第十二話 勇気のかいほう
椅子に座っている私は、走るバスに揺らされる。多くの人はこの規則的なリズムで眠くなるらしいけど正直よく分からない。でも本当にそうならば、今自分が居る大きな箱はまるで揺りかごのようだと思った。
乗車しているのは私を含めて数人。平日の朝九時過ぎだし、このくらいの人数が普通なのか。職場はアパートから近いので毎回徒歩で行っているけれど、バスや電車だと早朝は大変なんだろうな。ぼんやりとそんなことを考えた。
──
肩に掛けた白いショルダーバッグの外ポケットから、あのメモを出す。細やかな花の絵で縁取られた小サイズのメモには、
《桜川栞様へ。
飼い猫を助けてくださり本当にありがとうございました。後日お礼をさせていただきたいので、下記の場所・日時にお待ちしています。交通費などは封筒のお金をお使いください。》
というメッセージと、竜宮水族館の所在地、《6月17日 午前10時》の日時が綺麗な字で
再びショルダーバッグへ視線を向ける。この中にお金は入れてきた。貰った三十万円は一円も使っていない。生活は余裕があるとは言えないけどなんとかなっているし、交通費くらいは出せる。飼い主さんには医療費などを負担していただいたので、ここまでしてもらう訳にはいかない。丁度十七日は休みだったし、三十万を返すために竜宮水族館へ行こうと決めたのだ。…………いや。本当は、それだけじゃない。あの“夢の世界”のことを考えないように、気を紛らわすためという理由も、きっとある。
夢の世界から帰ってきて、もう約一週間が経過した。一週間の内に幾らか心の整理もついた。夢を見たくらいで心の整理なんて……と、自分でも馬鹿馬鹿しいと思う。だけど、私はあの世界が現実だと信じていた。一度夢では無いと確かめたのだから。でも、夢だった。混乱するに決まってる。
メモを持ったままの両手を膝上に置いて、横側にある車窓の景色を眺める。景色はとてもリアルで夢だなんて全然思えない。けど、二千七十六年の世界も同じくらいリアリティーがあった。……だからだろう。未だに二千七十六年の世界が本当に夢だとは信じ切れていない。今私の瞳に映る二千二十年の世界は勿論現実で、二千七十六年の世界も実は現実で、それが一番自分の中でしっくりくる。そんな事、ありはしないというのに。
突然見知らぬ場所で、見知らぬ姿で目覚めた上に五十年以上経っていたのも、四人の女の子たちや宇宙人が出てきたのも、私に都合が良かったのも、何もかも私の夢だからで説明がつく。そうだ。夢だったんだ、みんな。……みんな、夢だったんだ。
窓から視線を逸らす。椅子の背もたれに上体を預けて、俯く。アパートの部屋でも泣いたのにまた涙が流れそうになってしまった。
……そういえば。病室で目覚めた時は記憶の夢を見たのに頬が濡れていなかった。まあ、そういう時もあるだろう。いつまでも恐い夢で泣くだなんて、子供っぽいのはもう卒業しなければ。
到着、竜宮水族館前。
私は手首辺りに身に付けている腕時計を視認する。午前九時四十五分。約束の時間の十五分前だ。
水族館の敷地内に入る。入館券を買って、飼い主さんを探そうとした時──ある問題に気付く。私は飼い主さんがどんな方なのか知らないのだ。メモにも館内での待ち合わせ場所は書かれていなかった。手掛かりと言えば猫を飼っていること、お金持ちらしいことくらいだが……。一先ずは、猫を連れている人を探してみよう。館内ではペットをケージに入れているはずだから、ケージを持つ人へ手当たり次第に訊いてみるしかない。
入館券売り場のある一階にはそれらしい人は居なかったため、私はエスカレーターを使用し二階へと移動した。
壁の側に立ち、先程貰ったパンフレットを開く。目先に広がる水族館の案内図。展示は、右と左にそれぞれまとまっていた。適当に見るよりもどちらを探すか決めた方が良いと考え、まず左側を探す事に決めた。
通路を進み展示や売店を回ってゆく。ケージを携えた方を三人見掛けたので尋ねてみたが、皆さん猫ではなく犬を連れていたため、飼い主さんでは無かった。
ひょっとしてまだ到着していないのだろうか。そんな風に不安を抱きながらも、次の展示コーナーへ足を運ぶ。パンフレットによると、このコーナーにはシーラカンスやオウムガイなどの「生きている化石」という生き物達が水槽の中で泳いでいるらしい。
周りを注意深く見る。ケージを持つ人は…………居ない。どうやらここでも無いようだ。
小さなため息を吐く。来てから歩き続けていたので、ゆっくり海の生き物達を観れていない。ここのコーナーはお客さんも少ないし、ちょっと休んでいこう。
水槽へ静かに近寄る。中にはカブトガニが居た。実際に見るのは初めてだけど、固そうな甲羅で覆われていて亀みたいだ。だが他は亀と言うよりも虫っぽい。蜘蛛や蠍に近いと聞くし、その事も虫っぽい理由の一つなのだろうか。
「綺麗よね。ここに展示されてる生き物たち」
突然声を掛けられて、反射的に左を向く。いつの間にか隣には和服姿の若い、二十代くらいの女性が立っていた。
息が、止まる。この顔……それにこの長い黒髪。服は前と違うけど、間違いない。夢の世界の博物館で逢ったあの不思議な女性だ。
「あなたは……」
私は思わず声に出してしまう。女性が顔を、水槽から私へと移動させる。
「……どこかでお会いしたかしら?」
小首を傾ける女性。当然の反応だ。逢ったのは夢の世界での話。現実とは関係無い。
「す、すみません。人違いでした」
「そうなの? ……あ、もしかして。あなたが桜川栞さん? きっとそうよね?」
夢の世界で逢った時と変わらない美しい顔を私の顔に接近させてくる。「どうして私の名前を」と言い掛けるが、彼女が片手にケージを所持している事に心付き、質問を変更する。
「えっと……あなたがあの白い猫さんの飼い主さん、ですか?」
女性は一度瞬きをした。その後、すうっと緩やかな動きで私から顔を離す。
「ええ。
口にしながら両手でケージの取っ手を掴み、私に見せるように胸の辺りまでゆっくりと上げる。
「
目を細め、穏やかな微笑みを浮かべる女性。彼女の微笑は夢の世界で御目に掛かった時と同様に、まるで女神様みたいだった。
私とりゅうさんはお互いに挨拶をした後、エントランスの大水槽を観覧していた。
「でも、本当にごめんなさいね。水族館までご足労いただいたのに、遅れてしまって……」
隣に立つりゅうさんが申し訳なさそうな表情をこちらへと向けた。
「先程も申し上げた通り、私が早めに着いてしまっただけですから。それにこの水族館には一度来てみたかったので、丁度良い機会だったんです。どうかお気になさらないでください」
優しい声色になるよう努めつつ答える。りゅうさんは納得してくれたのか、「ありがとう」と朗笑した。
安堵した様子で大水槽をゆったり眺め始めるりゅうさん。その姿を横目で見遣り、エントランスへの道で話した事を振り返る。彼女は病院へ私のお見舞いに行こうとしたがどうしても都合が付かず、今回の場を設けたと仰っていた。竜宮水族館を選んだのは「海が好きだから」という理由らしい。その言葉通り、りゅうさんは海の生き物達へ愛おしそうな瞳を注いでいる。
私はりゅうさんの姿をじっと見澄ます。桜川家にあってもおかしくない上等な着物に、羽織っている透け感のある薄いストール。ツーサイドアップにした長い黒髪。……どうしてか、懐かしい気持ちにさせられる。夢の世界で逢った時は感じなかった気持ちだ。多分、理由は服装にある。私はこのお着物を身に付けたりゅうさんを見たことがある気がする。夢の世界でじゃなくて、もっとずっと昔に。とても朧気な記憶であり、それ以上は思い出せない。
不意に。りゅうさんと私の視線が交わる。しまった、と焦るけれど、既に手遅れだ。
「折角の水族館なんだし、私じゃなくて生き物たちを見たら?」
りゅうさんは苦笑しながら言う。気付かれたのがちょっと恥ずかしくて、私は顔を伏せた。
「す、すみません。……なんだかそのお着物を着たりゅうさんと、以前にもお会いしたような気がしまして」
白状し、返事を待つ。……りゅうさんの声は聞こえない。不安になって顔を上げれば、彼女の視線はこちらにはなく、ただ無表情で水槽を正視していた。
「私も、少し前に、あなたと逢ったことがある気がするの」
水槽内の海の如く静かな声が、耳へ届く。
「だから、逢ったのかもね。あなたが小さい時とかに」
口元を緩ませ柔らかに笑い掛けてくれるりゅうさん。それはいつもの女神様みたいな笑い方じゃなくて、自然とこぼれるような笑い方だった。
まさか、りゅうさんも私と同じ感情を抱いていたとは。偶然とは考え難いし、きっと私達は会ったことがあるんだろう。それで夢の世界にもりゅうさんが出てきたのだ。
「……そうですね」
私は短い肯定を口にした。
水族館屋上のベンチに腰掛ける。隣に座っているりゅうさんが「良いお天気~」と空を仰いだ。
先刻、「そろそろお昼ですし何か買ってきましょうか」と提案したのだがりゅうさんも私と同じくお腹は空いていないとのことで、とりあえず休憩しようと二人で決めたのだった。
「沢山見たわよね~オウムガイにカワウソにアザラシに、クマノミとイルカと……」
りゅうさんが左手の指を右手の人差し指で折って、見た生き物の数を数えてゆく。
私は、観覧していた時の光景を頭に浮かべる。りゅうさんは私の腕を引っ張って「見て見て」と言いながら歩き回り、まるで小さな子供のようにきゃっきゃっとはしゃいでいた。そんなにこの水族館に来たかったんだなあと、微笑ましい気持ちになる。
「さっきのスナドリネコちゃんも可愛かったわ~ネコ科だから、えーちゃんのお仲間ね」
「えーちゃん……?」
反射的に聞き直す。
「言ってなかった? 栞さんが助けてくれたこの子の名前よ。ね、えーちゃん」
私とりゅうさんの間に置かれたケージより「ニャー」という鈴を転がすような響きが返される。ケージの格子状の部分から、白い猫が顔を出した。相変わらず綺麗な猫。声も表情もとても生き生きしている。怪我は無いと聞いていたけど、直接元気そうな様子が見れて安心した。
「……本当に、助けてくれてありがとう。改めてお礼を言うわ」
落ち着いた、しかし感謝の気持ちが込もった口調で、りゅうさんは伝えてくれる。
「いいえ。猫さん、助かってよかったです」
そこで私は、お金を返そうとしていた事を思い出す。観覧に集中しすぎたせいか忘失してしまっていた。急いで肩に掛けているショルダーバッグを開け、白封筒を取る。
「その。お金なんですが……こんなに頂けませんので、お返しします」
封筒を両手で持ち、りゅうさんへ差し出す。
「あら、いいのよ? 三十万円くらい五秒程度で作れるし、貰ってちょうだい」
さらりととんでもない発言をされ、私は唖然としてしまう。作れるって、稼げるって意味かな……? お金持ちだとは思っていたけど、もしかしたら桜川家にも負けず劣らずの大金持ちなのかも。
「そうそう。私も栞さんに渡す物があったんだったわ」
りゅうさんは膝に載せていた二十センチくらいの大きさの巾着を開き、ごそごそと何かを探し始める。一先ず私は封筒を一旦ショルダーバッグへ仕舞う。
そして、巾着の中から現れたのは──巾着だ。りゅうさんは片手に巾着を掴み、私に示す。掌サイズで、何だか箱のような形をしている。
「これね、昔貰った物なんだけど、ただの箱じゃなくて。自分の願いを心に浮かべながら蓋を開けると、願いが叶っちゃう箱らしいの」
「へえ……不思議な箱なんですね」
「そうなのよ~だから、栞さんへのお礼にはぴったりだと思って。受け取ってくれる?」
箱が包まれた巾着を近付けられ、私は驚く。
「えっ。そ、そんな、頂けません……! 私なんかより、りゅうさんがお使いになるべきです……!」
必死にそう勧めたが、全く動じる気配は無い。
「私が使うとしたら栞さんにこの箱を使ってほしいって願いになるけど、それでも良いかしら」
りゅうさんは嫣然と笑う。私にはその笑顔が有無を言わさぬ悪魔の微笑みに感じられて、女神様みたいと表現したのをつい撤回したくなった。
「…………わ、分かりました。頂きます」
押しに負け、両手で小さな巾着を受け取る。私の様子にりゅうさんは満足そうな表情を見せた。
「ふふっ、よかった。この箱を渡せないんじゃ、わざわざここに呼んだ意味が無いもの。……さてと」
着物の帯に提げられた懐中時計を持ち確認するりゅうさん。すぐに懐中時計を戻して、ケージの持ち手を片手で握る。
「ごめんなさい。そろそろお仕事へ行く時間だから、ここで失礼するわ。今日は来てくれてありがとう」
「あっ、はい。こちらこそありがとうございました。お仕事、頑張ってください」
「ええ、頑張るわ。それじゃあ、ごきげんよう」
りゅうさんがベンチから立ち上がる。巾着を左手に、ケージを右手に携え、私へ背を向け歩いて行く。下駄の音が軽く辺りに響いた。が、六回くらい鳴った所で音が止まってしまう。どうかしたのだろうか。
私は、りゅうさんの後ろ姿を見つめる。
「……箱の魔法は一度きりだから、よく考えて、あなたの心の底からの願いを願ってね」
これまでとは異なる、真剣な声遣いで告げられた。また下駄の音が鳴り始めて、今度は止まる事無くただ音は遠ざかっていく。
りゅうさんの最後の言葉は、一体どういう意味なんだろう……? そんな風に思考している間も
行きと同一のリズムが私を揺らす。人が少ないバス車内。見覚えのある内装。まだ明るい外。眼前に広がる光景は新鮮さが無いけれど、一つだけ違う点があった。りゅうさんから頂いた不思議な箱だ。
膝の上で待機する私の両手には、すっぽりと小さな巾着が収まっていた。中身はまだ確認していないので、どんな箱が入っているかは知らない。りゅうさんは願いを叶えてくれる箱だと教えてくれたけど、この小さな箱にそんな力があるのかとまだ半信半疑だ。それに……私には叶えてもらいたい願いなんて、もう。
私が七夕に祈願した「英雄少女ペルセウスの四人の女の子たちに逢いたい」という願いは、もう叶ったと思っている。逢えたのは「英雄少女ペルセウスの四人の女の子たち」では無く、「英雄少女ペルセウスの四人の女の子たちによく似た、四人の女の子たち」だったが……それでも満足している自分が居るのだ。楓さんたちは英雄少女ペルセウスの四人の女の子たちじゃないけど、私にとってはどちらも《自由の象徴》。だから、願いは叶った。
もう一つの願いは…………。瞼を閉じ、軽く首を横に振る。しかし迷いは消えない。
自分の力で実現させたい願い、のはずだ。なのに心中にはこの箱へ縋ってしまいたいという気持ちが確かにある。それはきっと、私が諦め掛けているせいなんだろう。
──四人の女の子たちは強かった。自身の感情さえ抑制できない私とは違い、人間の感情を増幅させ生み出された強大な敵にも果敢に挑み打ち勝っていた。四人の女の子たちは優しかった。私のように嫌な感情を圧し殺した上での偽りの優しさではなく、本当の心からの優しさを持っていた。四人の女の子たちは綺麗だった。性格が良くて、ずっと嫌な感情に付き纏われたりしなくて、戦ってる時は宝石を身に纏っているみたいにキラキラしてた。四人の女の子たちは、何もかも私とは違う。それ故に憧れていた。私は、あの四人の女の子たちみたいになりたかった。それが──私の幸せだったから。
でも夢の世界で四人の女の子たちと逢い、一緒に過ごし、改めて感じた。やっぱり私は弱くて、優しくなんてなくて、穢くて、本当に最低な奴だってこと。
こんな私に四人の女の子たちみたいになる資格なんてある訳が無い。いいや、最初から資格なんて無かったのだ。四人の女の子たちの一人だって仰っていたじゃないか。自分は自分にしかなれない、と。そうだ。どんなに努力したって、私は私にしかなれない。私は──
「四人の女の子たちみたいには、なれない……」
俯いたまま、消え入りそうな声で発して、絶望する。
本当は、ずっと前から気付いてた。気付いていたのに、気付かない振りをした。幸せを諦めたくなかった。だけど、もう無理だ。諦めずに憧れを追い続けることも、夢を見続けることも、私には、もうできない。
アパートの部屋へ帰宅する。誰も居ない室内に、また寂しさを覚える。ひとりなど慣れていたというのに夢の世界から帰ってくればこの
リビングへ向かい、普段食事をしているテーブルにショルダーバッグと巾着を載せる。洗面所で手洗いうがいを済ませた後、再びリビングに戻ってテーブル横に配置された座布団に腰を下ろす。近くの窓からは日が射し込んでいた。まだ電気は点けなくても大丈夫かな。あ、暗くなったら夕ご飯の用意もしないと……。そう考えながら視線を彷徨わせていると、あの巾着が目に留まった。
「…………」
無意識に、じっと見入ってしまう。
私の手の届く場所に誘惑がある。今すぐあの薄布を取り去って願いを実現させる魔法の力を手にしたい。そんな欲望が抑えられなくなりそうで、私は巾着から瞳を逸らした。
諦めたはずなのに。まだ、四人の女の子たちへの憧憬を捨て切れていない。小さい頃から憧れ続けてきたし、完全に諦めるには時間が必要なのだろうか。
静かな部屋だとどうしても考え事をしてしまうので、一先ず気を紛らわすため目の前にある薄型テレビを点ける。
画面に見覚えのある姿が映った。あれは──英雄少女ペルセウスに登場する敵だ。私が初めて見た回でも登場していたあの敵。英雄少女ペルセウスは放送終了しているから、恐らくこれは再放送だろう。しかし私の知らない話だった。アニメ版は時間が無くて全部は視聴出来ていないし、ノベライズ版はアニメ版の話を全話網羅してはいないため、見た事の無い話があるのは当然だ。……どうしてこんな時に。そう苛立ちつつも、私は片手にあるリモコンの電源ボタンを押せない。久しぶりに見てみたいという気持ちには逆らえず、リモコンを元々置いてあったテーブルの上へ、ゆっくりと戻した。
テレビに視線を移して、私は驚愕する。ペルセウスたちが全員地面に倒れている。いつも敗北してばかりの敵が、勝利したと言うのか。また敵が映る。敵は両翼を羽撃かせ、宙に浮いたままペルセウスたちを見下ろす。
「どうして……」
苦痛に顔を歪めながら、か細い声で訊くペルセウス。
「どうしてとは、お前たちが惨めに負けた理由のことを尋ねているのか? まあ、お前たちは今まで
余裕ある態度で敵は話す。
「質問へ答えてやろう。お前たちが私に敗北した理由……それは、感情を抑えているか抑えていないかの違いである」
感情。私は、つい反応してしまう。
「我々もお前たちも、感情がある。感情を抑制しながら生きている。そうしなければ……平和は訪れないからだ」
ぎゅっと、自身の右手に力を込めて、胸の辺りを押さえる。
「しかし。我が主は平和などお望みでは無い。我が主が望むのは秩序が失われた混沌の世界。その世界を迎えるためには、感情の抑制を取り払うことが必要なのだ。以前はバルーンエビルを使い人間の感情でエネルギーを集めていたが、人間の感情だけでは足りないと判断した我が主は……ご決断なさった。──我が主を信仰する我らの感情も利用することを」
「仲間さえ、犠牲に……? なんで……あなたたちは、それでいいって言うの……?」
地面に這い蹲っていたペルセウスは徐々に体を起き上がらせ、よろめきながらも立ち上がる。敵はぽかんとした表情でペルセウスを眺めていた。
「良いも何も……我々の血肉も感情も全て、最初から主の物。我が主は自分の物を使っただけに過ぎない」
空を、敵は見上げる。
「……私は幸せだ。我が主のお力になれた上に、清々しい気持ちを味わえている。これは、感情を抑制しなくなったからか……? ああ……今ならば分かる。感情の抑制という行為がどれほど愚かな行為だったのか。己の感情を抑制せず、あるがままに振る舞う。その行為のなんと素晴らしいことか……! 我が主よ!! 感謝します……“私”を、解放してくださったことを……!!!」
勢いよく両手を天へと伸ばし、高笑いするその姿は、まるで神を賛美しているようだった。敵を目にするペルセウスの横顔は、青ざめていた。
……私は。呆然と、テレビ画面の向こうを凝望する。
あの敵は、どうしてあんなに笑っているのか。自身のあるがままの感情を他人へぶちまけるのがそんなにも楽しいのか。自身のあるがままの感情を解放することで、そんなにも幸せになれるのか。
最後の力を絞り出したペルセウスが、敵との戦闘を再開する。しかし、満身創痍のペルセウスのみで強化された敵と互角に渡り合えるはずはなく、敵は大きな力を惜し気もなく揮い、再び圧倒する。私は、心はペルセウスを心配しながらも、瞳は敵に奪われていた。気付けば魅了されている自分が居た。
敵は四人の女の子たちとは何もかも違う。私の求める強さは持っていないし、優しくもないし、綺麗でもない。だけど、それでも。
「かっこいい……」
自分でも無意識に、“その言葉”を口にしていた。
はっとする。テレビから目を離して、俯く。
わたし、今、何を。四人の女の子たちの敵が、かっこいいはずない。……ない、のに。四人の女の子たちと初めて出逢った日と同じことを、言ってた。
ふと、あの巾着が視界に姿を現す。
『……箱の魔法は一度きりだから、よく考えて、あなたの心の底からの願いを願ってね』
りゅうさんに告げられた台詞が、脳裏を過る。
私の、心の底からの願い。心の底からの、一番奥からの、一番最初の、願いって……なんだっけ…………。
頭の中で記憶が蘇る。夢の世界でのこと、別荘でのこと、桜川家でのこと、四人の女の子たちと初めて出逢った日のこと。そして、四人の女の子たちと初めて出逢う前にあった、“何か”に疑問を抱いた日のことと……いつだったか思い出せない、ずっと昔のおぼろげな記憶。走馬灯みたいに巡ってゆく情景。一体私は何に対して疑問を抱き、遥か昔に何を思ったのか。必ず見つけ出さなければいけない気がした。
再生される記憶の映像。輝き。光が放っている場所。そこには私が居た。開かれた国語辞書の上にある私の片手が、指差す先──
《自由》
その文字は、この世で最も輝かんばかりの光を放っていた。
知らず知らず心という海の底へ置き去りにし、忘れていた原初の光が、彷徨う自分を導いてくれた。
どうして忘却していたのだろう。私のなりたいもの。『自由になりたい』という産まれる前から持っていたように懐かしい感情を、願いを、自由の文字が鍵となってくれたおかげで、やっと私は思い出せた。《自由の象徴》である四人の女の子たちに執着しすぎたために、見えなくなっていた。
四人の女の子たちを見る。ペルセウスだけでなくヘラクレス、イアソン、テセウスも立ち上がり、まだ諦めずに戦っている。憧れの四人の女の子たち。
敵を見る。翼が生えていて、高く舞っている四人の女の子たちの敵。……私は、四人の女の子たちを圧倒する敵を目にし、理解してしまった。これも自由ということなのではないか、と。
ずっと、嫌な感情に縛られていた。嫌な感情を抑え切れなくなってしまうんじゃないかという恐怖に囚われ、嫌な感情を圧し殺して偽りの優しい自分を演じ、嫌な感情に付き纏われながら生きてきた。
四人の女の子たちは嫌な感情なんて元々あまり持たない、優しさに溢れたいい子たちで、嫌な感情が現れようとも打ち勝つことが出来て、嫌な感情に縛られていないから、自由だと思った。あの敵も、自由だと思った。感情を、嫌な感情を抑制すること無く解放していれば、身体の内から嫌な感情は消える。嫌な感情の失われた
四人の女の子たちのような自由の象徴にはなれない。けど……あの敵のような自由の象徴になら、私でもなれるんじゃないだろうか。
そこで、考えが及ぶ。あの敵みたいに私が嫌な感情を解放すれば、他の人達に迷惑を掛けてしまう。……無理だ。そんなこと出来ない。“迷惑を掛けていい世界”でもない限り、出来る訳が、
「あ…………」
心付いてしまう。自分の夢の世界であれば、何をしようと、自分の生み出した世界だし、夢なので現実に影響は無い。
急いで巾着を開き、箱を取り出す。小さなリボンが蓋に飾られている、海の青一色のシンプルな正方形だった。私は巾着をテーブルに置き、箱だけを両手で握る。
この箱に願えば、もう一度あの夢の世界へ行けるかもしれない。夢の世界では私にとって都合良く動いてゆくし、幸いあちらでも体が丈夫というのは変わらないので多少無理も利く。あの敵みたいに振る舞うことは難しくはなさそう。英雄の武器で攻撃されたら、その時はその時だ。夢で死んでも現実へ影響は無いだろうし、もし影響があった場合は……それも悪くない。
楓さん、芭蕉さん、幸恵さん、知加子さん。それにサンちゃんさん、万鈴さん、小鈴さん。夢とは言え、彼女たちを傷付けるような行為をしてしまってもいいのか。嫌われても、私はいいのか。心に迷いが生じる。崩れかけの優しさが、足を攫う。…………いいや、迷う必要なんて無い。皆さんは夢の世界の存在。傷付けて嫌われようが、もういいんだ。それに英雄少女ペルセウスの敵へ憧憬を抱いた私が四人の女の子たちの敵になるだなんて、最高にお似合いではないか。
飽く迄も夢。覚める時が来てしまう可能性もある。構わない。たとえ絵本のお姫様のように鐘が鳴ったら魔法がとけてしまうとしても、
持っている箱を膝上へ一旦置く。迷いを払うように、両頬を両手で軽く叩く。
桜川栞は最低な奴だ。そして……それでいい。どうやったって最低な奴として生きていくしかないんだ。だったらいっそ、永遠の眠りに就く前に、夢の世界でくらい開き直ってやろうじゃないか。
「────行こう」
左手の掌へ箱を載せる。蓋を右手で上に開けてゆく。強い風が吹き、瞬く間に辺りが白に包まれる。光のベールが私の身体を覆う。やっと前へ歩き始められたおかげか、心は靄が消え去り、現下の天空のように晴れやかだった。
目を、閉じる。
感情も、信頼も、友達も、あらゆる存在を犠牲にしてでもこの道で──私は、《自由》になる。
(十二話完)
〈第一部 Attribute of Liberty 完〉
〈第二部 Dream of Liberty へ続く〉
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