五.

 水面に波紋が起こったと思った直後、縁に手が掛かった。一瞬びくりと驚くが、それが棠鵺の手であると理解して、二人は急いでその手を掴んだ。

「っぷはぁ……!」

 棠鵺は顔を出すと同時に息を大きく吸った。いくら海中で息ができるとはいえ、地上のそれとは些か勝手が異なる。

 やや久しぶりの地上の空気を肺いっぱいに吸い込み、そしてゆっくりと吐き出した。

「棠鵺くん、生きてる!?」

「生きてるよ、大丈夫。心配かけてごめんね」

「よ、よかったぁ……」

 棠鵺のその様子に琅果は安心したのか、ペたりと地面に腰を下ろした。棠鵺も二人の顔を見て何となく肩の力が抜けたようだ。頬の筋肉が自然に緩んだ。


 それから少しして、棠鵺は水から出ようとする。水を吸った衣服が重い。そのまま陸に上がろうとするがそれは適わず、棠鵺は上半身だけを陸に投げ出した。

「大丈夫か? 怪我とかは?」

 レイが心配そうに声をかける。そして棠鵺の腕を自分の肩にかけ、水から引き上げた。

「す、すみません……」

「それにしても、かなり長く下にいたな。何かあったのか?」

「それが……」

 棠鵺はレイの肩から腕を外しながら、海中で拾った鏡を見せた。そして事情を説明する。


「それで思ったんですけど、祠に書いてあった『八咫の鏡・鵲の鏡映しし水鏡』ってこれのことなんじゃないでしょうか? まだ太陽の光は当ててないので分からないんですが……」

 棠鵺は衣服を絞りながら海中であったことと、自らの推測を話した。レイは棠鵺が持ってきた鏡をじっと見つめる。

「ロウカ、お前の考えは正しかったらしい」

「何が?」

「これは海境の一部だ。鏡じゃない」

 レイは視線を外さずに言う。その言葉に二人は驚いて身を乗り出した。

「これが?」

 琅果は海境の一部と言われたそれを指でつんつんと突く。

「そう、これが」

「なんか、思ってたのと違う……」

「……それで、これは最初から壊されてて、しかもそこにアレが居た、と……?」

「はい、そう、ですね……」

 レイは一瞬黙り込む。そして、先ほどスィールに言われた言葉を思い出していた。

『海境を使うなら魔界か冥界経由で――……』

 つまり、スィールは人間界の海境が使えないことをもう知っていた。とすると、これを壊したのはおそらくスィール本人だ。そして横穴とやらを破壊して塞いでここに閉じ込めたのも、おそらくスィールなのだろう。

「あの、レイさん? さっきのアレは一体なんなんでしょうか?」

 棠鵺のその問いに、琅果も「うんうん」と頷く。二人の視線を受けて、レイは困ったように眉を顰めた。

「あいつは……この世界に存在してはいけない存在・・・・・・・・・・・・・・ものだ、ってことで今は納得してほしい。さすがに俺の一存で話すことはできない」

 悪い、と頭を下げるレイに対して何も不満がないわけではない。しかし、彼らには彼らなりの事情があるというのはよく理解している――つもりだ。棠鵺も琅果もそれ以上は言及することができず、何も言わずにその言葉を受け入れた。

「そうそう、それで結局アイツはどうなったの? 死んだの?」

「いや、殺してはいない……というか、殺せない」

「殺せない、ですか?」

「あぁ。いや、殺すことはできるのかもしれないが、殺し方が分からない」

「どういうこと?」

 レイは口籠る。そして言葉を選びながら慎重に言葉を紡ぐ。

「定期的……いや、不定期的に、だな。たまにああいう奴がいきなり現れることがある。その発生源はほとんどが魔界なんだが、まぁ、他の世界でも出てくるときは出てくる。奴らはときに国一つを壊滅させることもあるから、当然排除の対象なんだが……未だかつて、完全に殺せたことは一度もない」

「え、じゃあ、これまでに出てきた他のはどうしてるの?」

「魔族が研究目的で拘束しているか、あとは神族おれたちが捕らえた分は冥界に閉じ込めてる、とだけ……」

 なんとも絶望的な答えだった。どちらにとって――とは言わない。しかし、国一つ簡単に滅ぼせてしまうような存在が生まれてくることも、それを殺すことができないことも、だからといって生きたまま永遠に捕らえられ研究に用いられることも――その全てが得も言われぬ不快感となって胸の内にわだかまる。


 それから三人はしばらく言葉を交わさなかった。レイは何かを考えるように、ただ黙って海境の破片を見つめていた。



 宵闇が濃紺からいよいよ黒に変わり始めた頃、漸くレイが動き出した。

「悪いな、時間をとり過ぎた。精霊界に行こう」

 そう言って、ゆっくりと立ち上がるも、先程の戦いが傷に響いたらしい。何となく重そうな印象がある。その様子に棠鵺は駆け寄って頭を下げる。

「レイさん、あの、すみませんでした。琅果も、本当にごめん」

 しかしレイも琅果も何に謝っているのか分からないようで、首を傾げて「何が?」と問う。

「いえ、僕が余計なことをしなければ、二人をこんな危険な目に合わせずに済んだのに、って。あのとき、あの祠なんて気にせずにさっさと精霊界に行ってれば、あそこであの泉の下が気になるなんて思わなければ……って……」

「それは別に、お前が悪いわけじゃないだろ。俺も止めなかったし」

「そうだよ棠鵺くん! そもそもあたしが『精霊界に来て』なんて言わなければこんなことにもなってないわけだし……むしろ巻き込んだのはあたしの方っていうか……」

 最初こそ勢いのあった琅果の声は、徐々に沈んでいく。レイはそんな琅果の頭を軽く撫で、棠鵺に向き直る。

「それはいくら言っても仕方がないことだろ。だったら俺がスィールを訪ねたのがいけないって話にもなるわけで。それに、俺も気になってたからな。スィールアイツに何があったのか」

 それに、とレイはスィールの言動を思い返す。彼はおそらくこうなることを分かっていた。その上で三人にここに行くように告げたのだ。アレの脅威を身をもって味わうために――それを二人に告げることはしないが、レイは確信する。最後にスィールが言っていたことは真実なのだ、と。

「はい、でも、あの……」

 そうは言われても納得できないらしく、棠鵺は二人の言葉を素直に受け入れられない。そんな様子にレイは一つ溜め息を吐き――……

「自分の行動の結果を完全に予測できるやつなんていないんだから、仕方ないだろ。ほら、もう行くぞ」

 と、無理やり話を切り上げる。そして、スィールに言われた通りに満珠を三つ、海に投げ入れた。


 みるみるうちに潮が高くなる。それと同時に空気の密度が濃くなった。空が、降りてくる。


 琅果がどこからか取り出した羽衣で空に円を描く。すると、宙にぽっかりと穴が開く。そこから薄緑の光のきざはしが降りて来た。

「すっごーい。本当にすんなり開いちゃった」

 琅果はぽかんと口を開けながら、その門を見つめる。いくつもの好条件が重なったことにより、予想していたよりも遥かに少ない力で精霊界への門を開くことができたようだ。

「それじゃあ、えぇっと……棠鵺くん、レイ兄、よろしくお願いします」

 こほん、とわざとらしく咳ばらいをして琅果は階の前に立つ。その言葉にこくんと一度だけ頷く二人を見て、琅果は微笑む。しかし、その笑顔にはどこか不安な陰が差しているようだった。

 ようやく本来の目的を果たせるというのにどうしたというのか――光に向かって立つ少女の横に並び、棠鵺は「どうしたの?」と声を掛けた。

「棠鵺くん、あの……あのね……?」

「うん?」

 今にも泣き出しそうな顔で、震える声で琅果は言う。棠鵺の手をぎゅっと握り締め、その大きな瞳で棠鵺を見上げた。

「あたしのこと、嫌いにならないでね……?」

 なぜそんなことをここで言うのか。いささか疑問に思いながらも、棠鵺は穏やかに微笑む。

「大丈夫だよ。何があったって、嫌いになったりなんてしないから」

「……うん……ありがとう……」

 それだけ言うと、琅果は棠鵺の手をそっと離し、光の中へと足を踏み入れる。棠鵺もその小さな背に続いて、生まれて初めての異界への扉に足を踏み入れた。



 *



 眩いばかりの光の中に身を預けながら、レイは最後にもう一度海を見る。

 スィールが別れ際に言っていた言葉を思い出しながら、これから起こるかもしれない最悪の事態に静かに頭を抱えた。


『精霊界には妖精・・がいる』


 それは、けっしてこの世界にあってはならない存在だった。

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