8.蓋棺アクアリウム
名取
第1話
あるひとによれば、自分が知覚するものだけが現実だという。
この世界に真に存在しているのは自分自身だけで、そのほかは全て、自分が認識して初めて存在する、幻のような不確かなもの。だから自分が死んだら、世界も消える。独我論————確か、そんな話だった。誰が言ったのかは記憶にないし、興味もない。でも一つ気に掛かることがあった。もしその話が真実だとしたら、私は、私が生きていることに、どれだけの意味があると言えるのだろう。
死んで、全部消えるなら。
どれだけ永く生きていたところで、どこにも何にもなかったのと同じだ。
「決まってるだろ? 証明するんだよ。僕たちの存在には意味があったってね」
穏やかな話し声に引き寄せられるように、暗闇のなかでバラバラに微睡んでいた意識が、徐々に形を為して浮かび上がる。瞼を開くと、人工的なライトの青白い光が網膜に突き刺さった。頭がまだ重く、全てが微かにゆらゆら揺れているように見える。起き上がって声の方を見ようとしたが、頭も体も全然動かず、さらに強く力を込めると、手首足首に鈍い痛みが走る。首をわずかに回して周りを見てみると、私の身体は、固定具によって手術台らしき硬いベッドにくくりつけられているようだった。フェリスの時の少し荒っぽい拘束とは違い、今度は一分の隙もない。手慣れている。ぼやけた意識の中でも、確かにそんな印象を受ける。
「おや。お目覚めのようだ」
声の響き方も、感覚の痺れのせいかいつもと違う。まるで深い水の底にいるかのように輪郭が滲んでぼやけて——温度を感じない。
「参考までに聞いておこう。君は、リア? それとも、エドなのかい?」
唇を動かすことさえ、筋肉が強張ってままならない。オフホワイトの白衣の裾が、ひらりと視界を横切って、闇に消える。どこかから規則的な電子音が聞こえる。見覚えのある青い瞳が私を見下ろして、青白い光の中で揺らめきながら、曖昧に微笑みを浮かべた。私は口を薄く開いて、酸素を吸う。
「また……質問?」
「おっと、そうだったね。申し訳ない。職業病なんだ」
「ここ、は……」
息が続かず、声が掠れる。
いくつもの靴音に紛れて、無機質な女性たちの声がした。でもそこには感情はなく、生まれては消える泡沫のように淡々として、わずかにしか聞き取れない。ライトの当たる場所以外は真っ黒な影になって、部屋の中はほとんど見えない。でもかろうじて、点滴の管と、数字や文字列の映ったいくつかのモニターだけは見ることができた。
優しい囁き声が、上の方から降ってくる。
「その昔、精神病患者はある意味で『神聖な存在』と見なされていた。謎めいて奇天烈な言い方で、しかし端的に真理を突いたことを言う、一種の預言者のようにね。けれどそんな風潮も、社会の変化とともに廃れていった。代わりに彼らに与えられたのは、医療機関とは名ばかりの、隔離収容施設だけだった」
海。
息苦しさからか、そんな言葉が浮かぶ。
行ったことはある。よく晴れた休日の、ごった返す日本の海はあまりにも煩わしくて、場違いすぎて、消えてしまいたくなったのを覚えている。でも暗い顔をしていると責められたので、私は人という人とぶつかり合いながら、ぬるくて塩辛い水の中で、壊れたねじ巻き人形のように自分で自分の思考を叩き潰しながらけたたましく笑っていた。その時の海とは、違った。
それほどつらくなく。
恐ろしいけれど、浩然として美しい。
「拘束椅子、蒸気箱、感電療法、ジアテルミー。ありとあらゆることが試された。異常な彼らを正常に戻そうとして。でもどれもうまくいかなかった。どうせ正常じゃないならと、患者で人体実験紛いのことをする病院もあった——ここはそんな場所の一つだった」
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