第52話 若さまだぁぁ

 裏庭の畑も青々と息づき始め、皆の落ち着きを見守っている。

「ごめん」

 明らかに武家の訪問だ。

 首をすくめた吉郎に、南針が声をかける。

「存じ寄りの方だ。ご案内いたせ」

 宇土三郎衛門の鍼灸師を務める武家の宇土源吾であった。

 源吾は宇土一族で、嫡男の頓死により還俗し、菊池家へ仕えている。

「南針先生、目の具合はいかがですかな」

「不覚でございました。皆々にご心配をかけ申し訳ない」

「何度か留守にお伺いしたが‥‥‥」

「そうでしたか、宇土さまに何か」

「あまり宜しくない。目のご不自由な南針先生に往診をお頼み申すのは申し訳ないが、あまり刻がないと思われます。拙者がお迎えに来ます」

「わ、わしが供をします。ば、ば、場所を教えてください」

 なにやら不信を覚えたのか、吉郎がしどろもどろに口を出した。

「吉郎、心配はいらぬ。わたしの患者さまなのだ」

「それでも、お供します」

「うむ、それこそお主の仕事じゃ。南針先生をお守りして供をいたせ」

「あ、ありがとうございます」

 何時の間にか、吉郎は南針の一の子分だ。

 翌日の昼過ぎ、源吾の迎えを待って往診することに決まった。南針は、夕刻で良いといったのだが、吉郎が明るい昼間に移動したいといいつのった。吉郎の頭脳はクルクルと回り、謝涛屋の男衆を一人二人、応援に頼むつもりだ。


 薄曇りの暖かい日だったが、日差しが直接入るのを避けるため、濃いめの布で目隠しし、笠をかぶった南針は、吉郎の右ひじに軽く手をかけ、過たず前へ進む。

 乗り物を用意するといわれたが、断り、日々頼りがいを増す吉郎の半歩後ろを歩いてきた。

 先導している源吾の迎えを待って、出かけた。一行のはるか後ろを謝涛屋の男衆が二人。主に命じられて警護についている。

 薬湯の匂いが、道端まで漂っている。目的地に着いたことが南針にも分かった。

 前方の三人が、小さな家の門をくぐり姿を消した。男衆の一人が謝涛屋の方へ走って行く。

 謝涛屋の主は、宇土さまの家に行くんだから警護などいらないと思ったが、吉郎が一生懸命考えた策だ。叶えてやろうと男衆を派遣した。離れていても男衆の一人が成長していくのは悪いことではない。顔つきも変わって来たし、きっと役立つ男になるだろうと頬を緩めた。

「三郎衛門さま、南針先生をご案内しましたよ」と、声を高くした源吾が奥へと進む。

 薬湯の匂いが咽るほどに濃くなっている。

 吉郎を入り口近くの部屋へ控えさせた南針は、源吾の足音を頼りに、一人歩く。知らぬ人がみれば、目が不自由とは思えない足取りだ。

「部屋へ入ります」と、室内の病人へとも後ろの南針へともつかぬ声をかけた。

 摺り足で敷居を確かめた南針は、微かに病人特有の臭気を含んだ薬湯の匂いの中へ滑り込んだ。

 源吾の手が伸びて、宇土三郎衛門の枕辺まくらべに導かれた。

「宇土さま、南針でございます。お加減は如何でございましょう」

「な、ん、しん、セェン‥‥‥」

「拙者は、控えますれば、南針先生、何時でもお呼びくだされ」

「源吾、そちも、そこにおれ」

 源吾が、三郎衛門に冷めた白湯を含ませ「あまりお話しなさいませんように」と囁いた。

 しかし、三郎衛門の話は、長く驚きに満ちたものであった。話し出せば咳き込むこともなく、声音低いながらも確りとした言葉が部屋に満ちた。

 三郎衛門の話が終わると、動くもののない部屋の隅に置かれた火鉢の上の鉄瓶が、静かに湯気を吐き出す。

「じい、海の底から大きな魚が上がってきたのだ。覗き込んだら、船が揺れて‥‥‥ あとは宋国の山の中で言葉も分からず、涙も出なかった」

「わか、おいたわしや、このこの爺が悪いのです。酒を飲み浮かれており申した」

 途切れ途切れだった話が、饒舌となり、息絶え絶えの病人とも思えない確かさで、舌が回った。

 それは若君二人の誕生の際の大わらわと、若君が遭難した船の宴会の様子であった。

 すでに姉の桜姫にも、詳細を記した手紙を送ってあるという。

 冷たくなった三郎衛門の右手を、そっとそっと握り、強くまた強く握り、人差し指から順に付根から指先までゆっくりと揉みしだいた。

 やがて静かな部屋に、病人の寝息が聞こえた。


 あとの成り行きを任された源吾は、頭を抱えた。

「源吾どの、わたしは名乗り出るつもりはありません。記憶の底に『じい、じい』と誰かを呼んだ覚えはありますが、それが宇土さまであったかどうか、定かではありません。海の底から大きな魚が上がってきた覚えもありますが、それは何度も往復した玄界灘で見た時に蘇ったもので、遭難した時の記憶かどうか分かりません。何れにしても、盲目の身で騒動を起こすなどもっての外、姉上には会いたいとも思いますが、ご迷惑をお掛けしてまで‥‥‥」

「菊池の殿には会わないと」

「もちろんです。宇土さまが喜んでくださるなら、ひと時、宇土さまの若さまになっても良いと思ったのです。それだけです。源吾さまも此度のことはお忘れ頂きたくお願い申し上げます」

「若さま‥‥‥」

 二人の会話は、宇土家の入り口前で行われている。

 門を出て、少し離れた場所に俯き小腰を屈めている吉郎の耳にも二人の声が切れ切れに入ってくる。

 わ、か、さ、ま、と呟いて、おれのお仕えしている方は、若さまと呼ばれる人なんだと、吉郎は胸を熱くする。


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