六.
「よし、じゃあ、え~っと、何から話して、何から聞けば良いんだ?」
さて、今度こそ一息つけただろうということを確認して、颱良が本題に切り出そうとする。しかし、いざ話し始めようとすると、なかなか情報の整理が追い付かないようで、顎に手を添え、宙を見ながら僅かばかり眉を顰める。その様子を見かねたのか、レイがすっと手を挙げる。
「まずは確認しておきたいんだが……トーヤ、精霊界に来てから体の調子はどうだ?」
「え、僕ですか!? えっと、そうですね……」
突然話を振られたことに困惑し、棠鵺は逡巡する。
「さっき、食べ物は頂きましたけど、その、美味しくて食べすぎちゃった気もするんですけど……でもそれ以前にやっぱりお腹が空かないなって。実際に来る前は、もっと疲弊することを想定してたんですけど、杞憂に終わった感じがします」
「そうか……」
その返答に、レイは怪訝な顔をする。
「それは、さっき言ってた気になること、と関係があるの?」
「そうだな……あくまで体感でしかないし、俺も精霊界に来たのは多分初めてだから、あんま分かったようなことは言えないけど……精霊界は
あまりにも単刀直入且つざっくりとした物言いに、琅果と颱良は首を傾げる。
「あたしが物心ついた頃には多分こんな感じだったけどなぁ?」
「俺もそう思う、けど……何かおかしいのか?」
「言い方が悪かったな。つまり、その、陽の気がこんなに歪み始めたのは、この間の謀叛、つまり千年桜の調子が悪くなってからなのかを聞きたい」
千年桜という言葉が出た瞬間、颱良の表情が硬くなる。
「陽気が歪んでる? それがどういう意味かは分からないけど、特におかしくなったところはない……と思うよ? まぁ、あたしに対する態度とかは色々変わったけど、でもそれは当たり前じゃない? なんたって悪政を敷いた先帝の娘だし?」
顔は笑っているが声は全く笑っていない。どこか忌々しげにそう言ってのける琅果の声音には、怒りとも哀しみともつかない、微弱な震えが含まれていた。
「俺はあの事件以降もずっと
颱良は自身の腕を軽く擦り、さっと宙を見た。意識を集中して、細かい部分まで気を感じ取ろうとしているようだが、それでもレイの発言はどうにもピンと来ないらしい。
「それに、琅果には悪いけど……」
言いかけて口籠る颱良を一瞥し、琅果は「良いから」と先を促す。
「寧ろ、あの事件の後の方が、笑顔が増えたというか、少なくとも市井の者にとっては楽しみが増えたと思う。新しい先導者によって新しい時代が来るっていうことに、楽しい未来が視えてきたのかと、俺は思ってたけど……」
琅果の表情は複雑だった。改めてそう言われてしまうと、やはり受け止められないという気持ちもあるのだろう。桜色の薄い唇をぎゅっと噛み締めながら、彼女は口を噤む。
「そうか。なら、やっぱりこれは千年桜が機能しない弊害ではないんだな……」
「ってことは、つまりどういうこと?」
ふむ、と考え込む素振りを見せるレイに、琅果の口が開く。その唇にはうっすらと赤い色が浮かび上がっている。
「精霊界は、もう何百年も前から歪んでるってことだ」
曰く、陰気と陽気は常に裏表であり、どちらかの気をもう一方に変換すること、それ自体はさほど難しいことではない。それは同じ事態に遭遇して、それを好意的に受け取るか、悪意で以て受け取るかの違い――たとえば怒られたことを自分のための優しさと思うか、自分への嫌がらせと思うか――程度のことでしかなく、それを好意的に受け取ることで陽気が生まれる。それは一見とても好ましいことだ。しかし、本来は陰気として処理されるべきものまで、無理に陽気とすることが一度や二度ではなく、何度も、何度も、もはや当たり前のように繰り返されていくと、次第に陽気は歪んでいく。
精霊族はヒトの陽の感情を糧として生き、それによって霊気を駆使することのできる種族だ。そのために本人たちもまた極めて楽観的かつ大様な性格となりやすい。しかし、かと言って陰気を一切持たない種族というわけではなく、ヒトとして当然の感情は当たり前のように持ち合わせているのだ。
だが、そういった感情を恥ずべきもの、あるまじきもの、出すべきではないものと処理していくと、自然と心が、そして体が歪んでいく。それが個人の問題ではなく、精霊界という世界そのもので起きているのではないか――と、レイは言う。
「トーヤが腹が減らない、疲れないと感じるのは、恐らくこの精霊界中に本来は陰気であったはずの陽気が溢れてるから……だと俺は思う」
淡々と話すレイの言葉を遮る者はいない。どこか信憑性を抱きつつ、しかしどこか疑念を抱きつつ、三者三様にその話を受け止めた。暫しの沈黙。それぞれがそれぞれに、レイの言葉の意味を何度も咀嚼し、何を話すべきなのかを考えているようだった。
「あの、レイさん……」
最初に静寂を破ったのは棠鵺だった。おずおずとした態度で申し出る彼に、三つの視線が集まる。
「その話って、その、琅果から聞いた本来の千年桜の機能そのものに似ていませんか?」
千年桜には陰の気を陽の気に変換する力がある――とは、琅果と初めて会った日に彼女から聞いた話だ。実際にそれがどのような形で行われているのかを知る由はないため、漠然と似ているとしか言えないが、しかしそれでも、似ているのは確かだ――と棠鵺は考える。
それはレイも感じていたことらしく、棠鵺の問いかけに、レイは黙って頷いた。
「とはいえ、俺も実情を知らないから何とも言えないけど。実際にその千年桜とやらを見ないと何も分からないしな」
「でも、でもさ、それなら千年桜が弱ってる今、少しでも改善されないとおかしくない?」
二人の話に食って掛かるのは琅果だ。幼少の砌よりその傍にあって、千年桜と時間を共有してきた彼女にとって、千年桜が歪みの原因であるとは納得がいかないのも当然だった。
「だから、それは俺には分からない。俺はその前を知らないから、現状でも本当は改善されているのかもしれない。或いは、本当に千年桜は何も関係なく、もっと他の原因があるのかもしれない。ただ言えることは、今の精霊界の気は不純物が多すぎるってことだけだ」
「でも、じゃあ、そしたら、千年桜の治療はしない方が良いってこと?」
「それも俺には分からないって。した方が良いのかもしれないし、このまま朽ちてくれた方が良いのかもしれない。そもそも、トーヤの……青春扇? で、本当に治療できるのかも分からないんだろ?」
「それは、まぁ、そうだけど……でも、あたしはやっぱり、見捨てるなんてことは……」
レイにしても琅果にしても、どうにも歯切れの悪い言葉が続く。その様子を見かねたのか、颱良が「まぁまぁまぁ」と割って入った。
「ここでどれだけ討論したって、結論が出るわけじゃない。一応治療をするつもりで行って、ダメなら伐採でもなんでもすれば良いんじゃね? どちらにしたって、千年桜を実際に見ない限りは、どうにもならないんだからさ。っつっても、俺はそもそもその、気が歪んでるってこと自体がよく分かってないんだけどな」
生まれてこの方、一度も精霊界の外に出たことはない。精霊界とは昔からこういう場所であったし、少なくとも自分にとってはそれが当たり前になっている。だからこそ、突然外部からやって来た存在に「この世界はおかしい」なんて言われても、実感も納得もできない。とはいえ、その言葉が全てデタラメであると割り切れないのは、恐らく自分の中に思うものがあるからだ――と、颱良は感じる。そしてその直感があればこそ、レイの言ったことを検証してみる価値は十分にあると思うとも。
「とにかく、後でタカさんのところに行ってこのことを話してみるよ」
「タカさん……」
颱良の言葉を受けて、琅果がそう小さく呟く。
「その、今回のことは……」
「心配してた」
「そっか……」
それだけ言って、琅果は口を閉ざす。
僅かな静寂は、「パチン!」と思い切り打たれた、颱良の手によって終わりを告げる。
「さて、じゃあレイの兄貴の最初の気になることの件はこれで終わり……っつか、保留だな。で、次に話さなきゃいけないことなんだけど、どこから話すべきかな……」
そう言いながら、颱良は訥々と精霊界の現状について話し始めた。
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