ヘミングウェイ

 ケイ君が「10分後に広場へ集合」と言うと、皆が武装を整える為に家へ帰った。

 北川住宅の真ん中には広場が在る。広場とは名ばかりの、狭い空き地の様な場所だ。その狭い広場に10分後に集合なら、そこまで急がなくても間に合うだろう。


 僕は手に持ったヘミングウェイを返す為に、家へ帰ろうとするムラサキを呼び止めた。僕は「これ」とだけ言って、彼女にヘミングウェイを突き出す。


「ぁあ、その本ならあげるよ」

「大事な本なんとちゃうんけ?」

「仲間に入れてくれたお礼だよ。それに、大事な本を大事な人にあげるなんて素敵じゃない?」

「せやけど、おれ英語読まれへんがな」

「英語、も、でしょ? まぁ、受け取って頂戴」


 確かに僕は英語だけじゃなくて、漢字だって碌に読むことが出来ない。そもそも活字を読むのが苦手だ。ロシア語だろうと日本語だろうと、本を見ただけで悪寒に襲われ熱が出る。吸血鬼にとっての十字架の様なもので、僕は本をいただくだけで嫌悪感を抱くから、唯唯諾諾いいだくだくと受け取る訳にはいかない。本を読むと考えただけで足はガクガクと震え、体は汗でダクダクになる。


 僕がヘミングウェイは要らないと言う前に、ムラサキは「じゃあ、後でね」と言って走り去った。仕方が無いので、僕はヘミングウェイを持って帰る事にした。





 僕が広場に着いた頃には、あっくんとケイ君とヤーさんが既に集まっていた。あっくんが「もう大ちゃん来たし、後は置いていこう」と言ったが、既にムラサキも遠くからこっちへ向かって走ってきている。ムラサキが息を切らしながら到着すると「今、私を置いていこうとか話してなかった?」と言った。


「言ってへんわ。それより自分、チャリはどないしてん?」と、あっくんが言った。

「自転車持ってないの」

「チャリも無いのに付いてこようとしてんかいな?」


 あっくんとムラサキの喧嘩が始まるのを止める様に、ケイ君が「俺、家にもう一台チャリあるから貸すわ」と言ったが、ムラサキは「自転車乗れないのよ」と顔を赤らめながら呟いた。


「大ちゃんの後ろに乗るから大丈夫よ」とムラサキは言い、僕の方を見ながら「ねっ?」と言った。ケイ君の眉間に皺が寄った。あっくんが「あんま大ちゃんに迷惑かけんなよ」と言い「ほんで巨人は何持って来たんや?」と続けた。


「オカッパこそ何を持ってきたのよ? どーせ、大した物じゃないでしょ?」


 あっくんはムラサキに向けて人差し指を揚げて、それを左右に振りながら「チッチッチ」と言った。


「特注やでぇ」と言いながら来ているTシャツの前を捲ると、ベレッタM92がズボンに挟まれていた。勿論エアガンだ。そして、特注では無い。あっくんのお気に入り10歳以上様エアガン、通称「ベティ」は彫刻刀でガリガリと削られていてボロボロだった。あっくん曰くエングレーブ加工だそうだ。芸術性を求め過ぎたのか、子供のおふざけなのかは解らないが、僕には汚くてみすぼらしい様に見える。もしくは歴戦を潜り抜けて来た呪われた拳銃の様だ。そんなエアガンに、どうしてベティなんて名前を付けたのかは彼にしか解らない。


「何よ、その汚らしくてみすぼらしいピストル」とムラサキは言った。どうやら僕と同意見な様だ。その言葉を聞いたあっくんは不敵な笑みを浮かべる。


「そろそろ俺様のベティが火を噴くで」

「なーにがベティよ。ほんとあんたは馬鹿ね」

「おふざけが過ぎるぜお嬢ちゃん」

「オカッパのお坊ちゃんは放っておいて、他の皆は何を持ってきたの?」


 ケイ君は木刀を持ってきていて、ヤーさんもエアガンを持ってきていた。僕は手作りのスリングショットと、パチンコの玉を持ってきた。


「みんな、いろいろ持って来とるねん。まさかムラサキは、なんも持ってきてへんとか言うんとちゃうやろな?」あっくんが言うと、ムラサキは「ちゃんと持って来たわよ」と返した。しかし、ムラサキはどう見ても手ぶらだ。


 ムラサキは右のポケットを漁り出し、そこから小さな水鉄砲を取り出した。半透明の紫色をした水鉄砲は、殺傷能力は皆無だろう。その水鉄砲はワルサーPPKの様な形状をしている。もしこれがジェームズボンドの秘密兵器だとしたら、きっとレーザー光線の1つや2つは発射出来る筈だ。だけどこれは水しか発射出来ないだろう。射程距離は1メートル足らずなので、水鉄砲本体を投げる方が距離も威力も出るだろう。もしくは中身を水じゃなくてガソリンにすべきだ。


 ムラサキが水鉄砲を出したことに、皆が絶句していると「違うわよ。まだ、あるの」と言って、ムラサキは逆側のポケットを探り出した。ムラサキのポケットから出てきたリーサルウェポンは、赤い輪ゴムが数個だった。流石のあっくんも呆れて何も言えない様だ。




§〜○☞☆★†◇●◇†★☆☜○〜§




 彼女から貰ったヘミングウェイは未だに僕の手元に在る。本の表には「Men without women」と書かれている。僕にはこの本の意味を理解出来無い。勿論、大人に成ったので読めないと言う意味では無い。文字は読むことが出来ても、意味は理解出来ないんだ。本当の意味は本を持っていた当人しか知り得ないし、ヘミングウェイにだって解らないんだ。そういうものじゃないか?


 深い意味があるようにも思えるし、意味なんて無かったかのようにも思える。


 どうやら世の中はそういうもので溢れている様だ。今となっては本当の意味なんて知りようがない。きっと、この先も解らないままなのだ。

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