第12話 準備はよいか
あれから問題なく、夜の当直は終わったようだ。午前四時から当直にあたる職員と交代で就寝についた職員以外は朝食をすませる。
伊佐は六時には起きて身支度をすませた。今は食堂で朝食を食べている。
【献立】
ごはん
お味噌汁
サケの塩焼き
サラダ
ヨーグルト
女性も男性も関係なく、ほぼ同じ量を食べている。
巡視船での業務は体力勝負といっていい。男女関係なく、それぞれの科の仕事をこなしていく。
甲板では重くて太い
「うまい……」
「何しみじみしてるんですか? おはようございます」
「おはようございますレナさん。やっぱり出汁のきいた味噌汁は最高ですね」
「ありがとうございます。そう言ってもらえるとうちの子たちも喜びます。みんな頑張ってるから」
「あれ、コーヒーとヨーグルトだけですか?」
「あ、すみません。朝は軽くじゃないと……」
「なるほど。いろいろなスタイルがありますね」
レナも昔はよく叱られた。朝食こそしっかり食べなさい。そんなことで仕事が務まるのか。レナ自身もそう思っていた。だからしっかりと食べた。しかし、ダメなのだ。理由はわからないが必ずそれが船酔いに繋がる。しかし、昼食や夕食ではそれが起きない。
「食べないとダメだって言わないんですね。体力勝負だぞ! って、言うかと」
「え? そうか、まあ確かに食べた方がいいですよね。でも、食べない方が調子がいいなんて人もいるみたいですから。それぞれでしょう」
「へー。さすが現代エリート上司」
「は?」
「なんでも?」
伊佐が朝食を食べ終わる頃、食堂の入口が賑やかなことに気づく。何事だろうと伊佐が顔を向けると、そこにはまだ寝ているはずの歌川が立っていた。
午前零時から四時までの当直だったはずだ。
「朝はきっちり食べないと調子が出ないんですよ。今朝は和食ですね。ああ、お味噌汁からいい匂いがします」
「でしょう! あ、サケはこれをどうぞ。他のより身が厚いです。内緒ですよ」
「僕を特別扱いしてもお給料はあがりませんよ」
「ひどいです。そういうのじゃありませんから」
「はい、はい。いただきます」
歌川の隣をきっちりキープしているのは、主計科の虹富まどかだった。ご飯をよそったり、お茶を盆に乗せたりとかいがいしく世話をしているように見えた。
(歌川のやつ、嫁連れて歩いてるのかよ……)
「くくっ」
「伊佐さん、どうかしました?」
「いえ。私はこれで。ごちそうさまでした」
伊佐は食べ終わったトレーを返却口に返して、もう一度歌川たちの方を見た。声こそ聞こえないが、虹富が何かを一生懸命に話し、それに黙ってうなずく歌川。
「あいつ、気付いてないんだろうな」
面白いことが起きそうだと、伊佐は笑いを堪えながら自分の部屋に戻った。
◇
八時半。
巡視船かみしまの後方甲板に、職員たちが等間隔に整列した。課業前に行われるラジオ体操だ。全員が第四種(夏用)の紺色の制服を着ている。
―― 腕を大きく上げ、背伸びの運動
ここで体を動かしほぐしておかなければ、一日の業務に差し支えるかもしれない。
ラジオ体操のあとはスクワットなどの、軽い筋力トレーニングを行う。
そして、確認を兼ねて制圧術の訓練もする。これも男女問わず、必ず行われるのだ。
海上保安官は全員、制圧術を習得することとなっている。
「制圧訓練にはいる。では今日は、伊佐さんに制圧術の手本を見せていただきます。お相手は……」
伊佐にとって寝耳に水。警備隊でもないのに自分が手本を見せるなんて聞いてない。しかもその手本を見せろと言っているのが、かみしま特警隊の平良だ。
(まさか、射撃訓練を根に持ってるわけじゃないよな……)
伊佐は思わず歌川を探した。しかし、午前四時まで当直を勤めた歌川はこの場にいない。
「あいつ、肝心な時にいないじゃないか」そう思った時、相手になりたいと手を上げた者が数名。みな、女性ばかりである。
海上保安官であれば誰もが学ぶ制圧術である。船上、陸上問わず、業務執行妨害をする者はそれ相応の処置を行う。それに、性別など関係ないのである。
「さすが伊佐さん、人気がありますね。私の場合、誰も手を上げませんよ。特に女子はね」
「制圧術の指導は、私より特警隊が適しているでしょう。私の出る幕ではないと思うのですが」
「我々のより、
「分かりました。しかし、それでは女性保安官に失礼です。そちらの隊員もお借りしますよ」
「は?」
(悪い癖がでたな……まあ、仕方がない)
歌川もいないことで誰も伊佐を抑える者はいない。伊佐の悪い癖は静かなる挑発に乗ってしまうことだった。売られた喧嘩は割と買ってしまうタイプなのだ。
「では、平良隊長からご指名頂きましたので、軽くやらせてもらいます。先ほど手をあげてくださった五名と、かみしま特警隊の若手隊員は前へ。他の方々は下がってください。基本制圧と、応用編をお見せします」
伊佐がまとう空気が変わった。それを甲板にいた全員が感じたはずだ。平良だけは腕を組んで仁王立ちで見ている。
手をあげた五名と特別警備隊の若手隊員だけが中央に残った。
「では、立候補していただいたみなさんは、お一人つずつどうぞ。そうですね、私の胸にある階級章に触れられたら良しとしましょう。手段は問いません。警棒を使われてもけっこうです。では、あなたからどうぞ」
「では、参ります!」
一人目が伊佐の前にたち、低い体勢から伊佐の左胸を狙った。背の高い伊佐は難なく上から手首を取り捻ると、一人目は甲板に手をついてギブアップした。
これは合気道などでも用いられる、相手の力を利用するだけのシンプルな技だ。女性の護身術などに役に立つ基本中の基本。
「次!」
「参ります!」
技に覚えがあるのか、二人目は拳を握り伊佐に殴りかかってきた。空手か柔道経験者であろう。足腰がしっかりしており、気迫が感じられた。
伊佐は向けられた拳を真横に避け、素早く肘を突いた。体勢を崩したところで手首を取り、肩を押せば簡単に膝をついて制圧完了。
「次!」
何がなんでも伊佐の階級章を触りたい。いや、むしり取ってやりたい。襲いかかる方もいきり立った。
警棒で突いてくる者、足蹴りから入るもの、みな女性とは思えないほど勇猛果敢である。
しかし、伊佐の前では誰一人として歯が立たない。
「えー、全然届かない! 悔しい!」
立候補した女性全員、甲板に正座して落ち込んだ。
「さすが伊佐さん。基礎はしっかり学ばれていますね。ですが、うちの若いのは簡単にはいきませんよ」
「そうですよね。なので私も全力で行かせていただきます」
伊佐は額に浮かんだ汗を手の甲で軽く拭うと、警備隊員に向かってこう言った。
「全員で私を制圧してください」
「なんだって」
甲板がざわついた。
伊佐はなんてことない顔で中央に歩み出た。朝日が伊佐の肩をさす。
「おいお前ら、舐められてんぞ! 配置につけ! 目標、伊佐監理官。始め!」
かみしま警備隊員は素早く伊佐を包囲した。合図は伊佐が投げた帽子だ。悪役を買ってでた伊佐が人差し指で挑発する。すると円を組んだ警備隊員が回りながら、その円を小さくして伊佐に迫る。
一人の隊員の合図で一斉に伊佐に飛びかかる。
制圧の基本は、誰も怪我をすることなく犯人を抑えることだ。
「かかれ!」
お互い丸腰であるので、怪我をすることはないだろうが、あたりは緊迫している。
あっという間に円は塊になり、数名の隊員が伊佐を中央で押さえ込んだ。さすがにこれは伊佐が気の毒だと誰もが思った。しかしこれが制圧の基本だ。特別警備隊の展示訓練でよく見るやつだと、誰もがホッとした。
「イデデ……」
しかし、それは違った。
「うおっ」
押さえ込まれたはずの伊佐が真ん中で立っている。その周りで、警備隊員たちは手首や横腹を押さえながら転がっている。
「おい! なんてザマだ!」
平良隊長の怒号が甲板に反響した。
訓練だから、自分たちは特別警備隊だからというおごりがこうなったのかはさて置き、何が起きたのか当人たちも分かっていない。
「申し訳ありません。油断しました……」
「ばかもーん!」
その時、いさもまた油断をしていた。
「はい! 伊佐監理官の階級章いただきましたっ」
「なにっ!」
伊佐は背後から伸びてきた手に気づかず、いとも簡単に左胸を押さえられていた。
そして、暴れないように首も取られる。
「いやぁー」
「きゃー、後ろから」
「抱きついてる〜」
女性たちからなんとも言えない悲鳴が聞こえた。その悲鳴はまるで、アイドルの舞台を見ている時の声にそっくりだ。
我如古レナだった。
「伊佐さん。終わりの合図まだなのにダメですよ? 私の勝ちですね!」
ピリリと、伊佐の階級章は剥ぎ取られた。これには伊佐も自分の負けを受け入れるしかない。両手を頭の上にあげ降参の合図を送った。
「気配、けせるんですか……」
「ふふっ。さあ、みなさん課業開始ですよ〜」
伊佐は階級章の無くなった左胸を押さえた。まさに、一瞬の虚を突かれたのだ。しかも背後から心臓のある場所を。なんとも言えない気分だった。
「あ、これお返しします。真っ直ぐに貼らなきゃ……よし! では今日もよろし……く?」
レナが伊佐の胸に手を伸ばし階級章を貼ったとき、伊佐は無意識に彼女の手首を握っていた。白くて細いレナの手首から、ドクドクと脈打つ血管を感じる。
(熱い……)
「あのっ」
「ああ、すみません」
「後ろから取ったこと、怒らないでくださいね。あの場があまりにもピリピリしてたんで」
「いえ。見事な身のこなしでした」
「え、あ、ありがとう、ございます」
レナは伊佐が離した手首を後ろに隠した。触れられた場所がとても熱いのだ。
伊佐の体温がそこだけにまとわりつき、離れない。
その熱さが妙に心地よい。
かみしまの一日は始まったばかりだ。
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