第68話 最後の晩餐
空腹で目が覚めた。
空気の中に誰かの甘い匂いが混じっていて、直史は目の上にかけられたタオルを取る。
右手の血マメを隠すために握っていたタオルも、ようやく手放す。
宿の一室だ。広い部屋の隅に直史は寝かされており、その横に座った瑞希が、背を壁に預けて眠っていた。
見れば自分は上半身裸である。下はなんとかスラパンを履いているが。
着替えはどこかと見てみれば、ちゃんと枕元にあった。ダサイTシャツは双子の選んだものだ。まあジャージの下はいいのだが。
パンツがない。
ズボンのことをパンツというあれではなく、下半身の下着がない。
もちろんスラパンのままでも猥褻物を晒すことからは守られるのだが、スラパンは日常で履いておくものではない。
おそらくこれだけは誰もが脱がすことをやめ、放置されたのだろうが。
パンツを履かないままジャージの下を履くのは、必要以上にもさもさしてしまうのだ。
上はダサイTシャツ(なんだアルパカ柄って)、下はスラパンという、控え目に見ても変な格好のまま、直史は眠れる乙女を見つめる。
鑑賞する。
視姦する。
(この子、もう俺のものなんだよな)
約束したのだ。
もの扱いと言うなかれ。直史はものを大切にする人間だ。
プレゼントされたダサイTシャツでも、部屋着として活用するぐらいの人間だ。
愛の重い直史的に考えれば、セックス=結婚である。
そして結婚するからには子供を作り、温かで穏やかな家庭を作り、人生の辛酸を舐めながら、孫の顔を見て老いを感じ、やがて死んでいくものだ。
だから瑞希はもう自分のものであり、同時に自分は瑞希のものだ。
このままずっと見つめていたいとも思ったが、そういうわけにもいかないだろう。
「瑞希さん」
名前を呼んで、軽く肩を揺する。
すぐに目覚めた彼女は、事態を把握して顔を赤くした。
「ごめんなさい、私が眠ってたらダメなのに」
「寝顔可愛かった」
にこにこと笑いながら直史が言って、瑞希はさらに赤面する。
「もう夕方かな?」
「そうね。もう少ししたらご飯だけど、お腹がすいたなら少し何か持って来るけど」
「あ~、じゃあお願い。それとタケか……佐々木に言って、俺の荷物から替えのパンツ持って来るように伝えてくれない?」
直接パンツを持ってこさせる。彼女にしてもらうにしても、少し微妙な線である。
だから伝言にしたのだが、瑞希はまださらに顔を赤くする。
直史は鈍感系主人公体質ではない。
だから気付く。その可能性に。
「まさか……見た?」
「ごめんなさい! でも私じゃなくて、妹さんたちがそうと知らずに」
スラパンの下に、さらにパンツを履いていると勘違いする者は多い。
だからそれは事故であろうし、瑞希を責めるようなものではない。しかし確認しなければいけないことはある。
「……あの、どう思ったかな?」
そんなことを女の子に尋ねる直史は、自分の鬼畜さに気が付いていない。
「あ……その、比較対象が分からないから……」
「そっか……」
気まずい沈黙である。
そのまま瑞希が去ってくれるのが、この場合の一番の解決策であろうが。
「あれが……私の中に入るの……」
呟くような瑞希の声に、直史はむせてしまった。
何を仰るのか、この娘さんは。
「ま、まあでも、膨張するけど」
「海綿体に血液が入って膨張するんでしょ? どれぐらいの大きさになるの?」
「どれぐらいって普通だけど……」
思わず直史は左手で長さを、右手で太さを示してしまった。何をやっているのか、こいつも。
「え、大きい」
瑞希も口元を手で抑えながら、かなりショックを受けている。
「え、そんなに大きいのが入るの?」
「俺のは日本人の平均より、ほんの少し大きいだけなんだけど……」
妙なところで生真面目な二人は、この先に待っている初体験に向けて、ずいぶんと具体的な話をしてしまっていた。
二人の会話を聞いている者がいたら、口から砂糖を吐いていたかもしれない。
「そんなの入んない……」
「大丈夫、ちゃんと段階を踏んでいけば、入るようになるはずだから」
少なくとも直史の知る限りのエロ知識ではそうである。
これは彼女がいるから童貞ではないであろう、手塚あたりに詳しく聞く必要があるかもしれない。
直史がとんでもない方向に努力しようとした時に、瑞希は質問する。
「直史君、血液検査ってしたことある?」
「へ? まあ、あるけど?」
「じゃあ何か血液感染する病気とか持ってない?」
「それは間違いなく。あ、もちろん避妊はします」
思わず敬語になってしまう直史である。
「いえあの、避妊は私のほうで……」
「え、いや、こういうのは男の方がちゃんと」
「いや、避妊具だと失敗の確率が高いので」
「あ、そうですね」
沈黙が落ちた。
重い沈黙だった。
「……大切にするから」
「……私も」
そっと瑞希の手に自分のそれを伸ばす直史。ここでキスぐらいには持っていけるか――。
「――! っー!」
右手の血マメのことを、すっかり忘れていた。
慌てる瑞希を制して、とにかくパンツを持ってきてくれるように伝えてもらう直史であった。
他の誰にも内緒で、直史と瑞希はセイバーと早乙女の部屋に来ていた。
「これは……どうやっても明後日までには治らないですよね」
指先の血マメなど、セイバーには経験はない。
しかし踵の高い靴を履いたときに、足の指先が一度はこうなった経験のある女性は多い。
「ネットで調べた程度では、分からないわね。少なくとも明後日までに治す方法は。水分を抜いて消毒し、しっかりと乾燥させるのが一番のようだけど、感染症の危険も少しあるし」
早乙女も調べたが水分を出して乾燥させるというのが、やはり一番ではあるらしい。
ピッチャーは、利き手の指に絆創膏を貼ることも出来ない。
針で突いて水分を抜き、消毒して乾かすというのが一番のようだが、どのみち明後日には間に合わないだろう。
「これを知ってるのは?」
「俺たちだけです」
「そう……」
セイバーは考え込む。直史は、決勝は投げられない。
「ねえ、これってでも、この状態で終盤は投げてたんでしょう? このままでもイニング一つぐらいは投げられないの?」
「えっこ、それは出来るかもしれないけど、体の他の部分に負荷がかかって故障するかもしれないの」
世の中には指を蚊に刺されただけで、スライダーを投げたくないと言う投手もいるのだ。
投げさせるわけにはいかない。そもそも試合でハイになっていた終盤と、落ち着いてしまった今では違う。
直史の持つメンタルの強さは、逆境や危機に対するものであり、純粋な痛みをこらえて投げるというような、前時代的なものではない。
「佐藤君は今日も明日も、宿の中では体調が回復しない振りをしていてください。最初から頼れないと分かっている方が、他の選手も覚悟が決まるでしょうし」
それはそうだろう。
「けれどその指のことは絶対に秘密です。相手の春日山に君が投げられないことが分かれば、心の余裕を持たせることになる」
なるほど。
直史は体調が悪くても悪いなりに、技巧を駆使して投げてしまえるタイプだ。
だがこの指先の感覚は、体調どうこうとは全く違うレベルの問題だ。
決勝は直史なしで戦う。それを覚悟しておく。
だが実際に直史が投げられないのとでは、心の座り方が違う。
「佐藤君は、その指を見せないように、今みたいに自然とタオルを持って。瑞希さんはそのサポートを」
「分かりました」
「あの、ジンかシーナか、手塚さんあたりの誰かにも、話しておいた方がいいんじゃないですか?」
口にしながらも、直史は思う。
もし話しておくなら、シーナだろう。内心がどうであれ、プレイには影響が出ない。
「それは私が判断します」
珍しくも難しい顔をしながら、セイバーは言い切った。
直史は使えない。
だがそれでも、対処はしなければいけないだろう。
「明日にでも、医者を手配してここに来てもらいます」
「前みたいに、あそこで診てもらうんじゃダメなんですか?」
「この騒ぎで外に出れば、今の状態が洩れるでしょうね」
溜め息をつくセイバーだった。
右手を見せられないので、食事の時間もずらす。
そして代わりに、先に風呂には入らせてもらった。
参った。
しかし今日の試合は、ここまでしなければ勝てないのも確かだった。
(俺の夏は、今日で終わりか)
相手へのブラフで、キャッチボールぐらいはするかもしれない。
しかし試合で投げることはない。今日が直史の、二年の甲子園の最後だったのだ。
最高のピッチングだった。
その代償がこれだ。
小豆のような大きさのマメ。途中からは血が混じって、赤くなってきた。
セイバーからは目立たないように絆創膏を貼るように言われたが、まあ気付かれればどのみち終わりだ。
まさか優勝を決める試合を、外から見ることになるとは思わなかった。
風呂から上がっても、直史はタオルを離さない。
何かあればすぐにシャドーピッチが出来るような体勢だ。
他の者がまだ起きているのは分かっていたが、直史はさっさと眠りに落ちた。
「げぐご」
決勝の前日、打席に立つ者は例外なく、春日山の試合の映像を見るなど、明日に備えている。
宿の庭で、ストレッチや体操をしている者もいる。
その中で一人直史は、整体師に体を揉んでもらっていた。
朝起きると、体の節々が痛んでいた。
外科医と一緒に来てもらった先生は、この間武史を揉み解してくれた人だ。
本当は今日は休日だったらしいが、セイバーが札束で頬を張り倒したらしい。
「お金で解決出来るなら、お金を使うべきなんです」
彼女の主張は完全に正しい。
この直史の様子を見て、他のメンバーは判断する。
おそらく明日の試合には間に合わないと。
それでも直史なら……直史ならきっとなんとかしてくれる。
「なんて思ってないよね?」
「ねーよ」
「いや、うちの兄貴ならありうる」
ジンの言葉に、岩崎は不貞腐れたように言ったが、武史は希望的観測を捨てない。
どうにもならない時にでもどうにかしてしまう。
それが佐藤直史という人間だ。奇跡は起きます。起こしてみせますとも言わずに、奇跡を達成した兄だ。
「まあなんとかしちゃう可能性はあるけど、基本的にはガンちゃん、ワンポイントとかでタケとかアレクを使っていくから」
春日山は左打者が少ないので、あまり左腕の有利は発揮されない。
直史は針で突いたマメから、水分を吸い取ってもらっていた。
とにかく乾燥させるのが、これを早く治す要だ。しかしはがれた皮を無理にめくるのも良くない。
個人差があるが、元に戻るには一週間から二週間ほどかかり、その後も再生したばかりの皮膚はまた破れやすくなっている。
(秋はまあブロック免除だし、本戦も決勝までには回復するかな? つか、来年の千葉ってどこが強いんだっけ?)
ぼんやりと考える直史は、ストレッチをしていた。
その補助を瑞希がしている。他の誰かに指の状況を知られるのは、絶対に避けられなければいけない。
「あ~あ~、いいな~、公認でいちゃつけて」
「大介君はストイックすぎるよ~」
双子は瑞希のために、スコア整理などをしているのだ。
しかしまいった。
あまり下手に瑞希に密着してもらうと、体の一部が反応してしまう。
この右手では自分で処理するのも難しい。
「瑞希さん、ちょっと体を動かしてくるから」
「うん」
庭に出て、軽く跳んだり走ったりする。
体に乳酸などの疲労物質が溜まっている時は、むしろ軽く運動をして疲労物質を流してしまうのがいいらしい。
直史もこの大会で初めて知ったのだが、アイシングなども実はしない方がいい場合も多いのだとか。まあ聞く前から直史はジンの指示で、アイシングは行っていなかった。
庭の片隅では大介も、素振りをしていた。
目を閉じて、上杉をイメージしている。彼の素振りは、フォーム固定用の素振りと、試合用の素振りで全く意味が異なる。
どうやら元気一杯らしく、打線陣には問題はないようだ。
宿の外に出られないのは悲しいものである。本当なら練習用グランドで、最後の調整をするはずが。
だが仕方がない。今日の新聞の朝刊は、スポーツ新聞以外でも全て、直史と大介が一面になっている。
あの最後のアウトを取った後の、マウンドに跪く直史。
そしてホームランのスイングをした直後の大介。
史上初の完全試合と場外ホームラン。ホームランの方はともかく完全試合は正確には違うのだが、新聞はその条件を完全に無視していた。
いくらなんでも政治だの経済だの芸能人だの、そちらをメインにするべきではないだろうか。
経済を一面にしていた日本経済新聞は偉い。直史はそう思った。
最後の一日が過ぎていく。
直史はまた来てもらった整体師に、固さが出てきた筋肉を、またほぐしてもらている。
「しかし君の筋肉の柔軟性はすごいね。これだけ故障しにくそうな体を見たのは初めてだよ」
「そうなんですか?」
「うん。体が柔らかいと怪我をしにくいのは当然なんだけど、君の場合は関節周りを守る筋肉がしっかりとついてる。多分三年の夏までには、順調に145kmぐらいまで球速は上がるんじゃないかな」
球速。直史は別に、球速を軽視しているわけではない。
ただそれよりも、コントロールを優先したコンビネーションを念頭に置いているだけだ。
球が速ければ単純に、打者の対応出来る時間は短くなる。
「そうだね。基礎体力も重視して、二軍で一年過ごしてから一軍デビューかな。時々ローテに入るぐらいなら一年目もいけると思うけど」
「先生、俺はプロには行かないんですけど」
「大学? う~ん、まあ四年間適度に鍛えたら、150km前ぐらいまでは上がるかな? それからプロでもいいよね。でも大学はなあ……」
大学はプロと違って、選手にシビアな結果を求められるわけではない。だが、監督はシビアな結果が求められる。
だから選手を壊してしまう指導者がいるのも事実だ。
「いや、プロには行かないんですって」
直史の言葉に、先生の手が止まる。
「え、マジで?」
「他にやりたいことがあるんで、野球は大学までです」
「え、う~ん、う~ん、う~ん」
同じ部分をやわやわと揉んでくる」
誰にだって事情がある。
それは彼にも分かったが、この才能はおそらく、埋もれることは運命が許さないだろうとも思う。
「お父さんの会社を継がないといけないとか?」
「いや単に、他にやりたい仕事があるだけで」
「そうか~」
それは明確な理由だ。
しかし思う。誰だって、自分が望んだ道を真っ直ぐに進めるわけではない。
いつかきっと――。
佐藤直史は、また大観衆のマウンドに立つであろう。
最後の晩餐。
勝っても負けても、試合前の最後の食事になる。
いや、どちらにしろ一度また宿に戻ってきて、一泊してから帰るのだが。
その程度の金は、セイバーに頼らずとも寄付金で賄える。
特別なことをする者はいない。ただいつも通りに食事をする。
明日の朝は少なめにと言ってあるので、ここで食い溜めをする者が多い。
宿の従業員に混じって、マネージャーや双子に瑞希までも、甲斐甲斐しく選手の世話をしている。
その中で選手に混じって、堂々とおかわりを頼んでいるイリヤが異色だ。
「なんか、細いからあんまり食べない派だと思ってた」
武史の疑問に、イリヤは答える。
「私、食べても太らない体質だから」
同じ体質の瑞希を除き、セイバーや早乙女までが、殺気を洩らした。
解散となって自由時間となるが、直史は暇を持て余す。
縁側に座って、晴れた星空を見つめる。
何もやることがない。
明日の試合、自分はただベンチから応援するだけだ。
いやキャッチボールをして、相手にプレッシャーを与えるという役割はあるか。
その隣に座る気配があった。これは、瑞希ではない。
かすかに香る、大人っぽい香水の匂い。
「なんか用か?」
イリヤに語りかける直史の言葉は素っ気無い。
「用というわけじゃないけど、感謝の言葉を伝えに」
今日のイリヤは、魔女モードではない。
「明日は投げられないのね」
「……誰から聞いた?」
「二人が、たぶんそうじゃないかって」
双子か。ならば他に洩れることはないだろう。
あの二人は本当に、イリヤを特別扱いしている。
「何も出来ないってのも、歯がゆいもんだよな」
「見ていればいいじゃない」
イリヤは言う。彼女は観客であり、応援する立場だが、それ以上に楽しむ者だ。
「見て、後に活かせばいいでしょう?」
「まあそれしかないか」
「私も……見てるだけだった」
その声に含まれていた色は、彼女にしては珍しい、おそらく悔しさと言えるものだ。
「途中から曲を書くの忘れて、雨でぐちゃぐちゃにしちゃってた」
「そりゃまた。でも俺のせいじゃないぞ」
直史はイリヤの横顔を見つめる。
大人びた、化粧栄えのしそうな顔。異国の血が混じっているからか、それともその精神の在り方ゆえか。
「あのさ、お前にとってタケはどう見えてるんだ?」
その問いに、イリヤは意表を突かれたようであった。
「武史が?」
「お前、ひょっとして、あいつのこと好きなんじゃねえの?」
「もちろん好きだけど、この好きの意味はLIKEじゃなくてLOVEよね?」
頷く直史に、イリヤはまた星に視線を向けて横顔を見せた。
「不思議な人」
「不思議?」
「ええ。鈍感なわけでもなく、むしろ鋭いのに、私の曲が届かない」
いや、届いてはいる。
届いてはいるのだが、武史はイリヤの音楽を、全て力に変えてしまう。
そんな人間とは、初めて出会ったのは確かだ。
「あ、イリヤー」
「珍しい組み合わせ」
「イリヤ、一緒に寝よう」
双子がやってきて、イリヤを連れて行く。
本当に、よくこの双子が懐いたものだ。
微笑を残してイリヤは去り、今度こそ直史は、一人きりで空を眺めた。
夏が終わる。
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