第29話 濃い一日が過ぎて

「・・・納得いかない」

 昨夜の出来事を説明した。仕事後にマーブルに直行し、一番奥のテーブル席を陣取り、僕はソファに座っている。テーブルを挟んだ椅子には、浅岡君と常連客の辻本さんが座っていた。二人は、腕組みをして、眉間に皺を寄せている。浅岡君には、同じ説明を仕事の休憩中にもしたのだが、まだ根に持っているようだ。ママ達や他のお客さん達も、話を聞きに集まっていたが、もう散り散りに各席についている。

「あの、辻本さん。あの日・・・僕がヒメカに殴られた時、辻本さんがヒメカに激怒していたのには、驚きましたよ。今にも殴りかかりそうな勢いで。知らない一面を見ました」

「いや、お恥ずかしい」

 後頭部を掻きながら、辻本さんはハイボールを飲んだ。辻本さんの薄くなった頭頂部は、汗ばんでいるようで、いつにも増して輝いて見えた。ミラーボールの光が、反射している。辻本さんも僕と同じ、マーブルの常連客だ。いつも皺の寄ったスーツを着用し、髪の毛の薄い小太りのおじさんだ。常にハンカチで汗を拭いている印象がある。辻本さんは、女装家ではない。それでも、連日マーブルに訪れている。

「あの、前から気になっていたんですけど、聞いても良いですか?」

「え? うん、何?」

「辻本さんは、女装家ではないのに、どうしてマーブルに来ているんですか?」

「それは、君だって同じだろ? ここが好きなんだよ」

 確かにその通りなのだけれど、僕の場合は身内が経営しているからだ。勿論、今ではそれだけの理由ではない。辻本さんの言うように、マーブルが好きだからだ。マーブルに集まる人々が好きだからだ。

「僕にはね、夢や希望なんか、なかったんだよ」

 辻本さんは、ハイボールを一気に飲み干し、お代わりを注文した。届いたハイボールを半分飲み、グラスを置く。

「それだけじゃない。趣味もなくて、友達もほとんどいない。毎日毎日、会社と家の往復の人生だった。楽しい事も張りもない人生を送っていた。そんな時、偶然ネットでミッチャンの事を知った。最初はね、同年代のおじさんが夢を語って、恥ずかしい奴だと笑っていたんだよ。でもね、いつの間にか、ミッチャンの事が気になって仕方なくなったんだよ」

 辻本さんは、はにかみながら、おしぼりで広い額を拭いた。グラスについた水滴を拭い、おしぼりをテーブルに戻す。

「ミッチャンが語る夢に興味が湧いた。ミッチャン自身に興味を持つまでに、そうは時間がかからなかったよ。夢を持たない僕が、夢を語る人を笑っている事が、酷く情けなくなった。それで、ミッチャンは夢を実現して、こんなにも素敵なお店を作ってみせた。僕に夢を見せてくれた」

 僕と浅岡君は、小さく頷きながら、グラスを口につける。

「このマーブルは、僕の人生になくてはならないものになった。勝手な話だけど、僕もミッチャン達と一緒に走っているような気持ちになったんだ。退屈な日々が、突然楽しくなったんだよね。だからこそ、あの女が許せなかった。どうしても、許せなかった・・・はあ、もう少しで、取り返しのつかない事をしてしまう所だった。だから、翔太君。あの時は、止めてくれて、本当にありがとう」

 僕は恐縮し、体の前で小さく手を振った。辻本さんにそんな事情があったのか。辻本さんは、鬼の形相でヒメカに掴みかかっていた。辻本さんの言う通り、事情はどうあれ、男性が若い女性に殴りかかるのは問題になるだろう。それこそ、警察沙汰だ。そうなれば、マーブルに迷惑をかけてしまう。下手をすれば、営業停止もあり得るだろう。それは、辻本さんにとっても、望むところではないはずだ。何はともあれ、辻本さんを止められて良かった。結果、僕が派手に殴られる羽目になってしまったが、それは名誉の負傷という事で飲み込もう。

「その気持ち、凄く分かります!」

 突然の大声に、僕と辻本さんは、目を丸くした。浅岡君が、隣に座る辻本さんに体を向けた。

「僕も、マーブルのお陰で、世界を覆う闇が払拭されました! 毎日が、楽しいです! これからも、マーブルを盛り上げていきましょう!」

「あ、ああ、そうだね」

 浅岡君の熱量に、辻本さんは気圧されているようだ。辻本さんの笑顔も、どことなくぎこちない。それでも、二人の想いは同じだ。勿論、僕もだ。

 僕達三人は、その後まるで自分の自慢話をするように、マーブルの事を語り合った。会話をしながら、内臓の内側を撫でられているようなむず痒さを感じた。目の前にいる浅岡君と辻本さんが、満面の笑みを浮かべて楽しそうにしている。きっと、これがミッチャンの・・・父さんの夢の形なのだろう。店舗を経営するという外殻ではなく、本質はこちらに違いない。

 僕がニヤニヤしながら、心地良い時間を噛み締めていると、乾いた音が聞こえた。新しいお客さんが来店したのだろう。視線を扉に向けると、『ゲッ』という声が、無意識に漏れてしまった。

 帽子を深く被り、マスクを装着したお客さんが、怯えた様子で店内を見回している。新規のお客さんと目が合った。たぶん、僕にしか分からないだろう。

 今回の騒動の元凶であるヒメカが、僕達の座っているテーブルに歩み寄ってきた。

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