。明らかに肉食性のゴツゴツとした脚部が広場の中心にいるミルナの方に向かう。


「ミルナ!!」


 思い切り叫ぶが間に合うはずがない。短刀を握って広場の中央に走ろうとするが、怪鳥から逃げようとする人間にぶつかるせいでマトモに進むことすら出来ない。


「ッ!! 邪魔だ!!」


 そう叫ぼうが、命の危険を感じて逃げようとする群衆に通じるはずはない。

 無理矢理にでも押し通ろうとした瞬間、背後から「いたっ」というニエの声が聞こえて振り返る。


 人と腐肉と鳥の混ざった悪臭に、アルコールの悪臭が混ざる。ふらりふらりと、俺の背後から俺を追い抜いていく人影が見えた。


「荷物持ち、ごくろーさん」


 決して早くない。けれども不思議と真反対から走ってくる群衆とぶつかることがなく、スルスルとすり抜けるように歩いていく。


 俺が背負ったままだった傭兵の荷物がいつのまにか無くなっており、俺の前を歩いていく男の手に握られていた。


「ッ傭兵!」


 俺が人からニエを庇いながら立っていると、傭兵は腕を真っ直ぐに上げて、大丈夫だと言わんばかりにひらひらと動かす。


「あー、とりあえず、それを持っていってもらうと困るな。一応雇い主なんでね」


 トン、と音が鳴ったのと同時に、尻餅を着いているミルナと怪鳥の間に氷の壁が発生する。

 この男がやった、と、不思議と直感で分かる。


 男は剣を引き抜いて怪鳥の元に辿り着き、深くため息を吐く。


「あー、こりゃ無理だな」

「ちょ、ちょっと傭兵! なんでここに!? というか、無理って──」

「いや、俺じゃ無理無理の無理。人間が勝てる系の魔物じゃねえよ。とりあえず下がって──ッうおっ!」


 傭兵の男はミルナを庇うように立つが、怪鳥の爪がバキリと容易に氷の壁を砕く。傭兵は急いでもう一つの壁を作りながらミルナの体を抱き上げて逃げようとするが、すぐに氷の壁が破壊される。


「……傭兵、五秒だけ耐える。次の五秒を頼む」


 氷の壁は容易に砕かれたが、決して無駄ではない。群衆が捌けて、俺が近寄るだけの時間は稼げていた。

 怪鳥の目の前で抜身の短刀を振り上げ、砕けて宙に浮いていた氷の礫に赤い刃が触れる。


 瞬間、氷が火に包まれて爆ぜる。唐突な爆破音に怪鳥が一瞬だけ怯み、その隙に手に持っていた袋を投げて、それに短刀を振って炎を発生させる。


 怪鳥が火に怯えたのも一瞬で、すぐに自分には効果のない程度の威力だと判断してこちらに向かってくる。

 だが、再度発生した氷の壁がその動きを阻む。


「あー、次の五秒頼む」


 怪鳥が氷の壁を破壊した瞬間を狙って懐に入り込む。深く刺さらないように、刃を滑らせるように怪鳥の脚をなぞり火炎を発生させ、その火炎に隠れるようにして怪鳥の視線から逃れる。


「……マトモに効いてないな」


 怪鳥に見つかる前に離脱する。……これは勝ち目がない。


「五秒頼む」


 氷の壁が怪鳥の周囲に発生したかと思うと、それに紛れるように人影が怪鳥へと迫る。傭兵の突き出した剣が怪鳥の目を狙うが、ズレて頭部に当たった。

 浅く傷を付けるが致命傷には程遠い。

 怯むことすらなく嘴を傭兵へと向ける。


「こりゃ無理だな」


 嘴が傭兵の腹に当たりかけた瞬間に俺の脚が傭兵を蹴飛ばす。

 蹴ったせいで体勢が崩れ、俺の方に怪鳥の嘴が向く。

 体勢を立て直すのが間に合わない。短刀を振るのも無理だ。


 躱しきれない。痛みを覚悟した瞬間、カツン、と嘴に石ころが当たる。

 一瞬だけ動きが止まり、その一瞬の間に俺と怪鳥の間に氷の壁が発生する。


 体勢を立て直すのと同時に横に跳ね飛ぶ。砕けて飛んだ氷の破片が身体に突き刺さるが、大した怪我ではない。


「……これは、無理だな」


 龍のときとは違い傭兵もいるが、スリングショットはないし、動きにくい街中で、怪我もしているうえに……何より、この生き物の観察が足りていないせいで弱点が分からない。


 龍は飢えに弱そうなことは分かったが、この鳥はどうだ。翼と脚部は鷹に似た猛禽類に近い生き物だが、頭の作りが鷹と違って羽毛が生えておらず皮膚が剥き出しになっている。

 脚の爪の付き方は獲物や枝を掴むことよりも、むしろ今のような地上での歩行に適した形をしていた。


 馬鹿でかいが、地球で言うところのコンドルに似ている生物に見える。


「……逃げるか」

「ああ、逃げるしかねえな、坊主」


 横目で腰が抜けているミルナに肩を貸して移動しているニエを見ながら、短刀を地面に当てて火を見せて撹乱する。


 とりあえず時間を稼ぐ必要がある。示し合せてもいないが、傭兵は怪鳥を中央に俺と対角線上に動き、どちらかに狙いを定めさせないように立ち回る。


「あれを封じ込めることは出来るか?」

「無理だな。ある程度、時間を稼いでくれたら、一瞬動けなくすることは出来るが」

「分かった」


 短刀を構えて、怪鳥の爪を全力で避ける。

 やってやるしかないってことだ。

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