第47話 夏

 快音と共に白球が青空に軌跡を描く。

「おー、今日も飛んだー」

 ベンチでのんびりと呟く直史だが、その打球はスタンドを越えて場外に消えていった。

 何もそこまで飛ばすことはなかろうに。そうまで言いたくなるほどのホームラン。


 夏の選手権大会千葉県予選決勝。

 九回の表に、完全に試合を決める大介の満塁ホームランが、ついに放たれたのだ。

 応援おじさんのトランペットから、今日も威勢のいいスターウォーズのオープニング。

 いったいあの人はなんの仕事をしているのだろう?


 とりあえずこれにて、9-1とスコアは変わる。

「決まったわね」

 シーナはそう不敵そうに呟くが、当たり前のことを今更言っているだけである。

 本日の先発岩崎は、ここまで被安打五の一失点と、すばらしい投球内容である。

 球数を考えても、まず逆転の目はない。

 これからまだ逆転があると信じるには、トーチバの選手や監督は、彼我の戦力差を思い知りすぎているだろう。諦めを知らない三里と違って、彼らは常識の中で生きている。


「決まる時は、案外呆気ないものですね」

 セイバーは無感動に言った。これからの手続きなどは、もう今日は勝利するのを前提で、前倒し出来るものは全て前倒ししている。

 甲子園球場近くの練習場の予約などは、実は春季大会が終わった時点で抑えてある。

 宿は毎年千葉県勢が利用するところであるが、そちらに渡す食事メニューなども作成済みだ。

 面倒なお偉いさんとの窓口は、全て高峰がやってくれるだろう。

 校長も教頭も大喜びなので、そちらに任せてしまってもいい。


 とにかく、決まった。

 白富東高校は創立120年目にして、夏の甲子園の初出場を決めたのだ。

「あとは飲酒喫煙とか、問題が起こらないのを祈るのみですね」

 やめて、セイバーさん、フラグを立てないで。




 校歌が流れ、応援団に挨拶をする選手一同。

 応援おじさんは高らかに、ベートーベンの第九を吹いている。

 元気である。まさか甲子園にも来るつもりだろうか。


 色々と表彰式なども終わった後で、いよいよ胴上げである。

 もちろんセイバーは丁重にお断りしているので、生贄となるのは高峰だ。

 思えばずっと、野球部の顧問をしてくれていた。誰よりも感慨深いものがあるだろう。

 ついでにキャプテン手塚、勝利投手岩崎、最後のボールを捕球したジンと、順番に胴上げが行われる。

 おうおう、鬼塚も嬉しそうだのう、と思う直史は、丁重に胴上げをお断りした。

 変に手を引っ掛けて、故障でもしたらたまらない。


 そして今度はマスコミである。

 甲子園と違ってお立ち台はないが、勝利校も敗北校も、それなりのマスコミが群がる。

 特に全国的な注目校は、だ。白富東は春季大会を甲子園常連を立て続けに破って優勝した。センバツでは優勝した大阪光陰に負けたが、三点差以内で敗北したチームは白富東だけである。

 春から加わった一年生は、完全に主力となっている。打撃の柱が大介だけだったセンバツとは違い、150kmを打てる打者が二人以上いるのだ。

 ここまで春夏春の三連覇をしている大阪光陰を止めるとしたら、おそらくこのチームではとも言われている。

 これでスポ薦のない公立進学校だというのだから、話題性はばっちりである。

 ……本当に、よくもまあ選手が集まったものだ。


 その後も学校をあげて行われる壮行会など。なお大会中に体調を崩した直史は不参加である。珍しくお祭り男のアレクも、体調を崩している。

 もちろんこれは体力の回復も目的であるが、アレクが日本の夏に閉口しているのは本当だ。去年の夏の甲子園を見に行ったセイバーは、酷暑との戦いこそがむしろ大事なのではと考えている。




 外部への対応は完全に高峰に任せて、セイバーは各地に送ったスコアラーからの情報を分析していた。

 いや分析と言うよりはそれ以前の段階で、データの入力であったが。

 最新のトラッキング分析システムソフトを作って、データがそのまま統計に出るのだが、甲子園に出てくるチームというのは、頭のおかしな数値を持つチームがあったりする。

 全試合で二桁得点とか、レギュラー全員が50mを5秒台とか、投手が九人もいるとか。さすがに11人はいない。

 それでもまあ、甲子園に勝ちあがってくるチームの傾向は見えてくる。

「大阪代表は大阪光陰、っと。これで入力完了」


 天候での順延も含めて、七月中に代表校は全て決まった。

 戦力的に四強と言えるのは、大阪の大阪光陰、東東京の帝都一、愛知の名徳、神奈川の神奈川湘南の四校である。

 そのうちの二校に勝っている白富東が、なぜか四強に入らない。

 ベンチメンバーの全てを統計化したら、そうなってしまうのだ。

 一年を春の大会から使っていた白富東と、夏からようやく使い出した他の強豪との差もある。

 セイバーたちデータ分析班の仕事は、ここから異常値を出して、正確な分析を弾き出すことである。


 そんな中、志願してくる者もいる。

「俺を二番で使ってもらえませんか」

 鬼塚である。


 白富東の弱点とまでは言わないが、打線で迷う部分が二番打者である。

 今までは出塁率や小技を考えてジン、足の速さを頼みに手塚などを出していたし、倉田が入ったことなどもあった。

 そこへ鬼塚のこの台詞である。

「まあ、考えたこともあるんですけどねえ」

 セイバーは嘘はつかない。確かに鬼塚の二番というのは、考えたのだ。


 白富東の得点力の中心は、誰が言うまでもなく大介だ。

 大介をどう使うかで、得点力がそのまま上下する。


 あの、チーム内の紅白戦。

 ピッチャーが直史だったということもあるが、大介を擁しながらもチームは敗北した。

 使った敬遠は一回。だが直史は大介を、打ってもいい場面では打たせて、打たせたらいけない場面では封じた。

 大介の前に塁に出るバッターを持って来るか、敬遠された大介を帰すか、相手の戦略を慎重に見極めて打順は組まなければいけない。

 去年の夏、ある程度の消耗は覚悟した上で、直史を五番に入れていれば、おそらく勝てたはずなのだ。


「鬼塚君はバントの練習もしっかりしていて、とても頼りになる選手だと私も思っています。ただ相手がどう動くかを考えると、白石君の後に二人は、打率のいい打者が欲しいんですよね」

 大介は下手をすれば、満塁であっても敬遠される打者だ。

 それを帰すためには、その後の打順が重要になる。

「鬼塚君がどう思って二番を志願してくれたのか、私もある程度は分かっています。ただ私は鬼塚君を、四番で使おうかとも思ってるんですよ。ただし、バントもする四番として」

 大介を帰す。それを考えれば、いい打者が二人はほしい。

 倉田をスタメンで使えないのが、かなりもったいない。相手と点の取り合いをするなら、ジンではなく倉田を捕手で使ってもいいが、セイバーの想定する相手は大阪光陰である。

 守備に隙があるメンバーで勝てるとは思わない。

「頭を使って、点を取りましょう。そういう点では私は、鬼塚君には期待してるんですよ?」




 甲子園へ向かうのは、八月の二日と決まった。

 組み合わせ決定日が三日、開会式が六日で、それまでに公式練習がある。

 ごくわずかな時間で出来ることは少ない。もちろん体は動かすが、とにかく今は怪我に注意して、コンビネーションプレイなどを確認する。

 そんなある日の休養日。

 大観衆の中でも平然と投げる直史が、珍しくも緊張していた。

 場所は佐倉家。瑞希と隣り合って座り、正面には瑞希の父である孝博。斜め向かいには母である真由子が座っている。


 別に圧迫されているわけではなく、普通にニコニコと笑っている。既に何度も会ってはいるのだ。

 ただ今回違うのは、本来ならいないはずだった両親が、途中で帰ってきたのだ。

 何の途中かと言えば、二人が初めてディープキスをして、直史が服の上から瑞希のささやかな胸を揉んだ、その途中であったのだ。


 気まずすぎる。

 いくら直史が鋼の精神を持つとは言え、これはさすがに問題が違う。

 いや、さすがに今日で最後まで突っ走るつもりはなかったが、それでも。

 目の前の人が、将来自分の義父となるかもしれない。そんな気の早いことを考えながらも、直史は鉄面皮にわずかな愛想笑いを貼り付ける。


 一方の孝博の方も、ある程度は悟っていた。

 手塩にかけて育てた一人娘である。将来嫁に出す時は泣くだろうなと考えていた。

 一度は言ってみたい台詞の中に「お前に娘はやらん!」というものはあるが、直史は娘の結婚相手として完璧すぎる。

 背が高く、そこそこのイケメンで、学業も優秀で、スポーツに関しては言うまでもない。

 単純に朗らかとは言えない性格のようだが、誠実さは感じる。おべっかや嘘はつかない。

(あんまりスポーツマンらしい外見じゃないけど、まあ瑞希はこういうタイプが好みなんだろうな)

 妻からもかなりのプッシュがあるので、女同士では色々と喋っていることもあるのだろう。

 彼は妻を愛しているし、信頼している。




 直史は背が高いが撫で肩気味で、一見すると文化系の人間に見える。

 実際に話してみたところ、読書が趣味だという。山岡壮八の徳川家康は読んだことがあるのかと問えば、途中で止まっていると正直に言っていた。

 司馬遼太郎で盛り上がれる高校生男子、しかも野球部というのは、かなり珍しい人材だろう。

 それに将来性だ。

 直史は、プロ野球を志望していない。

 実はこっそりプロ野球選手に関する情報を調べた孝博であるが、あまり安定しているとは言えない職業だと分かった。

 プロ野球の球団は全国各地にある。もしも北海道だの福岡だのに行ってしまえば、遠距離恋愛にしろ瑞希がついて行くにしろ、正直なところ悲しい。

 そして一番唸らされたのは、将来は弁護士を目指しているという点だ。


 最初は彼女の親への愛想かと思ったが、瑞希は国家試験や司法試験の問題などを孝博にも教えてもらい、直史にもそれを渡しているのだという。

 大学に進学するならどこかと問えば、学力的にはなんとか東大に受かりそうだとまで言っている。

 しかしここに問題が一つ。

 直史は家庭の事情もあって、地元への進学を考えている。

 しかし瑞希は東京の大学を志望しているのだ。


 これは今年、二年生になって本格的に進路のことについて考え出して発覚したことだ。

 瑞希は直史も、東京の大学に行くと思っていた。

 究極的には東大だ。瑞希の場合は父の知り合いから、セキュリティのきちんとしたマンションも紹介してもらうところまで、話は進んでいる。

 だが直史には彼なりの事情がある。

 四人兄弟の長男で、下の三人の進学を考えれば、私立はもちろん下宿も避けたい。

 幸いと言うべきか、妹二人は奨学金が使えそうな成績だったが、それに加えて最近は給料を咥えてくる。

 だから武史の進路が問題なのだが、さすがに高校に入学して間もない彼に、そこまで今考える余裕はない。


 孝博には打算がある。もっとも、親としては当然の心情から出た打算だ。

 瑞希には、少しでも幸福になる可能性の高い男性と結婚してほしい。

 佐藤直史という少年は、少なくとも孝博の見る限り、個人として見るならそれに相応しい人間だ。

 出来れば大学は瑞希と同じところに行って、変な虫からも守ってほしいものだ。

 ……彼自身が狼さんになるのは、まあ諦めるしかないだろう。


 そこで孝博は思いつく。

「私立はどうだね?」

「私立はさすがに学費が――」

「いや、スポーツの特待生枠があるはずだけど」

 孝博も私立の大学を出ているので、そこはある程度知っている。

「私の母校はまあ、昔から変な特待生制度を取っていたし、有名人や有力選手を金を出して特待生にしていたから、おそらくそういうルートはあると思う。直史君さえその気があれば、ちょっと知り合いに聞いてみるけど」

 そういえば、瑞希の父の出身大学を知らない直史であった。

 瑞希が基本的に国立志望なので、てっきり東大だと思っていたのだが。

「すみません、どちらの大学だったんですか?」

「ああ、言ってなかったっけ? 早稲谷だよ」




 弁護士となるための前段階の司法試験。その合格者数を、ちゃんと直史も調べている。

 合格者数も合格率も、確か私立の中では慶応に続いて二位のはずだ。

「まあ野球部には入らないといけないだろうし、その中で在学中に試験合格を目指すとなると、よほど甲子園でいい成績を残していい条件を引き出さないと難しいとも思うけどね」

 また野球か。


 野球は直史の人生を変える。

 変えられるのが嫌なわけではないが、どうしてこう人生のターニングポイントに、野球が存在するのだろう。

 しかし、もし瑞希も早稲谷に入った場合、一緒にキャンパスライフが送れる。

 東京で、瑞希と。

 そのためなら甲子園で優勝を狙うのもやぶさかではない。

 とりあえず大阪光陰に借りを返すことを目的としていたが、大学負担で野球もやりながら瑞希と同じ大学に通えるなら、検討の余地は大いにある。


「まあ国家試験うんぬんまではともかく、なんならうちで実務を学びながら、弁護士を目指してみるのもいいんじゃないか?」

 瑞希は父の跡を継いで弁護士になると決めた。

 それは嬉しいのだが、ごく一般的な感覚として、普通に結婚もしてほしいと思っていた。

 直史は長男だが、まあ弟もいるみたいだし、地元の人間だ。嫁に出しても惜しくはない。

 それに婿殿が跡継ぎとなるなら、これは確実においしい。

 男の影が全く見えない娘のことは、安心しながらも同時に心配はしていたのだ。


 孫の顔が見たいというのはまだ早いが、この少年なら安心出来る。

 実は安心してはいけない人間なのだが、直史の人間としての破綻具合は、妹たちに比べればマシである。

「そうですね。野球でそれが可能なら、ぜひ」

「うん、じゃあ準決勝の録画でもまた見ようか。何回見ても嬉しいよね」

 孝博としては甲子園行きの決まった決勝がやはり感慨深いのだが、一番緊張しながら見ていたのはやはり準決勝だ。

 全国レベルの好投手吉村と、直史の投げ合い。見事以外の何者でもなかった。


 ぽちっとテレビをつけて、ビデオ操作をしようとする。画面に流れているのは、某メーカーの新しい車のCMである。

「あ……」

「あ~、流れ始めてるんだ」

 瑞希と直史の反応に、孝博はいったん操作を止める。

「ん? 車が何か?」

「ううん、このバックに流れてる音楽、直史君の妹さんたちが歌ってるから」

「へ?」




 世の中は、直史を中心に回っているわけではない。

 特にこれまでその傍には、超人的な双子の妹が存在していた。しかし今、その双子の妹をも巻き込む、巨大な才能が身近にいる。


 イリヤが歌を作っている。

 ようやく気付いたことなのだが、武史はイリヤの歌を聞いてから試合をすると、明らかにパフォーマンスが上がる。

 直史がむしろ、歌に圧倒されて疲れるのとは、真逆の反応である。

 音楽的な感性が鈍い方が、イリヤの音楽は効果的なのだろうか。


「え? 妹さんが芸能人なの?」

「歌は歌ってるけど、芸能人なのかはちょっと分からないです」

「双子なんだけど、入試も中間も期末も、ずっと成績トップだったんだよね?」

「あら~」

 それまで黙っていた母の真由子がここで反応した。

「この曲、Iriyaの曲よね? 私も好きだからCD買ったけど」

「あれ? お母さんイリヤの知り合いなの?」

「知り合いって言うか、普通に知ってるでしょ? 去年のプラチナディスク取ってたし。アメリカ帰りの天才だって」

「え?」


 直史も瑞希も、イリヤが只者でないことも、天才であることも知っている。

 しかしまさか、そんなに身近に知っている人がいるとは。


 うむ、なるほど。

 とかく世の中は、激動と出会いに満ちている。

 天才同士は引かれ合う運命にあるらしい。




 その後、瑞希は母から、アルバムにイリヤのサインを貰ってくるようにミッションを授けられた。

 まあそれぐらい、してくれるだろう。イリヤと瑞希は、野球部に関係している部外者として、それなりに付き合いがある。勉強が出来ないイリヤに対して、それなりに教えてあげたこともあるし。


 お宅を辞去する直史を見送るため、瑞希は玄関から出てきた。

「なんだか、色々なことがあるんだね」

「う~ん、高校に入ってから、本当に周りが騒がしいとは思う」

 あの日、あの時、あの場所で、シーナが直史を誘わなかったら。

 日本の野球界のみならず、音楽界も変わっていたということか。

 こういうのを、バタフライ・エフェクトと言うのだろうか。


 玄関の石段を一つ降りた直史の肩に、そっと瑞希は触れる。

 振り返った直史の唇に、瑞希はついばむようなキスをした。

 上手な、上手になったキスだった。

「甲子園が終わったら、続きをしようね」

 そう言った瑞希は何も言う隙を与えず、玄関の中に走りこんでいった。


 続き。今日の。

 まさか、これは欝フラグではあるまいな、と自分の頬をぺしぺしと叩く直史である。

「……よし」

 拳を握る。とりあえず目の前に、やることがある。

「俺の戦いはこれからだ。第二部、完」


 いささか錯乱している直史がそう言っても、人生は終わらない。

 短くて長くて、そして熱く激しい夏がやってくる。

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