第十七話 断ち切られた想い
塔の温室の中で、淡いピンク色のシロツメクサに似た花が激しく揺れている。久々に竜の姿のヴァスィルが時折ふぁさりと翼で風を送っているからだ。
「もー。花が折れちゃったらどうするの?」
『加減してるぞ?』
「もっと弱くないとダメ。こう、ふわっと」
『こ、こうか?』
「それだと風は来ないじゃない」
抗議の意味を込めて、笑いながらぺちぺちと大きな手を叩くと竜がくすぐったいと笑う。
竜の姿では細やかな動きは難しいらしい。私がどうしてもとお願いして、竜の手で頭を撫でることにチャレンジしてもらったけれど、首の骨が折れるかと思ったのであきらめた。
『あー、やっぱり人の姿でないと、ミサキは可愛がれないな』
そう言ってヴァスィルは人の姿になって、私の頭を撫でる。
「今日は竜の姿でいて欲しかったのに!」
『ミサキはこの姿が嫌なのか?』
「……嫌じゃないけど、格好よすぎて恥ずかしいんだもの」
『そんなこと初めて言われたぞ?』
笑うヴァスィルも神々しいくらいに格好いい。恥ずかしくなって子供のような仕草で首に抱き着くと、子供をあやすように背中を優しく叩かれる。
実際、小さな子供のような扱いだと思う。キスの距離でも全く甘い空気は漂わない。よく考えればヴァスィルは千年以上を生きている。私なんて子供としか思えないだろう。
本当に
小さな花畑の前に二人で座り込む。花冠を作ろうと思いついても、子供の頃に作ったきりで作り方を覚えていなかった。
「全然枯れないのね」
『俺の竜の力を注いだし、ここは魔力が豊富だから咲いたままかもしれないな』
「え? じゃあ、ずっとこのまま?」
花に指でそっと触れると、しゃらりと可愛い音がする。強く触れると音は鳴らないのが不思議で面白い。花畑の表面をそっと撫でると沢山の花の音が響き合ってまるで音楽のように心地いい。
『可愛い花だな。ミサキみたいだ』
ヴァスィルと二人で花畑を撫でて、花の奏でる音楽を飽きるまで聞く。ここはまるで別世界の温かい空間。
ヴァスィルが隣にいてくれたら、私はもう何もいらない。元の世界に帰れなくてもいい。
そっと寄り掛かると、優しく肩を抱かれて鼓動が跳ねる。
外の世界へ連れて行って。そう口に仕掛けた時、塔の扉を叩く音が響き渡った。
■
私のお願いで人前でのキスはなくなっても、夜のエゼルバルドのキスは相変わらず深い。
荒々しさはなくなって、ゆっくりとした舌の動きであちこちを舐めてくすぐられる。舌の横や口蓋、前歯の裏、私が感じる場所をすっかり知られてしまっている。
徐々に首へとキスが移動していく。夜着は長袖になって胸元もしっかりと覆われていても、布一枚なのは心細い。鎖骨へキスされた時、その先への恐怖で体が強張った。
エゼルバルドが苦笑して、また唇のキスへと戻ってくる。
私の体は恐怖で強張るのに、私の中の魔女が残念に感じていることが伝わってくる。魔女がその先の行為を望んでいても、私の心はまだエゼルバルドに完全に向いてはいない。
夢の中で、私はガラスペンで文字を書いていた。
少し大きな手帳程の白紙の頁に、その日に作った食事のメニュー、掃除した場所、男と自分が着た服が書かれて、最後に一言、嬉しかったことや楽しかったことを書く。
「何を書いているんだ?」
男の声に視線を移すと、ベッドでうつ伏せに寝ころびながら男が本を読んでいた。
『毎日の記録よ。食事とか掃除した場所とか、いろいろ。そうね、日記のようなものかしら』
「几帳面だな」
『こうして書き残しておけば、覚えておかなくていいから便利ですもの』
私が笑って答えると、男が視線を本に落としたまま手招きをする。
『寝ころんで読むと本が傷むわよ』
苦笑しながら掛け布に滑り込んで男の側に横たわると、片腕で抱き込まれた。
「王城でこんなことをしたら、側近や乳母が総出で説教開始だろうな」
『そうなの?』
「ああ。常に王子らしく品行方正であることを要求されていた。今は気楽だな」
男は視線を本に落としたまま、私の体を撫でる。
『何の本を読んでいるの?』
「塔の図書室にあった薬草学の本だ。ライトゥーナの言葉で書かれているから読むのに時間がかかる。塔の温室にあるのは薬草だと聞いてはいたが使い道が全くわからないからな」
『私も一緒に学ぶわ』
「……その前に、お前のことを学ぶとするか」
男が本を閉じて、優しい笑顔を近づけてきた――。
■
「ミサキ、新しい上着が届いた」
エゼルバルドが居間へ箱を抱えて入ってきた。最近、私に関する物は城守でなくエゼルバルドが運んでくる。最初は城守達も顔色を変えていたけれど慣れてきたらしい。
「え? あの……」
黒と白のマントがすでにあるのに、と思ったのが顔に出たらしい。エゼルバルドが笑顔をさらに強める。
手招きされたので読んでいた本を閉じてエゼルバルドに寄っていく。
「黒のマントはミサキには重すぎる。今度は軽くて暖かいマントだ」
箱から出されたのは、濃いキャメル色の毛織物のマント。フードも付いているのにとにかく軽くて暖かい。少し前、手を繋がれた時にマントが重いことを気付かれた。
「今度はミサキに似合う色を選んだ」
マントを羽織った私をくるりと回転させてエゼルバルドが笑う。
「……ありがとうございます」
余りにも軽くて暖かいので要らないとは言えなかった。……物で釣られているようで恥ずかしい。
「ミサキが毎日着てくれればマントも喜ぶ。黒のマントは仕立て直して軽くしてもらおう。もったいないからな」
少し得意げなエゼルバルドの笑顔に鼓動が跳ねる。
「そうですね」
早鐘を打ち始めた胸を抑えながら、私も笑顔で返した。
■
重苦しい雪が止んだ。春までは遠くても、珍しく澄んだ青い空が見える日だった。
塔の温室の花畑に並んで座って、人の姿のヴァスィルの話を聞く。寄り掛かると頭を撫でられて、肩を抱かれる。変わらず子供扱いであっても、全然かまわない。
いつもと変わらない光景に、私の心は緩みきっていた。
『人魚の男は人間に化けていて、その村娘を騙して子供を産ませた。生まれた子供には鱗があったからすぐに……』
突然ヴァスィルの言葉が途切れた。
「どうしたの?」
『……信じられない……』
ヴァスィルは天井のドームから見える空を見上げていた。私の声は届いていない。
どことなくくすんでいた赤い髪が、綺麗な燃えるような赤色へと変化した。燃え盛る炎を見ているようで鼓動が跳ねる。
『……俺の番がいる!』
そう叫んだヴァスィルが手を上げると、天井のドームが左右に開いて青い空が見えた。ヴァスィルは、ふわりと空中に浮かび上がると綺麗な赤い竜に変化して、炎を纏って空へと飛び出して行った。
「え?」
咄嗟に張った結界が私自身を護ったけれど、二人で作った小さな花畑は護る事はできなかった。花は無残に焼け焦げ、土は風圧で抉られた。
赤く輝く竜は振り返ることもなく飛び去った。
あっけない別れだった。別れの言葉さえなかった。
気遣われることもなかった。私が魔法で結界を張れなければ、きっと炎で焼け死んでいた。
ドームが軋むような音を立てて閉じていき、竜との別れを告げている。頬を涙が流れ落ちていく。
番を見つけたヴァスィルは戻ってはこないだろう。
――私の想いはこうして断ち切られた。
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