『大正地獄浪漫』おまけ
一田和樹
蓬莱霞
洲崎遊郭編 1
*本文 170ページの箇所に対応する物語です。
蓬莱が率いる片目衆は深川の埋め立て地、洲崎に身を隠していた。人形女給兵団三番隊の者が総勢六名ついてきている。他に蓬莱に感銘を受けた二番隊の二名も一緒だ。
明治二十年頃、東京帝大の本郷移転にともない、本郷にあった商店のいくつかが強制的に退去させられた。根津遊郭も明治二十一年に移転を余儀なくされ、洲崎に移り、洲崎遊郭となった。洲崎遊郭は吉原に匹敵する巨大な遊郭であり、飲食店なども建ち並んでいる。遊郭を仕切っていたのは三業組合と呼ばれる組合だ。
この地区に詳しい知り合いが蓬莱にここを案内してくれた。その者の手引きで潮の香りのする古い家を借りて、住むことにした。猥雑で治安が悪く人の出入りが多いため、隠れ場所としてうってつけだった。そこで蓬莱は生まれて初めて海を見た。
宵闇迫ると遊郭や呑み屋がきらびやかに輝き、嬌声と呼び込みの声が街に満ちる。蓬莱は身を切られるような思慕にとらわれる。男娼として私娼窟の片隅の闇に埋もれていた頃の自分を思い出す。決していい思い出ではないのに懐かしくなる。親切な客の言葉や気の短い客に殴打されたことが胸の痛みとともに浮かんでくる。
着飾った娼妓たちはいずれも幼い顔をしている。年端もいかない娘が酔客の袖を引いている姿、呑み屋の喧噪、座敷から漏れてくる三味線の音、それら全てが蓬莱の故郷だった。
移って早々に蓬莱は厄介事に巻き込まれた。いや、正確に言えば自ら飛び込んだのだが。周囲の地理を確認するために数名で連れ立って散歩していると、見るからに博徒という風体の男たちが娼妓らしい女とそれをかばっている軍服姿の男に一方的に暴行を加えている。
「足抜けを止めようとしているのです。表向き娼妓は自分で廃業を警察に届けて自由になることができますが、実際に辞めようとするとああやって邪魔をするのです。連中はおそらくここを仕切っている三業組合か、生井一家の者でしょう」
この地に詳しい仲間が蓬莱に耳打ちした。
「軍服姿の男は?」
「あれは救世軍です。助けを求める娼妓たちを手助けしています。おそらく廃業届を出しに行くのでしょう」
「救世軍とはなんだ?」
「私もよく知らないのですが、西洋の宗教キリスト教の組織で世のため人のためになることをしていると聞いています」
それを聞いた蓬莱は困ったことになったと思う。
「引っ越したばかりだというのに、"義を見てせざるは勇無きなり"という場面にぶちあたったな」
「助けるべきと思いますが、もしそうすれば否応なく洲崎遊郭を仕切る三業組合と生井一家を敵に回すことになります。それに救世軍は暴力で物事を解決するのをよしとしませんから感謝すらされないかもしれません」
「博徒は六名か……暴力は不要だろう」
蓬莱はそう言うと、争っているところにすたすたと歩いて行く。
「もし、そこのみなさん」
蓬莱の声で博徒たちが振り向く。蓬莱は踊るような足取りで近づくが、博徒たちの動きがぴたりと止まった。救世軍の男と娼妓は目を見開く。なにが起きているかわからないのだ。
「警察に廃業届を出しにいくんだろ。早く行け」
蓬莱は娼妓と軍服の男に声をかける。
「あ、ありがとうございます」
三人はふらふらしながら立ち上がった。蓬莱が後ろに控えている片目衆に目配せすると、すぐに数名が飛んできて娼妓と男性に肩を貸して支えた。
「警察までお供しましょう」
「なにからなにまで、かたじけない」
「我々はここに引っ越してきたばかり。今後お世話になることもあると思います。これは挨拶代わりです。お気遣いなく」
蓬莱はそう言うと、まだ固まっている博徒をちらっと振り向く。連中はさきほどから身動きがとれないままだ。独特の動作で相手を幻惑し、動きを止めたり、幻覚を見せたりする技で、「惑いの蓬莱」というふたつ名の由来だ。
「あなたたちは何者です? 博徒には見えないし、官吏であろうはずもない」
救世軍の青年はふらつく足で歩きながら蓬莱に訊ねた。
「事情を説明するのは難しいが、みなさんに害をなす者ではありません。我らなりの大義に従って漂泊しております」
「わかりました。こういう世の中です。言えない事情もあるでしょう。私は救世軍の佐々木是則と言います」
「私は蓬莱霞です」
蓬莱が偽名を使わなかったことに他の者は驚いたが、それに倣って全員が本名を名乗った。道すがら佐々木から事情の説明を受けた。
法律上、娼妓は自らの意思で廃業できるはずなのだが、三業組合は暴力でそれを阻止しようとしている。女たちを守るために救世軍は活動しており、そのためにわざわざこの地に拠点まで作っていた。その覚悟はあっぱれだが、自分たちの足下でそんなものを作られたら組合も博徒も黙って見ているわけにはいかなくなる。足抜けしようとする女郎を助ける救世軍と、三業組合の間でたびたび争いが起きているのだという。
「三業組合や生井一家はしょせん殴る蹴るしかできないのです。いつか時代が彼らを駆逐するでしょう」
佐々木はそう言い、ここに洲崎の殿様と呼ばれる武本申策も居を構えていると付け加えた。武本の名前は初耳だったが、のちに嫌でも知ることになった。
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