閑話 論理の限界、また「概念」としての数学について

1. 自己言及のパラドックスについて

自己言及のパラドックスとは、「この文は偽である」という構造の文を指し、自己を含めて言及しようとすると発生するパラドックスのことである。

・なぜこのようなパラドックスが発生するか?

この解決案として、概念存在、事物存在の導入が挙げられる。


以下参照

閑話 ヒュームにおける事実判断、価値判断と概念存在、事物存在について - 水谷一志のエッセイ「クラインの壷」(水谷一志) - カクヨム (kakuyomu.jp)

閑話 概念存在、事物存在とゲティア問題について - 水谷一志のエッセイ「クラインの壷」(水谷一志) - カクヨム (kakuyomu.jp)


つまり、概念存在、事物存在は必ずしも一対一対応しているとは限らない。


2. 論理の限界について

ゲーデルの不完全性定理で示されているように、数学体系は絶対ではない。

さらに、論理体系もまた絶対ではない。

《証明》

論理体系が絶対であるなら、自己言及のパラドックスはそもそも存在しない。よって矛盾。

また、論理体系の絶対性は証明できない概念である。

《証明》

論理体系の絶対性を証明するためには、論理体系を用いる他に方法がない。したがって循環定義となるため、論理体系の絶対性は証明できない。


3. 「概念」としての数学について

ここで、以下のように定義する。

①観念…人間の精神、脳の中にあるもの

②事物…人間の精神、脳の外側にあるもの

③概念…観念、事物の中間的存在。つまり人間の精神、脳と物理的事物の中間にあるもの


結果、数学は③の概念である可能性が極めて高い。


《証明》

数学が③でなければ、①か②のどちらかである。

(i)数学が①の観念である場合

ここで思考実験を行う。

いわゆる「人間以外の存在」、例えば宇宙人は「数学」を発見することができるか?

もし発見することができる場合は、数学は①の観念ではない。

また、その可能性は極めて高い。


(ii)数学が②の事物である場合

ここで思考実験を行う。

「自然数1」を、人間はどのように「公理」として定めているか?

この公理を定めたのは人間である。また実際、生物、物理的対象に応じて、いわゆる「1」の考え方は様々である。細胞、素粒子、宇宙全体、それらの「物理的事物」のうちから「自然数1」をどのように設定するかは人間の恣意的な部分による所が極めて高い。


(i)(ii)より、数学は①②ではなく、③である可能性が極めて高い。


(しかし、上記の論理は完全な背理法の要件を満たしていないので「絶対に③である」とは言い切ることができない)

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