技術者【千古盛衰】
草壁葛
序
峠の話
濃霧が立ち込める峠道を、一人の男が荷車を引いて下っていく。
「急げ、急げぇ」
もうすぐ日が暮れる。赤く染まるはずの空は、いつものごとく霧のせいで全く見えない。
「全く、とんでもねぇ目に遭った」
悪態を吐いた男は、荷車を引く手に力を込める。
「酒を全部取られちまったよ。せっかく仕入れた上質なのも全っ部だ!鬼どもにやる酒じゃねぇってんのに。はぁ勿体ねぇ」
後方にそびえる山を振り向きかけ、──男は慌てて前を向いた。
「っとと、振り向いちゃいけねぇ」
千古の山には恐ろしい鬼が棲む。都はそんな山々に四方を囲まれており、田舎から都に行く行程は虎穴に入るよりも危険なものだった。
しかし、何にも例外はある。
都の東西南北を囲む山々はそれぞれ『
「……『ただし都で売る酒はない』って付け加えとくか」
他の行商達と同じように酒を差し出し、立ち去ろうとした時のことである。彼の前に、一人の鬼が立ちはだかった。
「……あの、まだ用があるんで?」
紅霞山の頭領【
「酒、まだあるやろ?」
耳元で囁かれ、背中の毛がぞわりと逆立った。手足が蝋で固まったかのように動かない。視界が明滅する。心臓が胸を破らんばかりに脈打ち始める。汗ばむ手を握りしめ鬼の顔を見上げると、落ち窪んだ目がきょろりと此方を向いた。
「ほれ、その荷の中からええ匂いがする」
じっと細められた金の瞳が頭に浮かび、男は思わず身震いした。ともかく五体無事、酒以外の品も手つかずだったのはありがたい。あとはこの霧の中を振り向かずに抜けるだけだ。
「日が暮れるまでに都に入らねぇと」
宿はもうねぇだろうなぁ、都で野宿かぁ、などと独り言を呟きながら、男は荷車を引いていく。
しばらく進んだと思った時である。前方に黒い影が見え、男は思わず立ち止まった。
「ん?」
大きな影はゴトゴトと音を立てながら、男の横を通り過ぎる。彼と同じく荷車を引いているらしい。
(俺と同じ行商の奴かな。もうすぐ日が暮れんのに都を出んのか?)
首を傾げながら、男は横目で影を見た。白い霧のせいで姿は全く分からない。
(都を追い出されたのかねぇ。可哀想に)
このご時世だもんなぁと再び前を向いた時、ゴトゴトと鳴っていた音が止まった。
(なんだ?)
じろじろと見ていたのが気に障ったのだろうか。いちゃもんでも付けられるかと訝しげに足を止めた男だったが、聞こえたのは────
「おお、誰かと思ったらお前かぁ!久しいなぁ!」
暫く会っていなかった友の声。予期しなかった再会に心臓が跳ね、飛び上がった男は思わず振り向いた。
「その声……おい、松之助か?こりゃあまた随分と懐かしい」
翌日のことである。
その道を通りがかった別の商人が、横倒しになった荷車を発見したという。野盗に襲われたかと思ったがどうも違うらしい。
というのも、荷は全くの手つかずで、死体はどこにも見当たらなかったのだそうだ。
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