手にしたもの 失ったもの


 「私と旅行に行きなさい」


 彼女からそう告げられた時、また突拍子のないことを言ってくるなとその程度に思った。

 唐突なことをしてくるのは今に始まったことではなく、『交際』をしてから何度もあって慣れているといえなくもない。

 だが、旅行に誘われたこの時には普段とは違うと感じを受けたのも事実。

 それが何に起因しているのかをあの時……いえ、せめて旅行中に気づくことが出来ていれば私たちには違う結末があったのだろうか。

 ……そんなことを考えても今更なのはわかっても考えずにはいられない。


 私にすみれを受け止める覚悟と勇気があったのならと。


 ◆


「……まったく。すみれのやつ」

 すみれに旅行に誘われた当日の夜。

 私は部屋で準備をしていた。

 もちろん、恋人との旅行のだ。

 急がなければならない、何せその旅行は明日からなのだから。

 あまりに急な話でとても準備の時間も足らず、愚痴をこぼしている場合ではないがそれでも悪態の一つも付きたくなる。

(ありえないでしょう。いきなり明日だなんて)

 普通であれば当然断るところだけれど。

「……ほんと、どういうつもりなんだか」

 何度考えても自分一人ではわかりようないがそれでも昼間のことを思い出さずにはいられなかった。

 旅行自体にも躊躇する理由はあったから誘われた時には「恋人」としてのことが頭をよぎり、積極的に頷けはしなかった。

 というよりも何かしら理由をつけて断る方に天秤が傾いていたかもしれない。

 だけどすみれは、いきなり明日だといいもうホテルも取っているなど言う。

 いくらすみれといえどありえない誘いに反射的に無理に決まっているでしょうと言っていた。

 その後のすみれのことは今でもはっきりと思い出せる。


「私が好きなら来なさい」


 高圧的な言いざまはすみれらしかったが、その中に焦りと言っていいのか必死さが伝わってきた。

 その意味を私はわからず、何と答えるべきかを窮し助け船を出したのは早瀬。

 行ってきなよと背中を押し、気づけば頷いていて。

 今こうして必死に準備をしているところだ。

(にしても、何があったのかしらね)

 あの時のすみれはすべてがおかしかった。

 旅行に誘ったことも、好きなら来なさいと言ったことも。

 まともとは思えない状態のすみれ。

 単純に旅行に誘ってきたのなら、私がキスより、いやキスすらまともにしないことにしびれを切らして恋人として先に進むためにそういうイベントを用意したと考えられなくもない。

(おそらく、違うんでしょうね)

 そういう予感はしている。恋人として望まれているのはそうだろうが、もっと別の、何かすみれにとって切実な理由がある気がする。

 確証もないのにそれだけは確信していた。

 もっとも、それは恋人としてのこととも関係はあるだろうから、私の旅行に対する悩みは継続する。

「……ふぅ」

 継続するのだ。

 ため息をついた私は一旦手を止めてベッドへと倒れこんだ。

(嫌になるわね)

 すみれに何かあると確信しているくせに自分の悩みを考えてしまって。

 すみれのことはわからないのだから、今すみれのことを考えても仕方ないとしても自己中心的な自分が嫌になる。

「…………ちゃんと、考えなくてはいけないんでしょうね」

 すみれとの関係。早瀬とあんな関係を結んだことがあっていうのも変な話だけれど、ずっと一緒にいるつもりないのに恋人を続けるなんて私の主義ではない。

 そう考えはしたが、この時点でもっと深く考えるべきだったかもしれない。

 旅行は明日なのだから。旅行中にどうすみれと向き合うべきか考えられるのはこの時しかなかったのだから。

 しかし、現実問題にその旅行に行くための準備がまだまだ終わっていなくて。

「……はぁ。とりあえずやりましょうか」

 そちらを再開してしまうのだった。


 ◆


 旅行の場所は車で数時間ほどの避暑地。

 なんというか、あえて言葉にするのならありきたりな場所だと感じた。

 奇をてらったようなところには確かにならないとは思ってたが、ここ最近はすみれのイメージ通りのということの方が少なかったので意外な気はした。

 交通手段はどうするのかと思っていて、ここでは少し意外に思う。

 すみれが車を出すといった。

 何もできないお嬢様というイメージではすでにないけれど、私を助手席に乗せて運転する姿はこれまでのすみれに対する印象を変える。

 道中はホテルはどんなのだとか、運転する姿が様になっているだとか表面的なことはばかりを話し、本当に聞きたかったことすなわち何故いきなり旅行に誘ったのかということは聞けずじまいだった。

 花火に誘ったときのような思い付きではないとは思う。

 この旅行中には話をしてくれるとは考えてはいる。

 気にするなというのは無理な話でなるべく早く聞きたいと思うのは人としては自然の心の動きだろう。

(話せって迫るべきか、待つべきか)

 すみれ相手に正解を探すのは難しい。

 考えることは多く、気づけばすみれについたわと言われてしまう。

「…………」

 またすみれの家の時のように圧倒される覚悟はしていたがホテル自体は見るからに高級といった感じではない。

 入り口から見わたす限りロビーは広く、調度品もしつらえてありすみれのマンションを想像させる。

 平日なこと八月も終わりになっていることも加わってか人は多くなく、ロビーに併設されているカフェにも人はまばら。

(ここなら、自分の料金くらいは支払えそうね)

 などと事前に断られたお金のなんていう俗なことを考えていた私は

「これ、は……」

 案内された部屋に入った瞬間に自分が甘かったと思い知らされる。

 エレベーターが最上階についたところで妙な予感はしていたが、中に足を踏み入れると浅はかな自分を恥じる。

 まず広さ。

 何畳というような表現は考えられないほどの広さ。一室という言葉が似つかわしくなく部屋というよりは空間という印象だ。

 窓は全面窓になっており、一面に広がる綺麗な青空と青々と山の稜線は絶景と言っていいだろう。

 窓辺には広縁ではないけど小さなテーブルとイスがあり、視線を移せば豪華なソファまである。

 いくつかあるドアはお手洗いに浴室、それと別室もあるのだろうか。この分だとそのあたりも普通ではなさそう。

 圧倒されて思考を放棄したいところだけど、何より目についたものが一つ。

「ねぇ、すみれ」

 その目についたものに近づきこの部屋を選んだ相手を呼ぶ。

 私の言いたいことはわかるはずだ。

 何を思ってこんなことをしたのかまではわからないが、わかっていてしたのだから。

「どうしてベッドが一つしかないの?」

 この部屋にあるのはキングサイズのベッドが一つ。部屋の中で圧倒的な存在感を放っている。

「私たちは恋人なんだからおかしくはないでしょう」

(……仮面をかぶる、ね)

 すみれの余裕ある態度にそう決めつける。

 性に関してはなんて中学生並みだっていうのに。

 確認するまでもないけれどすみれにはこの旅行に明確な意図があるということ。

(まさか、手を出してもらうためにこんなことしてるわけじゃないわよね)

 いくらなんでもありえないだろうという想いと、すみれならもしかしてという考えもよぎる。

「……そうね。恋人なんだから、一緒に寝るのもいいかもしれないわね」

 探るためにそんな言い方をしてみる。

「そういうことよ」

 さすがにこの程度ではぼろは出さないみたいね。

「なら、せっかくなんだしお風呂も一緒に入る? まだ見てないけどこの部屋なら二人で入るくらいは十分なんじゃない」

「っ。文葉が、したいならいいわよ」

(もう少し取り繕えないのかしらね)

 動揺はすぐに隠せても一瞬でも心の乱れを見せれば意味はない。

「まぁ、それはやめておきましょう。私も一人で入るほうが好きだし」

 これ以上の探りを入れても、すみれはぼろを出すばかりだろう。仮にすみれが隠したものを知ったとして私自身がどう答えるか決めることが出来ていないのなら今深入りは避けた方がいい。

「とりあえず少し休みなさいな。運転してきて疲れてるでしょうし」

「文葉はどうするのよ」

「私はせっかくだし少し見回ってくるわ」

「そう。行ってらっしゃい」

 自分もついていくなんて言ってくるかと思ったけど、意外とあっさり送り出される。

 本当に疲れているということかもしれないけど、もしかしたら一人の時間がほしいのかもしれない。

(それをしたいのは私、か)

 やはりいきなりこんなこと整理はつかず、荷物を手早くまとめると宣言通りに部屋を出てあてもなく歩いて行く。

 軽くホテルを歩き回ったチェックインした時にみた一階に併設されたカフェへと入る。

 ミニシャンデリアに照らされた店内は明るく、華美になりすぎない意匠の家具が配置される店内は雰囲気がいいといえる。

 値段はそれなりだが、家族連れから単身の若者、年配の夫婦など人は様々で私は窓際の席で紅茶を飲む。

 窓辺には青芝の広がる庭園があり中央に配置された噴水の周りには暑さの中人も集まっている。

 そういうところも含めて旅行という「非日常」を嫌でも感じる。

 ……嫌なわけでないけれど。

 と、こんな所にも持ってきていた手帳に記す。

「……………」

 紅茶を口にしながらその渋みに顔をしかめる。

 ……そう、これはあくまで紅茶のせい。

 というわけにはいかない。

 日々のことを記してきた手帳。最初の頃は日記代わりでもあり、メモ帳でもあった。

 今やすみれとのことを考えるために使うようになった手帳。

 悪いというわけではなくて想定外だと驚き、同時に決断できない自分に嫌気が差す。

 考えはするのに自問自答をするのみで、私とすみれの関係をどうにかする力にはなっていない。

(……ベッドが一つ、か)

 恋人なら問題ないというすみれの発言はもっともでもあり、同意できなくもある。

 逃げ場のない状況。

 もし迫られたらどうするべき?

 それとも私から手を出す?

 正直言って、すみれとの「初夜」がまともなものになるとは思えない。

 そもそもすみれには意志はあっても一緒にお風呂に入るかという問いに対してあの反応をみれば覚悟があるようには思えない。

 いや、だからこそ?

 逃げ道がふさがれたのはすみれの方?

「……はぁ」

 再び口を湿らせてからため息をつく。

 結局ここでいくら手帳に悩みを記しても答えが出ることはない。

(……今すみれは何を考えて何を考えているのかしらね)

 私と同じように懊悩でもしているのだろうか。

 それとも恋人の自分をいつまで放っておくのかと怒っているだろうか。

 正直前者だとは思うけれど、なぜか怒っている所もたやすく想像できてしまって。

「……………ふぅ」

 カップに残っていた紅茶を飲み干し、ため息をつく。

 あまり後ろ向きな意味ではなく、すみれといるときに感じることの多い呆れと親しみを混ぜたような感情。

 ベッドで一緒に寝るのが恋人として当たり前かはともかく、あまり恋人を放っておくのは正しいことではないわよね。

 今夜どうするかを忘れたわけではないけれど、とりあえず今はすみれに会いに行こうと席を立って行った。


 ◆


 戻るとすみれは「遅い」と膨れて、内心どう思っていたとしても私の前ではこうなるだろうなと考えた通りでクスっと笑ってしまうと、何笑ってるのとむくれて、可愛らしいというかすみれらしいと再び頬を緩めた。

 この日はもう夕方になることもあって、部屋で残りを過ごすことにし、あっという間に時間は過ぎる。

 ホテルにはレストランもあるが、すみれが今日はルームサービスにすると部屋で二人での食事。

 山の幸を中心にメインに肉料理を沿えた夕食は素晴らしく、舌鼓を打ちはする。

(……こういうことをするのが、私が貴女との距離を縮められない原因だって気づいているのかしらね)

 私とすみれの『差』は間違いなくすみれに手を出しづらくしている要因の一つ。

 それに出会った頃からだけど、心の距離を物質的ななにかで埋めようとする行為を快くは思えない。

 ……素直に差を認め好意を受け取らない私にも問題はあるのかもしれないが。

 食事のあとは少し休憩する程度でアルコールを摂取することなく、代わりに明日はレストランかバーに行こうと誘われた。

 そこは明日のことでいい。さしあたっての問題は。

「………ふぅ」

 シャワーの音が聞こえる。

 それを窓辺に備えてあるテーブルセットの前で聞く私は落ち着かない気持ちだ。

 一つしかないベッドの一室ともなれば意識しないわけには当然いかない。

 気を紛らわせるために見る窓の外は遠くに町の灯はあれど大半は暗闇に染まる山々で、それもまた心をざわつかせた。

 先にシャワーを浴び、バスローブ姿となった自分がいて同じ格好で出てくるのかと思うと。

(………別に見境なく女が好きっていうわけじゃないけれど)

 すみれのことは本当に綺麗だと思っていて、女性に対して性欲を抱いてきた自分がいて。

 まったく意識せずにはいられないでしょうね。

 すみれの思惑通り? に流されてしまう可能性もある。

 ……ここまでお膳立てしてきたのだからそれにこたえるのも悪いことではないでしょう。

 ただ、悪いことではないだけで私たちの未来にとってはいいとは思えない。

 多分そんなことじゃ長続きはしない気がするから。

 だからといってまたはぐらかすだけでは不誠実だ。

(ここに来てしまったのだからね)

 行動を起こしたのはすみれで、その覚悟に対していつまでものらりくらりとはいかないでしょう。

(……私も答えなくてはいけない)

 心の指針を定め、ちょうどその少し後に。

「出たわ」

 すみれが部屋へと戻ってきた。

「っ……」

 私とお揃いの白のバスローブ。

 湿った髪は艶めき、私より少し高い身長のせいか歩くたびに見える脚がどことなく官能的だ。それに裸足をみるのも初めてで、こんなところまで綺麗に見える美人だと改めて感心する。

(っと、見惚れている場合じゃないわね)

 私だって恋愛経験が豊富なわけではないのだ。先手を打たれる前にこちらから伝えなければ。

「すみれ、聞いて」

 あえて硬質に言った。

「なによ」

 私のところまでは来ずにベッドで髪を乾かしていたすみれはその手を止めて私に視線を向ける。

「確認をしておきたいんだけれど、旅行に誘ったのって「そういうこと」を考えてなの?」

 正直口にはしづらいことだけれど、すみれには駆け引きというものは似合わない気がして単刀直入に切り込む。

「……なに、よいきなり」

 いきなりなのは承知している。デリカシーもないだろう。

「答えて」

 しかし今更だとしてもそれをはっきりさせなければいけない。すみれとのこれからのために。

 視線をそらさず強くすみれを見つめていると。

「そう、よ」

 躊躇い気味ではあるものの、隠さずに頷いてはくれるすみれ。

 ある意味これで同意はとれたといえるかもしれない。

「……そう。もう一つ確認だけれど、誘ってきたときの「私のことを好きなら」ってどういう意味?」

「別に、恋人だっていう確認よ」

(嘘……?)

 のような気がした。こちらに視線をくれることもなく、動揺もない。

 それが逆にすみれが本音を見せていないように思わせた。

(あんたはそんなに器用な人間じゃないでしょ)

「……そうね」

 追及するべきかとも考えたけれど、今優先するべきは恋人としての行為の方だと考えて話を戻す。

「一つ言っておくと、私はすみれのことを好きよ。あんたみたいな人間初めてで新鮮だし、うらやましいくらいに綺麗だっていうのは初めて見た時から思ってるし、そんなあんたから好きって言われるのは嬉しいわ」

 優越感すらある。

「でも」

 だからこそ、の方が正しい意味かしら。

「正直言って、今のすみれとセックスしたいかと言ったら素直には頷けない」

「それって、やっぱり私を恋人とは思っていないってこと」

 声に混じるのはわずかな怒気と大半のおびえたような感情。不安と悲しみを混ぜたような同情を誘う声。

 ……やれやれ、ほんと教師が教え子に迫られるような心地だ。

「そういうことじゃなくて。あんたは子供じゃない」

「っ……違うわよ」

 心当たりくらいはあるだろう。

 だからこその悪態。

「……子供じゃないわ」

「……っ?」

 一瞬、すみれから悪寒のような悲しさが伝わった気がする。この場には似つかわしくはないこととそうなる理由がわからず、私は自分の言いたいことを優先してしまう。

「子供よ。少なくても私から見れば。否定はできないはずだけど?」

「……………」

「……まぁ、大人だっていうのもわかってるわよ。考えた上で今こうしてるんだっていうことくらいは」

「何が、言いたいのよ」

 ……すねたようになるのはやぱり子供ね。

「私もちゃんと答えるわ。この旅行中には。でも、少し待って。さすがに昨日の今日じゃ考えがまとまらないのよ。答えは出すわ。だから、それまでの間意識しすぎないで過ごさせて」

「……………」

 私からわがままを言うのは初めてかもしれないわね。

 どう答えてくるか。

 恋人、という意味をはき違えていなければ答えは決まっているはずで

「……わかったわよ」

 どうやらその程度はわきまえているようね。

 どちらかの都合だけを優先するのはまともな恋愛関係ではない。

 ただこれで今度こそ逃げ場はないのだと自分に言い聞かせて。

「ありがとう。そんなわけだから一緒のベッドで寝ても襲ってこないでよね。まぁ、あんたにそんな度胸なんてなさそうだけど」

「なっ……っ。あ、あんたはいちいちデリカシーがないのよ」

 あえてからかってみたすみれはやはり子供で可愛らしいとようやく私も笑顔を見せていた。


 ◆

 

 短いモラトリアムの中で迎えた二日目。

 起きた時には寝相が悪いのか寝間着がはだけたすみれが目に入るなんていうハプニングはあれど、それを指摘してまたデリカシーがないと怒られた以外には問題のない始まりではあった。

 朝食はホテルのレストランのバイキングで取り、一度部屋に戻った後今日の予定を尋ねると意外な提案をされた。

 正直、旅行なんていうのは子供の頃家族といったのと働き出してからは早瀬と二度いった程度で経験は少ない。

 そのどちらも明確に観光地に行ったこともあり、旅行と観光は正直セットだったがこの場所みたいな避暑地での過ごし方など知らず、

「ひゃっ!」

 すみれの提案してきた場所で情けない声を上げていた。

(だって、こんなのは仕方ないじゃない!)

 眼前に広がるのは一面の草原。CMや絵葉書になりそうなという感想もあるがそれ以前に私に少女のような声を出させた原因は景色ではなく、目の前にいる生物だ。

 ブルル、っと野性味あふれる鳴き声を上げるその生物は人間にとっては大昔より身近な存在だったが、この現在となっては実際に目にする機会は少なく、ましてこんな触れられる距離で相対するなど人によっては一生ないことかもしれない。

 体長何メートル、体重何百キロという表現がされるが実際に目にする馬はそんな数字上のことなど考えられなくとにかく圧倒される大きさだ。

 見るだけなら私も声を上げることはなかっただろうが、来た目的は私には考えられないことに乗馬。

 そんなことをあっさりと提案してくるなと恨み言も言いたかったが、初めての経験ということで体験乗馬くらいならと流されて今こうしているのだが。

(はっきり言って、怖いわ)

 テレビなどで見るよりも数段大きく感じられ、人になれているからかさっきは頭をこすりつけられてつい声を上げてしまった。

 インストラクターからの説明ではそんなに難しくはなさそうではあったけれど。

「お、思ったよりも高い、のね」

 一通りの説明を受けた後、早速と馬へと乗り素直な感想を告げる。

 生き物を通して感じる高さは実際よりも高く感じるのか、また不安定さがそうさせるのかあまりプラスの感情を抱けず。

「へぇー、文葉のそういうところ初めて見るかもしれないわね」

 インストラクターとは別に一緒に歩くすみれがニヤニヤと笑う。

「は、初めてなんだから仕方ないでしょう」

「ふーん。文葉にこんなかわいいところがあるとは思わなかったわ」

「っ……」

 愉快そうにしてくれる……っ。言い返す余裕もなく、背筋を伸ばしなんとか集中しようとする。

 抜けるような青空の下、絵にかいたような高原を馬で闊歩するというのは爽快なイメージではあるが、現実はなかなかに厳しくこういうことが向いていないのかなれることはなかった。

 単純に歩かせるだけならともかく、少し早足にしようとするとすぐに止まられてしまうこともしばしばだった。

 本来なら近くの雑木林を歩くという話だったがキャンセルし、厩舎近くの休憩所に入ることにした。

「はぁー」

 アイスクリームを取りながらため息をつく私と。

「珍しいものが見れたわね」

「……みせもんじゃないわよ」

「文葉っていつもすましてるから見てて面白かったわよ。おどおどしてる文葉なんて初めてだし」

「……………」

 人間関係的にすみれの反応は悪手でしょう。私はこれでも真面目にやってたのだから。落ちそうだと不安がったり、必要以上に緊張して少女のように情けないところは見せたとしてもだ。

「あぁいう所を見せてれば可愛げがあるのにね」

(……嬉しそうね、すみれ)

 ……私だってすみれをからかってしまったりそれで優越感を得てもいたし、おあいこか。

 すみれのこういうところもこれはこれで魅力的とは思うし。

「っさいわね。そんなに言うなら、手本でも見せてみなさいよ」

 すみれに優位に立たれるのが面白いわけではなくて軽い気持ちでそう言った私。

「いいわよ、好きなだけ見なさい」

 待っていましたと言わんばかりに得意気に笑うすみれ。

 だが、すみれが口だけでないことはすぐに分かった。

 私が体験した初心者用だけでなく、上級者用に走らせる場所や、軽い障害を飛ぶものもありすみれはどちらも軽くこなした。

 走っている姿は不覚にも純粋に絵になると思ったし、障害も馬を見事に操り飛んでいた。

 もちろんプロなどではないが私からしたら十二分に衝撃的な姿で。

「どう。なにかいうことはある?」

 柵の外で見学をしていた私に馬上からひと言。

(わざわざ勝ち誇るのが、すみれってかんじね)

「……はいはい。すごいわよ。私の負け」

 皮肉なく言うとすみれは「でしょう」と笑う。歯を見せるその姿は子供っぽく、見た目とのギャップが可愛らしく見せた。

(いい笑顔って言うのかしらね)

 優越感に浸ってるくせに、無邪気にも見える。私に対して余裕を持てることが悦びにつながっているのだとしたら、ほんと「可愛らしい」ことだ。

「そうだわ。せっかくだし乗せてあげましょうか」

「そういうのって勝手にしてもいいの」

「さぁ、子供の時はしてたしいいんじゃないの?」

 こうした施設で、客が勝手にするのはあまりよくない気もするけれど。まぁ、注意されたらされたでいいでしょう。

 そんなことを思いながらすみれの後ろにまたがる。

「走ったりはしないでよね」

 まとめあげた髪と、首筋。それと姿勢のいい綺麗な背中を目にしながらどうしても不安を隠せずにそんなことをいう

「ダメって言われるとしたくなるわね」

「……………」

「冗談よ。私が文葉の嫌がることをするわけないじゃない」

(結構しそうな気もする)

 と憎まれ口をたたくといじわるされそうなのでここは黙っておく。

「じゃあ、いくわよ」

 そうして歩かせ始めるすみれ。

 結論から言えば意外に悪くない時間だった。

 自分で操っていない方が安心感が強く、景色や風を感じる余裕もあった。

 なによりすみれが常時楽しそうで、珍しく口数も多かった。

 恋人として意識をするようになってからすみれがこんなにも楽しそうなのは初めてだったかもしれないとそんなことを思い、モラトリアムが半日過ぎていった。



 ◆


 気をよくしたのかすみれはその日の午後も終始機嫌がよく、珍しく饒舌で以前にここに来た時のことを語ってくれたりもした。

 乗馬は子供の頃海外で習ったことを聞いた時などはそもそも帰国子女だったことすら知らなかったので、驚くと同時に若干納得もした。

 現代ではそぐわない考えだけれど、明治や大正時代あたりなら留学でもしているイメージがある。

 機嫌のよさは夜まで続き、ホテル内のレストレンでの食事の間も、レストランとは別のバーに誘われそこでも午前の乗馬のことで私を弄ってきて、子供っぽいとは思っていたけれど本当に子どもみたいなことをしてくるのが、愛おしかった。

 もっともそれは恋人というよりは愛玩動物に感じる類のものだが。

(よっぽど溜まってのかしらね)

 思えば、すみれと付き合い始めてからすみれはどんどん弱くなっていった感じがあるし。

 最初私が遠慮してことを含めても、力関係は知り合った当初とはまるで違っている。

 それこそすみれが優位に立っていたのなんてはるか昔のことだ。

(……すみれ、上になるの好きそうだしね)

 戻ってきた部屋の中、ベッドで横になるすみれを眺め手帳へと記す。

「ん……ん、ぅ……」

 部屋に戻ってきた後、すみれは酔いが回っていたのか戻ってきた後少し横になるといいそのまま寝入ってしまった。

 相も変わらず無防備なことだと呆れもするし、もはやすみれらしいと受け止めることもできる。

 まだ夜は深くなく、どこかで起こしてあげるべきかとも思うがひとまずは窓際でお茶をとりつつ手帳を開いている。

「あふ………文葉……ふふ」

「……何の夢を見てるんだか」

 おそらくは自分に都合のいい夢でも見てるんでしょうね。

 そこまで嬉しかったのかと若干呆れつつも納得もする。

すみれは性格的に風下に立つのをよしとしない。

 これまで私ばかりが余裕を持っていて、すみれがそれをストレスに思っていたわけではないだろうけど私には優位になっておきたいという願望はすみれの中にあると思う。

「だからって、ほんと子供よね」

 昼間の無邪気な笑顔を思い出して、つい口元が緩む。

(でも)

 楽しかった。と記すと手帳をテーブルに置き、ベッドへと上がる。

「……ん、ふ…」

 すみれの隣に腰を下ろし、無防備な寝姿を見つめる。

 こんな姿でも純粋に美しいと思える。

 端正な顔立ちも、さらさらの髪も、バランスの取れた肢体も間違いなく私を惹きつけてはいて、それに加えて昼間のあの姿だ。

「……すみれ」

 私たちの間には確かな差はある。妙な言い方だけどいうなれば貴族と平民だ。

 しかし本当に身分の差があった頃とは違い、分かり合うことは可能だろう。

「今日、久しぶりにすみれのことを見た気がする」

 ここ最近の少女のようなすみれもすみれの一部だろうけど、すみれが自分で思う自分らしさは出会った頃だと私は考えている。

 あの時も虚勢を張っていたのは間違いないが、それでもすみれの高飛車(悪い意味で言ってるわけじゃないわ)なところや自信にあふれた態度などはあれが素だろう。

 初心でお子様なすみれは可愛いし、我ながら性格の悪いことにからかうのも楽しくはあったが、どちらのすみれが好みかというと今日のようにいじられたとしても、遠慮なく言葉をいい合える関係の方が私は好きだ。

 思えば、早瀬といい私はそういう関係を居心地よく感じるみたいだ。

 もっとも恋愛関係としては当たり前だが。

「…………」

 心の中にはすみれが求めている気持ちが存在はしている。

 わだかまりを作っているのはきっと私のほうで。

 森すみれという個人だけを考えればきっと……

「…………」

 ふと、髪に触れる。

 手触りよく指で梳く感触が心地いい。

 頬に触れる。

 すべすべで弾力のある瑞々しい肌は魅力的だ。

 指先を唇へと向かわせ……

「ふぅ」

 ため息とともに指を離す。

 今はまだそこまですべきじゃない。

「……あと二日か」

 旅行自体はなんと4泊5日だけど、モラトリアムの終わりは明後日の夜だ。

 まだ天秤はどちらにも揺れている。

 同時にどちらに比重がかかっているかも自覚しながら今はまだ自分では気づかないふりをして二日目を終えていた。


 ◆


 三日目の朝は、思わぬ光景から始まった。

 私は比較的寝起きは良いほうで昨日もすみれよりも先に目を覚まして寝顔を眺めていたものだが、今日は目を覚ました時には隣にすみれの姿はなく。

 まだ掛け布団にくるまったままの私は昨夜私は一人でお茶を飲んでいた窓辺に視線を送るとそこにすみれがいて

(電話?)

 スマホを手に持ち言葉を発しているのだからまぁ、そうでしょう。

 いまいち確信が持てなかったのは日本語で話をしていないからだ。

(帰国子女だとは言ってたけど)

 ここまでぺらぺらに話せるとはね。意味もなくこんな所でも差を感じてしまうわ。

(誰と話してるのかしら)

 すみれがこれまで私と私の知り合い以外と話しているのは見たことがない。

 友人はいないということだし、家族か仕事関係だろうか。

 私は英語なんて受験のためにしかやってこなくて、すみれが何を話しているかはわからない。

 しかし言葉がわからなければすべてがわからないかというとそういうわけではなくて、表情や語気などに感情は表れていて。

 そのにじみ出た感情は怒っているようでもあれば、悲しんでいるようでもあり、負の感情で乱れている。

 私に向けるのとは違う意味での乱れ方。

 声はかけるべきでないのは当たり前だが、なぜか動くこともしない方がいいような気がしてベッドの中ですみれの電話が終わるのを待つ。

(……いつから話してるのかしら)

 私が気づいてからもゆうに10分は話をしている。朝っぱらから電話するにしては長いだろう。もっとも相手は朝とは限らないが。

 そんなことを考えながらしばらくすると通話が終わる。最後は半ば投げやりなようにも見えて、

「おはよう」

「……おはよう」

「電話、誰と話してたの?」

 自分でも意外なことにあっさりとそれに踏み込み

「文葉には関係ない」

 ばっさりと拒絶される。

(気になるのなら……)

 恋人なのに関係ない? 

 って挑発するし、いつもの私ならそうしていた。

「そう」

 今も電話に引きずられてか表情は険しく、先ほどの声も硬質だったことを考えると軽率に茶化すべきではないだろう。

(違う…恋人、なら)

 友人なら距離を保つことはおかしくはない。だが私はすみれの恋人なんだ。

「恋人なのに、関係ない?」

 挑発の意味がなかったわけではない。でも、本心でもあって。

 だが、

「っ……」

 すみれは不快気に顔をゆがめて、

「……文葉には関係ないわ。都合よく恋人面しないで」

 それはこれまで何度も言われてきたこと。違うのはこれまでは冗談ですませることが出来る画面だったのに対して、今は迂闊にも本心での言葉を引き出してしまっている。

「悪かったわ。でも、気になるのは本当よ」

「だから、関係ないっていってるじゃない」

 心配をしているのは本当で、そのくらいをわかってくれてもいいと思うのは私の傲慢?

 いや、それ以前に今は適切な状態ではなかった。

 すみれは冷静ではないのは少し話せばわかったはずなのに、私は食い下がろうとしてしまって。

「そんな言い方はなくない? 私はあんたに付き合ってここに来てるのよ?」

 あぁこの言い方こそありえない。すみれに半ば無理やり連れてこられたとはいえ、私は『すみれが好き』だから来たはずで、私の意志であったのに。

「っ……なら、帰りなさいよ。私のことその程度にしか思ってないなら出ていって」

 好意を蔑ろにしたわけではなかった。けれど、すみれの逆鱗に触れてしまうこともしかたはないことで。

 じゃあ出ていく、なんて売り言葉に買い言葉になるほどには幼稚ではないが。

 とはいえ私も昂った心ですみれと冷静に話せる自信はない。

 それに誠意を込めて謝ったとしてもすみれにはそれを受け止める余裕がない気がして。

「……今日は別行動したほうがよさそうね」

 どうにかそれだけを告げていた。

 私もすみれも頭を冷やす時間が必要だと思ったから。

 だが、一緒にいるべきだったのかもしれない。

 恋人なら、すみれが苦しんでいる今こそ寄り添うべきだった。たとえ疎ましがれたとしても。

 それを私は後に後悔することになる。


 ◆


 朝、身支度を整えた私は一人で出ていってしまう。

 とはいえ、この辺に明るいわけではなく半ば勢いで出てきてしまったこともあいまって、するべき選択はそれほどない。

 私の選択は結局はすみれの教わった知識で、今日二人で来る予定だった湖へと足を向けていた。

「……悪いのは私なのよね」

 夏の日差しの下、目の前に広がる広大な湖を眺めてつぶやく。

 木々に囲まれた湖は美しく、涼し気。

 遊覧船も通っており、すみれと一緒だったら今頃乗っていたはずだなと思いながら水面を臨むベンチですみれを思う。

 すみれの言う通り都合よく彼女面するだけで本気では踏み込んでいかず、今回に限ってあんな風にすれば怒って当然だ。

「すみれの事情、ね」

 私とは住む世界が違うのだ。私の及びつかないことはあるのだろうし、私が一生感じることのないしがらみもあるのかもしれない。

 私に話しても解決することも力になってあげることもできないかもしれない。

「…………」

 うじうじと悩むのは私らしくないかしら。

 今私は一人で、しかも退屈。

 隣にすみれがいたらこんな気持ちにはなっていないはず。

 朝は突然のことに感情的になってしまったが、こうして一人でいると少しは頭は冷える。

「…暑いけど」

 なんて独り言言ってる場合じゃなくて、私がしなきゃいけないのはすみれもこの暑さを味わってもらうことね。

 はじめての喧嘩? をしてからたった数時間で冷静に戻れた私は、とりあえず電話をかけ

「………ったく。出なさいよ」

 せめてお昼を一緒に食べるくらいはしたいと思っていたというのにあいつは。

「仕方ない」

 メッセージは送っておくけど、ちゃんと見てくれない可能性も十分に考えられる。

 すみれが追いかけてくれる可能性にかけて今日の予定を一人で回るのもありだが、そんなことするくらいなら連絡をよこすはずで、すみれの機嫌が直らないという悪い方向での備えをすべきだろう。

 となれば確実に戻ってくる場所で待つべきか。

 そう決めると私はまっすぐにホテルへと戻り、その部屋の中で。

「すみれ……?」

 意外なものを目にしていた。

 すみれはナイトウェアから着替えてこそいるものの、朝電話をしていたテーブルにいて

「朝からずっと飲んでたの?」

 テーブルには多種多様なアルコールが置かれていた。

「……私の勝手でしょ」

 赤ら顔でぶっきらぼうに答えて、グラスに入っていた液体を喉に通す。

(……こんな短絡的なことをするんだ。すみれは)

 電話のせいか私と喧嘩をしたからか。

 アルコールに逃げるなんていう真似をすみれがするイメージはなく、意外な心地を持って近づいていく。

「勝手だとしても、褒められはしないわね」

「……あんたが出ていくからでしょ」

「そういわれると立つ瀬はないけど、戻ってきたのだから」

 だから、話せというために来たが、

「……………」

 まともな話にはならないわよね。

 瞳は潤み、赤みの差した頬は劣情すら抱かせるほど蠱惑的と言っていいが今私が望む姿ではない。

「……んっ」

 私などお構いなしに酒をあおろうとするすみれ。

「とりあえずやめなさい」

 グラスを取り上げ、ひとまずこれ以上の悪化は防ぐことにする。

「返しなさいよ」

「だめ、あんたそんな強くないでしょ」

「…………」

 憮然とした空気で私をにらむが、瞳に力は入っていない。とろんとして、むしろ眠そうだ。

「……ん」

 思考がまともに働いてないのか、口論を続けはせずに立ち上がり冷蔵庫のほうへと歩いていく。

 新しいお酒を取りに行くのかグラスをとるのかは知らないけど、その歩みはおぼつかず酔いが回っていることは明らかだ。

(とりあえず酔いを醒ましてもらうことの方が先決か)

「すみれ」

 追いかけるように立ち上がり、すみれの体に触れると

「なに、……っよ?」

 文句を言われる前に、腰と肩に腕を持っていてそれぞれに力を込めて態勢を崩しベッドへとなるべく優しく横たわらせた。

「なにするのよ」

 一応、押し倒しているように見えなくもない構図だが酔っぱらい相手にときめきなんてなくあっさりと立ち上がる。

「横になってなさい。あと水飲んだ方がいいわね」

 冷蔵庫に入ってたはずだと、一度ベッドを離れる私はすみれがどんな目で私を見ていたのかには気づかずに冷蔵庫から水のペットボトルをとって戻っていく。

 はい、と言って差し出してもすみれは体を起こさない。

「文葉が飲ませて」

「飲ませてって……」

 ベッドにあおむけになっている人間にペットボトルを飲ませるのは容易ではない。哺乳瓶でもあれば別だが、生憎とそういう趣味はない。

 口移しでもしろっていうの?

 そう言いかけたが、経緯を考えれば恋人を利用したような冗談をそぐわなく。ベッドへとあがると背中を支えながらすみれの体を起こさせた。

「ほら、自分で飲みなさい」

 ここまでお膳立てをすると今度は水を受け取り、勢いよく喉を通していく。

 細い喉が水を嚥下するたびに鳴るのは少し色っぽいと思ってしまう。

 同時に

(そういえば喉が渇いているか)

 ホテルに戻ると決めてからすみれと話すことばかりを考えて水分も取っていない。

 せっかくだし自分の分もとってこようとベッドから降りようと……

「どこ行くのよ」

 わずかに離れるそぶりを見せただけで不満げに呼び止める。

 それどころか腕をつかんできて、私を逃がさないようにしてきた。

「自分の分の水をとってくるだけよ。どこにもいかないから安心なさいな」

 まさかまた私が出ていくとでも思ってる? それともせっかくベッドに来たのにとでも?

「水なら私のをあげる」

 あんたは自分で飲みなさいと手を振りほどこうとして、

(?)

 首を傾げた。

 あげると言っておきながら自分で飲んでいる。

 まぁ、酔っぱらいのすることだと今度こそ手を離そうとして

「っ……!!!」

 目を見開いていた。

 大きく開いた眼が捉えるのは長いまつげと潤んだ瞳。

 鼻腔をつくのはすみれの嗅ぎなれた香りとアルコール。

 いや、それはいい。

 何よりも衝撃なのは

「っ、ん。ぁ……ぷ」

 重なるすみれの唇と、そこから零れ落ちる液体。

(うそ、でしょ……?)

 何をされたのかは明白だった。

 口移し、未遂をされたのだ。

 私に受け入れる準備がなく反射的に閉じた唇からは容赦なく水が滴り服とベッドを濡らしたがそんなことに気を回せる余裕もないほどに頭は大混乱で。

「ちゃんと、飲みなさいよ」

 濡れた唇から発せられるその声がなぜか甘えるように聞こえてしまう。

(キスを、されたのよね)

 疑う余地はない。

 しかし現実感はなく、唇の感触も水に濡らされたことに塗りつぶされてあやふやだ。

 だがしたのだ。

 三度目の、そして唇では初めてのキス。

(っ、嘘、でしょ)

 こんなあっさり……?

 今のすみれは酩酊していてこれがすみれの中でキスに入るのかはわからない。

 まともな判断でしたわけじゃないのだから。

 そのまともじゃない中で、再び水を口に含んでいて………再びこちらへと迫る。

 何を考えているのか。何も考えていないのかもしれない。

 それともアルコールによりはぎとられた理性の裏から本能がそうさせているの……?

 わずか数秒の間に頭は思考をやめず、さりとて意味のある答えは出せないまま。

「んっ……」

 四度目のキスをしていた。

「んっ……ん、ぷ……く、ん……っ」

 今度は心の準備をしていて、半開きにした唇に水が流し込まれる。

(…ぬるい)

 キスにではなくすみれの中で暖かくなった水にそんな印象を抱き

「っ……んん、ぷぁ!?」

 身体が浮遊感に包まれたかと思うと背中に柔らかな衝撃を受けた。

 勢いで唇は離れ、一緒に倒れこんだすみれの顔が私の胸へと落ちる。

「んっ……ぁ……ふ、あ。ぁ」

 体を起こすことはなく、顔だけを上げて胸の間から私を覗きこむ。

 瞳は情熱的に潤み、朱に染まる頬は熱に浮かされたように艶めき、

「……文葉」

 濡れた唇から紡がれる私の名前に

「っ……」

 胸の奥を掴まれたような気がした。

(何……?)

 その理由を私は理解できていない。ただ、ひどく焦燥感を掻き立てられたようなそんな気がした。

「んっ………」

 すみれは考える時間をくれずベッドへと手をつき、私との距離を詰めてくる。

 水を含んでいないすみれが迫るその理由をすでに察しているはずなのに。

 すみれが正常ではないことをわかっているはずなのに。

「……好きよ」

 甘く囁かれる愛の言葉に縋るような響きを感じてしまって。

「…………」

 私は強張らせた身体から力を抜いた。

 すみれを受け入れるために。

「ん、っ……んぷぁ」

 それは強引なキスだった。

 舌を奥へと突き入れ、私の都合など構わずに前後させ無理に絡めようとする。

 いささか苦しくもあり、恋人とするものとしてはロマンのないキス。

 すみれには経験がないのだから、うまくやれなくて当然ではある。

 そう思う一方で、

(一生懸命、ね)

 これはあくまで印象の話。もうどのくらい前なのかすらわからない自分の時とは比較もできない。

 すみれのキスは経験のない処女が本能で私をむさぼろうとしているというよりは、意志を持った上で上手くできていない、そんなように感じるのだ。

(………………)

「っ、ん、ぷ。ちゅ、…ぶ、ん」

 雑な舌使いに対して私はキスとしてはすみれの好きなようにさせ、代わりに背中に腕を回して優しく抱き留めた。

「ふ、ぅ……ん。は、ぁ……ぅ、はぁ……ぁ」

 時間にすれば一分となかった。

 そんなわずかな……いえ、すみれにとっては人生で最も長かったかもしれない口づけを終えてもすみれは唇を離すだけで距離を離さない。

「……文葉」

「すみれ」

 呼び合う名前の間で感情が行きかい混ざり合う。

(…………………)

 夏の暑い日。

 恋人とベッドの上。

 誰が見ても美しいと表現するしかない彼女は、切れ長の瞳をとろんと潤ませ何度となく無断で私の唇を奪ったその口から

「ぁ……」

 なにかを言いたげに動かそうとするもそこから意味のある音は出てこない。

 酩酊しているはずのそれはどこか不安そうで、さながら迷子の子猫の様に思えてしまい……抱きとめてあげたくなった。

(散々悩んだってのに……)

 瞬間に脳裏にすみれとのこれまでが駆け抜け、『こんな形』はすみれにも私にも想定外のはずだなと、悔しさとも諦観ともとれるような感覚を持ちながら。

「すみれ」

 もう一度名前を呼ぶ。

(綺麗な顔)

 出会ったときに感じ、これまでも何度も何度も思ってきたことを思い返し、この綺麗な顔を私の手でゆがませるのかという背徳感とその裏に確かに存在する高揚感を持って

「……んっ」

 すみれとつながっていった。



 ◆


 意外な初めてを経験することになった私とすみれ。

 私が一方的にすることになるんだろうと、決めつけていたけどすみれは一度気をやったあと自分からもすると言ってきかず、たどたどしくしてきて。

 適度に感じているふりをするなんていうこともして。

 ことが終わった後には身を寄せあって互いのぬくもりを感じ合った。

 まだ空が明るく正直シャワーを浴びたいところだったけどすみれは初めてなのだし、そういう定番をしてあげるのも悪くはない。

 ロマンチックなピロートークなんてなく、気づいたら寝入ってしまったけれど。

 目を覚ましたのは夕方で。

「あ、れ……?」

 目を開けた先にすみれの姿はなかった。

 シャワーでも浴びているのかと思ったが、部屋には気配もない。

 まぁ、なにか用があって出ているのかもしれないしいつ起きるかわからない私をほっぽいて食事にでも出たのかもしれないし、合わせる顔がないとどこかに逃げているのかもしれないと、深くは考えず、私はベッドから起きることすらしないで数時間前のことを思う。

「ヤっちゃった、か」

 身もふたもなく事実を口にする。

(さんざん悩んだっていうのに)

 する前にも考えたことを改めて思う。

 大体、お酒の影響で一線を超えるなんてばからしい話だ。

(………お酒の影響、ね)

 そのことを頭によぎらせる。

 あの場では無粋で尋ねることはしなかったが、本当に酩酊し前後不覚になっていたのか、理性が剥がれたむき出しの本能をさらけ出したのではないか。

 いや、それ以上に。

 理性的ではないかもしれなくても、考えた末の行動だったのではないかとすら考えている。

 アルコールに責任を求めたのはむしろ私だったのかもしれない。

「っはぁ」

 大きく息を吐く。

 何はともあれもうやってしまったんだ。

 案外関係を進めるなにかなんてこんな風に偶然や勢いなのかもしれない。

 あとは朝のことを謝って、恋人としてちゃんとすみれの心に踏み込もう。抱えているものがあるのなら、半分持ってあげなくては。

 前向きに考えつつ、まだ数分とはいえなかなか戻ってこないなと焦れた私はようやくベッドを出る決心をして。

(ん……?)

 体を起こし部屋をきちんと見た瞬間に違和感を持つ。

(荷物が、ない?)

 すみれの荷物が視界に入らない。

「…………」

 こういう時、映画なら緊迫した音楽でもかかるのかもしれない。

 私は理解が追い付いていないのか、不安を感じたわけではなくただただ疑問を持つばかりで。

 ケータイになにか連絡があるかもしれない呑気に確認をして

「え?」

 用事があるから先に帰るとのメッセージが残っているのを見て混乱を増すのだった。


 ◆


 結局私は素直にもう一泊をして帰ることにした。

 ご苦労なことに帰りの手配までしてあり、急に帰る割には用意がいいとその時には感心をしていた。

 だが。

「……ふぅ」

 日常へともどってきた私は職場の自席でため息をついていた。

(今日で一週間、か)

 旅行を終えて一週間。すみれとは話せてはいない。

 メッセージのやり取りは多少行ったが、詳細については聞けていなく最終的には時間ができたらすみれの方から連絡するとやり取りも打ち切ってしまった。

 それでも最初はそんなに悲観、というか深刻には考えていなかった。

 心の指針を定めていたからということもあるだろう。

 なにか問題が起きているのは確実だろう。それに対し私は寄り添うということを決めたのだ。

 だから会いたいとは思ってはいても、会えればよい方向へと進められるとは楽観的に考えていた。

「……ふぅ」

 再びのため息。

 当初は楽観的でも一週間も経てば心に余裕はなくなっていく。

 一度待つと決めて返事もしてしまった以上はこちらから連絡も取りづらく、おとなしく待つしかない私はこうして時間が経つたびに気を静めているわけだ。

「ふーみは」

「っ」

 そこに声をかけるのは親友で、悪友。

「今日も元気なさそうだけど、あれなの? 旅行で喧嘩でもした?」

 業務中だというのに私のところまでやってくるとデリカシーのないことを告げる。

「……別に元気ないわけじゃないわよ。少し……」

 なんだろうか。

 落ち込んでいる? いらいらしている? 不安がっている?

 心を的確に表現する言葉はなく、沈黙を保っていると。

「あれ? 図星? もしかして別れちゃった? なら慰めてあげるけど?」

「違うわよ。まぁ喧嘩はしたけど」

「え、まじで?」

「別に喧嘩くらいするでしょ。けど、それは問題ないわ」

「あ、なんだ仲直りしたんだ。初めての旅行で喧嘩と仲直りとか文葉にしては定番なことしてんね」

「その意味はよくわからないけど、まぁ仲直りは……」

 振り返りそういえばちゃんとしていない気がすると思う。すみれはまともな状態ではなかったし、きちんと話せてはいない。

(ヤりはしたけど)

「……とにかく、なにかあったわけじゃ……」

 瞬間、ブブっとスマートフォンがなった。すみれからの連絡かなんてわからない。

 わからないが、素早く反応をし画面を見ると。

 今から行くからあの場所で待ってて

 と、こちらの都合もお構いなしにメッセージが表示されていた。

 心にはこれまで不思議な感情が湧きたつ。

 色んなものがあったが多分、一番はやっと話せるという安堵だった。

「ごめん、ちょっと用ができた」

 早瀬にはそう話を打ち切り、今から行くがどの程度なのかも確認しないままあの私たちの逢引の場所へと向かう。

 今、は本当に今ですみれは五分でつくと次いでメッセージをよこし、この傍若無人なところはすみれらしいと、五分にすら焦れながら恋人を待ち。

 やってきた恋人に

「久しぶりね」

 まずはそう一言。

「……そうね」

 すみれの表情が暗いということは一目でわかった。まだすみれの問題が解決していないことを感じさせる。

 だがもう目の前にいるのだ。話さえすればと軽く考えていて

「恋人を一週間も放っておくなんてひどい話じゃない?」

「……それなら問題ないわ」

 数秒後には、すみれから漂う圧倒的な負の雰囲気にのまれて言葉を止めていた。

(なに?)

 嫌な感じだ。背中がちりちりと毛が逆立つような焦燥と、息がつまりそうな緊張。

「もう恋人じゃないから」

 あっさりと告げられるその意味を理解できず、

「は?」

 そんな何も考えない声が出て、状況を何も飲み込めないまま

「私、結婚するの」

 ようやく恋人となったはずの相手から決定的な別れを告げられていた。

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