第11話 陶酔と接吻


「凄いね……。想像以上。感激して涙出ちゃった」


 目元を拭う彼の仕草は本当に感激してくれたのだということがわかった。ピアノを片付けた石田も「悪くない」と声をかける。


「何年も歌っていないにしては、だな。まあスキルで言うと、高校時代よりは大分落ちているが——」


「なんだよ?」


「昔より声に深みがあっていい。そして思いがこもっていて訴えるものがある。お前も色々な経験をしてきたってことだろう?」


 石田の言葉は十文字には重い。


 ——そうか。少しは成長できたのか? 


 同級生に上から目線で言われても……とは思いつつも、当時スパルタでしごかれた相手である石田に褒められると言うのは嬉しいらしい。つい口元が緩んだ。そんな様子に石田は意地悪そうに笑った。


「また、レッスン付けてやろうか?」


「——結構です」


 ——こんな大人になってまで、あのは嫌だ。保住室長のしごきと同じくらい嫌だ!


「マスターは教えられるの?」


 そんな十文字の中のトラウマには気がつかない天沼は、のほほんと石田を見た。


「この商売だけでは食べられませんからね。市内の高校に手伝い行ったり、声楽を教えたりしています」


「そうなんだね」


 天沼は感心したように頷く。


「凄い人たちだね」


「大したことじゃないよ……」


「そんなことないよ。音楽ができるなんてカッコいい」


「そういう天沼さんは、部活はなにをしていたんですか?」


 石田の問いに、彼は照れたように笑った。


「おれは演劇部」


「え?!」


 石田と十文字は驚く。


「演劇部って? 天沼さんが?」


「舞台に?」


 天沼は手を横に振る。


「舞台に立つ方じゃなくて、脚本担当ね」


「脚本かあ」


「それまた凄い」


「妄想家だからね。そういうのは得意」


 ——意外。


「もう遥か昔の話だよね」


「天沼さんの脚本、見てみたい」


「もうないよ」


「残念」


 石田や十文字は同じ言葉を吐く。


「若かりし頃のことを考えると恥ずかしいね」


「そんな」


 天沼は微笑を浮かべて手を合わせる。


「ご馳走さまでした」


「お粗末様です」


 昨日は散々な顔だったけど、今の彼は彼らしい。顔色は疲労が濃いけど、表情は明るかった。


「疲れてない? 天沼さん」


「え?」


 十文字はお代を払い、立ち上がる。


「疲れている人を連れまわすなよ」

 

 石田の言葉に、天沼は首を横に振る。


「家にいても休まらないし。大丈夫。付き合ってあげよう!」


「よかった! そうこなくっちゃ」


 十文字は笑い、それから天沼を車に乗せた。


 そしてそれから。久しぶりというのだろうか。いやこんなに長い時間、こうして二人で過ごしたのは初めてのことかもしれない。自分のこと、そして天沼のこと。お互いに知らなかったことがたくさんあって、好きなもの、嫌いなもの、色々な話をした。


「そう。十文字のお父さんはもう市長にチャレンジする機会はないの? 今年は市長改選の年だよね」


 ハンドルを握りながら首を横に振る。


「もうないんじゃないかな……」


「もう勘弁ってところ?」


「そうではないようだよ。父は澤井副市長の話すると、すごく喜ぶし。多分、本当に楽しかったんだと思う。でもきっと、途中で辞めなくてはいけなかったことで後ろめたい気持ちが大きいんじゃないかと思う」


「そんなことないのにね」


「よくそう言われるけど、……だって、天沼さんがその立場だったら同じ気持ちじゃない?」


「ああ」と天沼は納得した顔をする。


「任期途中って本当悔しいよね。なんだか期待してくれた人たちに申し訳がなくて……やだな。今のおれみたいじゃない」


「だから、まだ終わったわけではないしょう」


「でも……」


「ほら、悪い癖」


 十文字は苦笑してから、車を駐車場に入れる。マンションの地下駐車場は薄暗い。


「ごめん」


「だからね。本当、そういうところイライラするって言うか……」


 心のイライラ。だけどそれは、悪い意味でのイライラではないらしい。「嫌い」とか、「うざい」とかじゃなくて。


「ごめん。いつも苛つかせて」


「本当、いつも苛つかせる。天沼さんは」


 十文字はそう言うと、そっと天沼の首に手を回して引き寄せる。


「心配させないで。本当、心臓いくつあっても足りないから」


「十文字……」


 軽く開かれた口を唇で塞ぐ。


「……ん」


「天沼さん……」


 軽く触れ合っていた唇が、くっついたり離れたりしている間に、気持ちは高揚するものだ。十文字の肩に回された手が温かい。いつまでも止まないキスに、天沼がストップをかける。


「ちょ、ちょっと」


「え?」


「ここまで帰ってきたんだから、家に帰ろうよ」


「あ、そっか。だって久しぶりで我慢できなくて」


「そういう問題?」


「そういう問題でしょう?」


 十文字は悪戯に笑みを浮かべて、天沼の下腹部に触れた。


「っ、ちょ、ちょっと」


「ほら。天沼さんだって我慢できていないじゃない」


「う、うるさいな。おれは疲れているっていうか……」


「疲れているとこうなるの?」


「ちょっと! 意地悪しないでよ」


「したくもなるでしょう? せっかくこうして時間がたくさんあるんだもん」


 口角を上げて笑みを浮かべてから、十文字はさっさと車から降りた。そして助手席の扉を開けて、天沼を引っ張り出す。


「わわわ」


「早く! 待ちきれないでしょう?」


「ちょ、ちょっと……っ」


 楽しい事が待ちきれない子供みたいに十文字は笑った。それを見ていた天沼も釣られたように笑う。


「もう、仕方ないんだから……」


 エレベーターを降りて自宅の扉が閉まらない内に、腰を引き寄せられて、そのまま室内に雪崩れ込む。だけどもう文句の声は上がらない。十文字は天沼が好き。だけど、きっと天沼も十文字が好き。素直じゃない二人だけれど、それだけは確かなこと。なかなか一緒にいられないことばかり。でもそれはそれで。やはりお互いに頑張っているからこそ、こうして尊重もできて愛おしくも思えるのかもしれない。


「腰がもぞもぞする——」


 十文字が触れるたびに、「わざとなの?」と思うような反応を示す天沼が面白い。今日のデートは二人にとったら、記念日みたいに特別な日に思えた。




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