第42話 最低確率の場所での遭遇

「ニュース見た? キョンチが失踪したって。大丈夫なのかな? 心配だね」

「そうですよね。元気でいてくれたら、良いんですけど」

 マーブルで、辻本さんと飲んでいる。ここ数日は、この話題で持ちきりだ。SNSでキョンチにフォローバックしてもらって、舞い上がっていたミッチャンママに尋ねても、分からないとの事であった。DMを送ってみたが、返信がないそうだ。僕を始め、他のお客さんも、誰もキョンチの連絡先を知らない。純粋にマーブルを楽しんでもらえるように、距離感を間違えないようにする配慮であった。しかし、今となっては、その配慮が裏目に出てしまったのかもしれない。とは言え、警察も動き出しているそうなので、僕達にできる事などないだろう。

 ニュースの記事によると、キョンチが仕事をドタキャンし、その後連絡が取れないそうだ。合鍵を持った事務所のマネージャーが、キョンチが住むマンションを訪れたが、もぬけの殻だった。実家にも帰っておらず、八方塞がりの関係者が、警察に連絡した。と、いう事が記載されていた。

「・・・妙な事を考えてなければ良いけど」

 ポツリと零した辻本さんの言葉に、背中が冷たくなった。煌びやかな光が当たる世界の住人であるキョンチだが、陰の部分を僕達一般人は知る由もない。想像を絶する苦労やプレッシャーがあったのかもしれない。僕達にできる事は、無事に戻ってきてくれる事を祈るばかりだ。

 今日は珍しく、ミッチャンママが店にいない。休日の予定ではなかったのだが、突然ミッチャンママから、休みたいと連絡があったそうだ。もしかしたら、キョンチがいなくなって、ショックを受けているのかもしれない。仕事を休む程のものかと思ったが、いくら親子といえど、価値観まで共有できる訳がない。誰よりもキョンチが好きなミッチャンママは、誰よりも心配しているに違いない。失踪のニュースが流れてから、三日程が経過している。どこで何をしているのか分からないが、本当に妙な事は考えないで欲しい。

 やはりミッチャンママの事が心配で、今日は少し早めに切り上げた。自宅に戻ると、父さんはリビングでテレビを見ながら、晩酌をしていた。あれ? と、首を傾げた。

「なんか平気そうだね? どうしたの? 店を休んで」

「あ、ああ。翔太少し話があるんだ。座ってくれ」

 我が家では、完全に父さんモードだ。

「ごめん! 洩れそうだから、先にトイレ」

 通常運転の父さんを見て、安心したのか分からないが、突然尿意に襲われた。父さんを置き去りにトイレに駆け込む。マーブルで摂取したアルコールを便器に垂れ流して、父さんの事を考えていた。慣れ親しんだ行為でも、油断するとトラブルの元だ。よそ事を考えていた為か、遠慮なく尿が手についてしまった。自分の排泄物とは言え、気持ちが悪いものだ。水を流し、サッと手を洗ったが、気持ちは晴れなかった。トイレから出て、洗面所でしっかり手を洗う事にした。洗面所の扉を開いた瞬間だ。

「きゃーー!!」

 突然、女性の叫び声が、耳を劈いた。

「す、す、すいません!」

 大慌てで扉を閉めた。素っ裸の女性が、タオルで体を拭いていた。一瞬、妹の結衣かと思ったが、あきらかに別人であった。あれは・・・キョンチだ。どうして、キョンチが、うちにいるのだ。どうして、うちの脱衣所で裸になっているのだ。謎が謎を呼び、混乱していると、父さんが血相を変えてやってきた。

「この馬鹿者が! 腹を掻っ捌いて謝罪しろ!」

 いやいや、罪が重過ぎるだろう。いくら六十歳のおじさんとは言え、時代錯誤も甚だしい。僕の首根っこを掴んだ父さんに、リビングへと引っ張られていった。

「翔太!? いったいどういうつもりだ!?」

「それはこっちのセリフだ! どうして、うちにキョンチがいるんだよ? 失踪してたんじゃないのかよ?」

「それを説明するから、一先ず座りなさい」

 少し腹が立った。僕が取り乱しているような感じを出すな。取り乱していたのは、父さんだ。不貞腐れるように椅子に座ると、父さんが話し出した。

 父さんの説明によると、キョンチは日々の仕事のストレスやプレッシャーから逃げ出してしまったそうだ。ここに来るまでは、ビジネスホテルに身を寄せていた。暫くして、キョンチからDMが返ってきて、話の流れでうちに来る事になった。どんな流れがあったら、うちでかくまう事になるのか謎だ。その部分が、ごっそりと抜けた説明であった。入り口と出口だけを教えてもらった感じだ。色々腑に落ちないが、この際受け入れる事にする。何せ、仕事を放り出して、警察まで動き出している案件だ。安易に首を突っ込まない方が、賢明だろう。

「一応、所属事務所のマネージャーさんには、ラインしたそうだ。安否報告をしたから、警察は捜査を止めるだろう」

 父さんが芋焼酎をチビリと舐めると、階段から結衣が下りてきた。

「部屋の掃除終わったよ。てか、さっきの悲鳴何? まさか、お兄が覗いたの? 最低」

「馬鹿馬鹿。不可抗力だ。わざとじゃない」

「飢えた狼の言い訳なんか、信じられませーん。今晩は、キョンチは私の部屋で寝るから。狼から私が守らないと」

 誰が、飢えた狼だ。失礼にも程があるぞ。うちの家族は。居心地の悪い空間に身を置いていると、キョンチが脱衣所から出てきた。

「こんばんは、翔太さん。突然、すいません。お世話になります」

「いや、こちらこそ、ごめんね」

 わざとではないが、流石に謝るべきだろう。キョンチは恐縮して、体の前で小さく手を振った。

「さ、キョンチ。私の部屋にいこ。狼の事なんかほっといて」

 狼? と、首を傾げるキョンチを押して、結衣は二階へと上がっていった。

「はあ、参るよ。こういう事は、事前に知らせておいて欲しいものだね。さ、風呂入ろ」

「翔太。キョンチの残り湯で、妙な真似するんじゃないぞ」

「妙な真似って何だよ?」

 ダメだ。全員が敵に見える。今日のところは、キョンチに免じて、さっさと風呂に入って、早々に寝るに限る。

「翔太、見てないんだな?」

「何をだよ?」

「キョンチの裸だ」

「見てねえよ! うらやましいのかよ!?」

 僕は、ドスドスと足音を立てて、風呂場へと向かった。まあ、嘘なんだけど。本当の事を言うと、少し見た。とは言っても、大事な部分は見ていない。横向きだったし、体の前にはタオルがあった。真っ白で細い綺麗な、横のラインしか見ていない。この事を正直に話すと、父さんが激高しそうだから、内緒にしておく。スレンダーなキョンチだから、胸の膨らみは確認できなかった。そもそも、あんな一瞬で何が分かるって言うんだ。

 キョンチの残り湯に浸かって、すぐに風呂を出た。時間をかけてしまえば、また何を言われるか分かったものではない。変な誤解を生むのは、ごめんだ。タオルで頭を乾かしながら、冷蔵庫からビールを取って、二階の自室へと向かった。ビールを一気に流し込んで、部屋の電気を消す。ベッドの上で手を組んで、後頭部の下に敷いた。

 だがしかし、悶々として眠れない。隣の結衣の部屋には、キョンチがいる。そして、一瞬ではあったものの、確かに目視確認したキョンチの体。頭の中で、グルグルと回る妄想。時刻は、日付が変わっている。眠りたいけど、眠れない。これは致し方ないと判断し、ズボンを下げた時だ。突然、扉をノックされ、飛び上がりそうになった。慌ててズボンをはきなおした。物音から、家族全員が、それぞれの部屋に入っている事は、分かっている。文句が言い足りなかった父さんが、小言を言いに来たのだろうか? 僕が小さく返事をすると、扉がゆっくりと開いた。暗がりに目が慣れていた為、誰が入ってきたのか分かり、心臓が飛び出しそうになった。

「すいません。中に入っても良いですか?」

 申し訳なさそうに顔を覗かせたのは、キョンチであった。妄想していた出来事が現実に起こり、パニックに陥りそうになった。キョンチは、足音を立てずに、ベッドの前までやってきた。

「あの、夜分にすいません。少しお話しても良いですか?」

「え? あ、うん、良い、良いですよ」

 しどろもどろになってしまう。僕は慌てて布団をはねのけ、ベッドの頭の上にある小さな照明をつけた。キョンチの姿が露になって、現実感が一気に増した。Tシャツに短パンという結衣の部屋着を身にまとったキョンチは、落ち着きがない。どうしても、スラリと伸びた白い脚に目がいってしまい、顔をそむける。僕は狼ではない。キョンチは、顔を上げて直ぐに下げる。顔を上げて直ぐに下げるを繰り返している。何かを言いたげなのは理解できるのだが、言いづらい事なのかもしれない。

「あ、あの、どうしたの?」

「え・・・と。その・・・見ましたか?」

「え? え? え? えぇ!?」

 動揺が隠し切れない。もうその一言で、何が言いたいのか分かった。僕は、慌ててベッドの上で正座をして、頭を布団につける。

「ごめん! 少しだけ見えた。でも、本当にわざとじゃないんだよ! それに一瞬だったから・・・その」

 言い訳が苦しい。でも、どれだけ言い訳しても、見たという事実は変わらない。父さんじゃないけど、今をトキメクカリスマモデルの裸を見たと公言すれば、八方から袋叩きにされるだろう。

「な、内緒にして下さいね」

「も、もちろんだよ。誰にも言わない」

 言える訳がない。僕の身の危険しか感じない。何よりも、一番身近に危険人物がいる。身振り手振りを交えて、信用を勝ち取ろうと必死になっている。すると、キョンチの顔が急に引き締まった。その変化を見逃さず、ゴクリと唾を飲み込んだ。

 キョンチは、ゆっくりとTシャツを脱ぎ始めた。

「ちょっ! ちょっと! キョンチ!?!?」

 妄想は膨らませていたが、いざ現実に起こると、もうパニックの何ものでもない。心臓は無遠慮に暴れまわる。

 キョンチが身に着けていたブラジャーが、床に落ちた。

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