五.

「——と、まぁ、これで多少何かあったとしても何とかなるだろう」

 スィールにぽんぽんと頭を撫でられ、琅果は疑念の意図をもって首を傾げた。

「本当にこれで海の中で息ができるのー? 何も変わった気がしないけどなぁ……」

 そんな疑問を口にしつつ、琅果は「すー、はー」と何度も深呼吸をした。

 スィールの神通力で海中でも息ができるようにしてもらったはいいものの、別段何かが変わったようには思えない。

「そんな違和感あったら嫌だろ?」

「それはそうだけどぉ……何も変わらないのはそれはそれで怖いっていうか……」

 どうにも釈然としない様子で、琅果は唇を軽く尖らせた。

「まぁ、まぁ。俺を信じてくれって。な?」

「はーい」

 やはりどこか気のない返事――というよりは、未だ実感が湧かずに困惑しているような返事だった。そんな琅果の頭を、今度はわしゃわしゃと撫でて、スィールは豪快に笑った。

「大丈夫だって! と、それはそうと、そっちは何か進展あったか?」

 そして次に声を掛けたのは棠鵺だった。

「いえ、その……やっぱり陸の子たちと違うので、なかなか意思の疎通が取りにくくて……」

 棠鵺は海に軽く腕を入れ、そこから妖気で海の動物たちに話しかけていた。

「できれば鯨が良いんだけどな。あいつらデカいし、頭も良いし、付き合いやすいと思うから」

「亀……とかは難しいですかね?」

「亀だと何頭か必要になるな。ほら、そこにデカい奴がいるからさ」

 そう言ってスィールが指さしたのは棠鵺を挟んで反対側にいるレイだった。レイは特に反論はせず、むしろ興味なさげにその言葉を無視する。

「あとは、やっぱデカくないと危ないと思うぜ。下手すりゃ鮫の餌だ」

「それは、避けたいですね……あ、来ました!」

 棠鵺の表情が変わった。嬉しそうに何度も何度も頷いてお礼を言う様子を横目で見つつ、レイとスィールは顔を見合わせる。

「近くを通るから、一緒に連れて行ってくれるそうです! もう、すぐそこに居るから海に入ってきてくれって」

 満面の笑みで棠鵺は二人を見る。そして手招きで琅果を呼び寄せた。

「で、どんなの捕まえたんだ?」

「え~っと、よくわかんないんですけど、『我は海の王である』みたいなことは言ってましたね」

「海の王……海の王?」

「ほら、来ましたよ!」

 沖の方に美しい三角形をした鋭い背びれが上がって来る。その直後、海中から数頭の黒い塊が飛び出してきた。

「ありゃ……シャチじゃねぇか……確かに海の王だ。これはまた、すごいのを捕まえたな」

 スィールは感心に感動を織り交ぜたような声で言うと、琅果にしたのと同じように棠鵺の頭をわしゃわしゃと撫でた。

「お手柄だな!」

「はい!」


 シャチの背に直接乗る――という手段もないわけではなかったが、ちょうど近くに打ち捨てられた小舟が流れ着いていたこともあって、三人はその小舟に乗り込むことにした。とは言っても、その小舟は舟としてはあまりに心もとないほどに穴が開いてボロボロだ。棠鵺が頼んでシャチに急いで迎えに来てもらい、彼らに引いてもらう形で海を渡ることにした。


 先に琅果と棠鵺を乗せ、後からレイが乗り込もうとしたとき、スィールがふいに声を掛ける。

「あぁ、そうだエレイス。もしも神界に帰るときに海境を使いたいなら、魔界か冥界経由で帰ってくれ。呼んでくれればできる限りすぐに行く」

「……? 分かった……けど、魔界と冥界には行きたくないから多分使わない」

「ははっ、まぁそうだよな。お前にとって鬼門だからな。あと、は、そうだな……お前、気をつけろよ」

 ちらと舟の上の二人を見て、スィールは二人に聞こえないようにレイに耳打ちした。

「は? 何言って……いや、それは、本当なのか?」

 訝しげにスィールを睨むも、その顔は至極真面目で、とても冗談を言っているようは思えなかった。

「行けば、多分分かる」

 それだけ言うと、スィールはレイの言葉を待たずにその背を押して、舟へと放り込んだ。



 そうして夜の海を遊覧して早十五分ほど、目的の島に辿り着いた。そこは島というにも憚られるような、とても小さな島だった。

シャチに頼んで船をそこに寄せてもらい、船が沈まぬうちに早々に島へと降り立つ。

 全員が無事に島に降り立ったことを確認すると、棠鵺はシャチたちに礼を言い、軽い雑談を交わしたあとに惜しみながらも彼らとは別れた。


 さて、島に降り立ったはいいが、周囲には明かり一つ存在していない。これでは暗くて何も見えず、いつ海に落ちてしまうか分からない。そう思った棠鵺は袂から扇を一本取り出し、軽く薙ぐ。

 すると、周囲の海が突如柔らかな銀の光を放ち始めた。天上の星もより一層輝きを増したような気がする。

「わぁ! すっごいキレイ! 棠鵺くん、何したの?」

 興奮しながらも嬉しそうにそう告げる琅果をよそに、棠鵺は困惑の色を隠せない。

「え、ただ火をつけようと……あれ?」

「これは、何が起きてるんだ?」

 予想だにしなかった出来事に、レイも琅果も海と空を交互に見る。しかし一番驚いているのは棠鵺である。ぽかんと口を開けながら、棠鵺は手に持っているその扇を見た。

 普段、左の袂には朱夏扇しか入れていない。だから、そこから取り出したものは当然のようにそれであるとばかり思っていた。だから敢えて確認しようとは思わなかった。

 それは朱い色をしてはいない。

 先程は何も光のない暗闇の中で気が付かなかったが、それの持つ色は純白だった。

「白秋扇……?」

 棠鵺は唇を僅かばかり動かし、言葉にしたとは言えないくらいの小さな声で呟く。この瞬間まで持ってきていたことすら忘れていた、未だ使ったことのなかった月の扇。

 これがどのような能力による効果なのかは棠鵺には分からない。分からないが。もし、もしこれが月の力ならば、月は未だ死んではいないということではないのか。

 妖術は、なにも無から有を生み出すような力ではない。それはどの種族のどの能力にも言えることだが、基本的に力というのは自然界に存在している気を、ヒトの心・・・・と結合させることによって操るものだ。

 つまり、この世界には月の気が未だ残っている――ということなのではないか。

 棠鵺は夜空を見上げた。暗い夜空に無数の星が光っている。なぜ、月は消えてしまったのだろうか――そんな疑問を抱きながらも、頭を振ってその思考を打ち消した。

 これが月の力であると決まった訳ではない。そして、この疑問は恐らく、いくら考えたところで答えが湧いて来るものでもない。考えるだけ無駄だ。

「この力が何なのかよく分からないんですけど、とりあえず、明るいうちに島の中に入りませんか?」

「それもそうだね」

 棠鵺のその提案に二人は首を縦に振る。そして一歩、また一歩と、島の奥へと足を進めていった。

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