3:神秘の屋敷
湯原との得意先回りは、たびたび休憩をはさんでも昼過ぎには終わった。呉服屋が六軒と家電販売店が四軒、自転車販売店とエステサロンがそれぞれ一軒で、すべて小さな個人経営の店だった。車を走らせながら、湯原は諦めたように言う。
「着物も電気製品も、もう小さな店で買う人は少ないからね。年々、当社の割賦販売は減る一方だ。本来なら琴浦出張所は廃止だよ」
夏岡も同感だったが、あいまいに相槌を打つに止めた。
「ただ夏岡君、琴浦出張所には通常の業務以外に特別な仕事があるんだ」
車は出張所の前を通り過ぎ、丘に向かった。セメントで舗装された狭い道を中腹まで上っていくと、瓦屋根のある大きな門が現れた。その前で湯原は車を停めた。
「どうだ、この門だけで夏岡君が住んでいる長屋より大きいだろう」
湯原は中央の格子戸を解錠すると門をくぐり、夏岡を招き寄せた。目の前には純和風の屋敷が、二人を威圧するかのように建っている。
「ここが当社の創業者が生まれ育った屋敷だよ。特別な仕事とは、ここの庭と創業家の墓所の管理だ」
夏岡は絶句した。こんな田舎に飛ばされた上、庭師や墓掃除までさせられるのか。親にも妻の真知子にもそんなことは言えないと思った。
湯原は慰めるように言う。
「心配しているようだが、庭木の手入れは業者に依頼するから大丈夫。週に一度でいい、草を抜いたりごみを拾ったりしてきれいにすればいいだけだ。それでも敷地は三百坪あるから、一日仕事だね。先週は黒猫の死骸があって大変だったよ。
夏岡にとっては、あまり想像したくない光景だった。
「墓はここから上ったところにある。丘のてっぺん近いが、残念ながら海は見えない。そこは月に一度行って、掃除をすればいいだけだ。ただ墓石が二十ばかりあるので、ひとりだと半日かかるな」
夏岡はますます気落ちした。それを知ってか知らずか、湯原は語った。
「この屋敷は築二百年以上らしい。創業者は戦前から高利貸しをしていたが、戦後まもなく信販会社を設立し、大阪に打って出て今の規模にまで育て上げた。ただこの屋敷への愛着はものすごかったようだ」
創業者は取り立てが厳しく、血も涙もない人物だと伝えられているが、必ずしもそうではないと湯原は言った。自分が琴浦町にいた時に人生を狂わせた人の名簿を作り、その子や孫が困窮しているようなら自社で採用するように取り計らわせたという。
「創業者は因果応報ということを信じていらっしゃったのかな。採用に特別な枠があることは内緒だよ。実は琴浦出張所の業務のひとつは、その名簿に載っている人の子孫が経済的に困っていることがわかったら、本社に報告することだ。ただ我々は探偵じゃないから、積極的に調べたりはしないがね」
それが判明するとしたら、ハープ信販への支払いが滞った時くらいだろうと湯原は付け加えた。夏岡は、ぼんやりと野沢由紀のことを思い浮かべていた。彼女が異例の採用をされたのは、その名簿に掲載された人の子孫だったからではないか。しかし湯原は、名簿には野沢姓はないと断言した。
「その女性のことは、前任の所長が知っていたかもしれない。でも訊けないな。前任者は去年、定年直後に亡くなったからね。さあ、出張所に帰ろうか」
湯原は、門の所まで来ると大きく背伸びした。
「さて明日はこの庭の草取りと掃除をするから、汚れてもいい服装で出社してください。ただし長袖、長ズボンで。蚊に刺されるかもしれないのでね」
翌日も快晴で、朝から日差しが痛いほどだった。湯原は麦わら帽子をかぶり作業服を着ていたが、夏岡は野球帽にトレーニングウェア姿だった。出張所の一階の倉庫から熊手や塵取りをはじめ、さまざまな物を取り出し社用車に積んだ。
湯原がエンジン式の草刈り機を持ち出してきた時は、さすがに夏岡も口をあんぐり開けた。
「そんな物まで要るんですか」
湯原は笑った。
「屋敷の周りはこれを使う。今日は使い方を教えてあげるよ」
屋敷に着くと二人は早速、ゴム手袋をはめ草むしりを始めた。作業をしながら湯原は夏岡に声をかけた。
「一週間どころか三日もすれば、どうせ草も生えてごみも出るんだが、手を抜かないようにね。たまに創業家の方がお見えになるそうだ。私はお会いしたことはないが、少しでも荒れていると渋い顔をされるという噂を聞いたよ」
「そうですか。家の中は掃除しなくていいのですかね」
「中には入らせてもらえない。多分、創業家の皆さんできれいにしているんだろう」
「ついでに我々に掃除させたらいいようなものですよね」
急に湯原は声を潜めた。
「創業家の方々は迷信深くはないようだが、本気で創業者が家の中にいらっしゃると思っているらしい」
「まさか」
その言葉とは裏腹に、夏岡は汗が一気に引いていくような感覚を覚えていた。無人のはずの家に誰かがいるような気がしてくる。
「幽霊ですか」
自ら口にした言葉で、夏岡の背筋に寒気が走った。彼は霊界など信じておらず怪談も笑い飛ばす
湯原は少し考えて答えた。
「霊とか人魂とは、ちょっと違うようなんだよ。庭木の剪定をしている業者も、この庭にいると家の中から誰かに見られているようだと言っていたが、
家残りとは琴浦町の言い伝えで、人の強い思念が生家と一体になって残り、子孫や深く恩に感じた人を導いたり窮状から救ってくれるのだという。夏岡は首をひねり、それよりは多少なりとも現実的な答えを口にした。
「もしかして創業者は、本当は生きていらっしゃるのではありませんか」
湯原は首を振った。
「だとすれば百歳は、かなり超えているね。そこまで生きるのは不可能じゃないが、私は葬儀の手伝いをしたんだよ。この上に墓もあるし。それに生きているのに亡くなったこことにするのは、ひどく難しい上に理由がないよね」
夏岡もうなずいた。
「そうなるとゾンビになっているとしか言いようがないですね」
湯原は引きつったような笑みを浮かべた。
「幽霊よりありえないよ。ちょっと休憩するか」
二人は、庭のはずれの東屋に向かった。屋敷は裏手が崖で、三方は高い土塀で囲まれており外は見えない。けれども東屋は石積みの上にあり、瀬戸内海を一望できた。
「いい眺めだね。でも今日は特に暑いな」
二人は、汗をぬぐいながら長椅子に腰を下ろした。湯原は景色を堪能しながら、大きな水筒から喉を鳴らして水を飲んでいる。夏岡も持参したペットボトル入りのスポーツ飲料を口にしたが、もう温くなっていて甘みをしつこく感じた。次は保冷箱に入れて持ってこようと思った。
湯原が腕時計を見た。
「まだ
夏岡がうなずくと、湯原はからかうように言った。
「ひとりじゃ、気味が悪いかな」
夏岡は手を振った。
「僕は怪奇現象など信じていませんから大丈夫です。ただ恥ずかしいことに家の中に妙な気配は感じました。多分、所長のお話を耳にしたせいでしょうが」
湯原は真剣な表情になった。
「私も気配は感じていたよ。家残りの話が本当なら、創業家の方はハープ信販が難しい局面にある時に、ご先祖様に相談しに来られているんだろうね。このところ景気も良くないし規制が厳しくなって、当社も大変な時期だから、これからたびたびお見えになるかもしれないね」
その後、強いて悪戯っぽく付け加えた。
「おそらく誰かが見ているなんて思い込みに過ぎないだろうが、そのせいで庭掃除も水撒きも、いい加減なことができないんだよね」
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