第7話 斎藤
何故、存在しているだけで許されないのか。
周りと同じように、空気を読んで、求められればそれ相応に応えて。人間関係、そうやって無難に生きてきたはずなのに。
なのにいつからだろう。学校で用をたすことでさえ怯えないといけなくなって、妙な罪悪感に押しつぶされそうなまま、ひたすら下を向いて廊下を歩いている自分が出来上がっていた。そこまでして学校に通わないといけない理由って何だろう。
空気を読んで、人とはあまり関わらないようにすることにした。僕は、空気を読み過ぎたばかりに、存在が空気になってしまったようだ。
トイレから出る。手を洗う。顔を上げれば、情けない自分の顔が映った鏡を見せつけられる。これが現実だ、と言わんばかりに。
田辺達にやられた口角の傷が、昨日はなかった赤紫のあざに囲まれて、より痛々しく見える。かさぶたが気になって、そっと手で触れた。
弱肉強食──。
この言葉と同時に、家で絆創膏を剥がした時のこと思い出す。それに連鎖するように、それを貼られた時の、彼女の顔が浮かび上がった。
驚かされた時のように心臓が一拍強く鳴った。なんだか悪いことをしてしまったような気分になって、慌てて手を拭きながら足早に男子トイレから出た。
勢い余って人にぶつかる。
「あっ……」
「痛ってえな、この……」
「ご、ごめん! 」
よりによってぶつかってしまったのは高良あいなだった。女子の中でも絡まれれば一番タチが悪い。高良あいなは、続けて暴言を浴びせてくるかと思いきや、僕の後方で何か見つけて、黙り込んだ。それからすぐに僕をにらんで舌打ちだけすると、さっさと行ってしまった。
罵声を浴びる姿勢となっていた僕は、動揺して、だめ、なのに、困惑してつい後ろを振り返る。
そこには女子トイレに入っていくクラスメイトの椎名さんの姿があった。どうやら高良あいなは彼女の後を追ってトイレに入るようだ。
「なあ、椎名」
思った通り呼び声とともに女子トイレに入っていく高良あいな。声のトーンが低かったので、僕は直感で高良あいながあまり良くないことを企んでいると確信した。
椎名さんは、僕が言うのもなんだがクラスの中では可もなく不可もなく、親友と呼べるような間柄もいないがひとりぼっちでいるわけでもない。そんな感じの存在だった。
だからだろうか。高良あいながもしかするとストレス解消の対象に、椎名さんをいじめのターゲットに陥れようとしているのではないかと心配になった。
人の心配などしている立場でもなかったが、僕は無性に彼女達が何をするのかが気になって、気付かれないよう気配を殺して、トイレの裏手にある階段の壁へ張り付いて会話を盗み聞きすることにした。
「椎名さ。今度のイベントあんたもくるんだろ?マリィからチケット頼まれたんだけどさ。あたし、無駄にチケット手配すんの面倒なんだけど」
「え……」
「とぼけんなって。あんたがしつこくマリィにクラブ行ってみたいとかほざくから、仕方なくそう言ってんだろ。マリィが行くからってどこまでもついてくんなよ」
「別にそんなんじゃ……」
「いい加減察しろよ、腰巾着かよ」
高良あいなの傘下の女子達がクスクス笑う声が外にいても聞こえる。
ここからは見えないが、女子トイレ内には他の生徒によるトイレのドアの開け閉めの音も聞こえた。
笑い声が近く大きくなって、彼女達が外に出たのだとわかる。見つかったら殺されると思ったが、笑い声は僕とは逆の教室側へ遠ざかっていったので、ひとまず安堵した。
「椎名さん、どうしたの? 大丈夫? 」
トイレに居たらしい女子が、見かねて椎名さんに声をかけているのか。声だけでは特徴もなく、誰かまでは分からないような女子だったが、椎名さんを気遣うあたり、恐らく高良あいなをよくは思わない女子の中の一人だろう。
「別に……。てか、何が? あいつら妬んでるんだよ、自分がまりこと一緒にいられないからってさ。クラブだって別に私から言いだしたことじゃないし。まりこが誘うから行こうって話になったのに。だいたい、私、まりことは普通に親友だし、私とまりこの関係ってそんなんじゃないから」
──まりこ。
前回の席替えで、確かに二人の席は近くなった。でも、いつからそんな仲になっていたのだろうか。クラス内の動きには人一倍敏感であろう僕でさえ、椎名さんがそんなに仲が良かったなんて知らなかったのだからびっくりする。
そういえば、田辺たちに殴られた後に絆創膏を貼られたときも、椎名さんが近くにいたような気がしないでもない。
だがそんなことよりも、優等生で通っているあの彼女が、高良あいながいるクラブに出向くなんて、お節介にも心配になってしまう。
なにせ高良あいなには黒い噂が後を絶たない。オヤジ狩りに始まり援助交際じみたことや、最近は危険ドラッグなんていうヤバイものにまで手を出し始めたとか、田辺が仲間内と誇らしげに話していたのを聞いたことがあるからだ。その入手金のためにカツアゲだってされたのだから。
彼女が小悪魔的な笑みで、僕に絆創膏を貼った時のことが脳裏にリプレイされる。
弱肉強食──。
余計な心配かもしれないが、彼女が危険な目に会うのは嫌だな、くらいの気持ちしか、僕には浮かんでこなかった。
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