第10話
「父さん、頼みがあるんですが」
正一は、父の書斎を訪ねた。椅子に座った正一の父は、眼鏡を外しながら振り返る。
「へえ、正一から頼み事なんて珍しいこともあったものだ」
目をぱちりとさせた父に、いくら家に余裕があるとはいえ、もっと手伝いをするから小遣いをくれ、というのは気が引けた。正一は書斎の前で棒立ち、話を切り出せなかった。
「どうした?」
「……」
「なんだ、言いづらいことか?」
「いえ、あの」
父が、じいっと正一を見つめる。黙っていても仕方がない、尚更嘘をついても仕方がない。フウと一息落ち着かせると、正一もまた父をジイっと見つめた。
「欲しい物が、ありまして」
「ほう、これまた珍しい」
「貯めていた金じゃ足りなくて、もっと手伝いを増やしていただけないですか」
物欲がなかった正一は、今まで貯めた金はそれなりにあった。いまある金は、ミズに会うために使うとして、そこから贈り物を買ってしまったらもう会えない。そうしたら元も子もなく、必然的にもっと入る金を増やすしかなかった。
「手伝いをしても金なんかいらないと言っていたお前から、小遣い稼ぎをしたいなんて、槍が降るんじゃないか?」
「すいません」
「いや、謝ることじゃないんだが」
口の上で切りそろえられた髭を優しく揺らした。いつも頼ろうとしない正一が、頼ってきてくれているのだ。親心として、なにか嬉しい物があった。
「なんだ、なにが欲しい? 本か?」
「いえ……万年筆をと」
「万年筆?」
はい、と正一は返事をした。
「昔やった、私のものは壊れたのか?」
「いえ、ありがたく使わせて頂いてます」
「そうしたら安い物なら、貯めた金で買えるんじゃないか?」
「……無理なら、手伝いのほかに出前や風呂場の薪割りでもなんでもするつもりです」
父は、ほう、と腕を組み、顎を撫でた。理由は言わずとも、あの勉強以外なにも頓着がなかった息子が、そこまで執着するとは。
「学生の本分は勉強だ、薪割りだのなんだの、二束三文のことをして疎かになってはいけない」
それは分かるね、と澄んだ声で正一を刺した。そんなこと、重々承知だった正一は、恥ずかしさに拳を握り締めながら、はい、と返事をする。
「……まあ、私の手伝いならいくらでもあるし勉強にもなろう」
「いいんですか?」
「そのかわり、みっちり働いてもらうぞ。そうしたら……書庫からこれを持ってきてくれ」
ペンにインクを少しつけた後、適当な裏紙に本の題名を書いた。ほら、と正一に渡すと、ありがとうございます! と、廊下を走って行った。
「あの正一がなぁ」
いなくなった戸を見ながら呟くと、正一の母が、お茶をもってきた。湯気のたった湯飲みは、分厚く高級感もある。
「なんだか心配です。あの子があんなに、夢中になるなんてなかったもの……最近書生の子と一緒にいるから、悪い遊びなんかを覚えないといいのだけれど」
「なに、正一のことだ。そこ辺りは心配しなくても大丈夫だろう」
「そうかしら……」
廊下を走る足音と、茶を啜る音だけ響いた。
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