3:泡沫候補の選挙戦
春菜が二年生になった年、新聞部は男女合わせて七人の新入部員を迎えた。渋川英明が中学の後輩に声をかけまくっていたらしい。部はさらに活気づき、春菜はどんどん記事を書いた。
夏休み明けに
けれども実際に葬儀が行われると知り、それが現実に起こったことだと悟ると春菜は声をひそめて泣いた。葬儀は平日の日中だったので生徒は誰ひとりとして参列できない。藤城が部員から香典を集めて持参してくれることになった。職員室の片隅で春菜は一万円を出すと、藤城に耳打ちされた。
「福井さん、高校生なんだからこんなに出さなくていい。他の人は三千円だよ」
とうとう春菜は我慢できなくなって嗚咽をはじめた。
「先生、あの人のためにできることは、これくらいしかないんです」
春菜は思わず英明をあの人と呼んだことを後悔していた。藤城はすべてを察して、黙って一万円を不祝儀袋に入れた。
数日して春菜は英明の実家に弔問に訪れようと思い立った。しかし遺族が迷惑がるような気がして躊躇しているうちに時期を失してしまった。墓参も考えたが、墓所の在り処がわからないまま時は流れていった。
春菜は三年生になった。部を退くことも頭をよぎったが、新聞部でたったひとりの最上級生ということで、それを言いだせないまま部長を引き受けた。自分には荷が重いと感じていたが、断ることなどできそうになかった。
その年は女子ばかり三人が入部した。まずは彼女たちにいろいろと教えなくてはならない。その上に印刷屋や生徒会との折衝も加わり、精神的にせわしなくなった。
志望校は決められないままだった。何をしたくて何が向いているのか、いまだにわからない。春菜は愛嬌や愛想が欠けているのは自覚していたので、普通の会社勤めは難しいのではないかと自分では思っていた。少なからず焦りを覚えていたが、どうしていいかわからない。方向性が定まらないので、勉強にも身が入りそうになかった。
新学期がはじまってしばらくして、琴浦町議会選挙が告示された。定数十五名に対し十八人が立候補していた。春菜は選挙には興味がなかったが、たまたま学校帰りに立候補者のポスターを見て息が詰まった。その中に渋川ヒデアキという名前があったのだ。亡くなった渋川英明と名前の読みは同じだ。
もしかして彼は生きているのではないかと非現実的なことを考えたが、すぐに春菜は首を横に振った。そもそも二十歳で立候補できるはずがないし、ポスターの写真は高齢者のものだった。頭はきれいに丸刈りにしていて顔には皺が見える。照れ笑いをしているような、ぎこちない表情だ。最近は写真の修整技術が発展しているのだから、少しは見栄えを良くすればいいのにと彼女は率直に思った。
翌日の朝刊に選挙公報が折り込まれていた。渋川ヒデアキは本名は秀明といい、今年七十歳だった。無所属で何の後援団体もないらしい。琴浦町で生まれ琴海高校を卒業後は名古屋の紳士服卸の会社で働き、昨年秋に帰郷して農業を営んでいるとある。あまりに凡庸な経歴だった。
選挙公約は「不要なため池の廃止」「若者の定着を促進する奨学金制度の創設」「町の出来事を後世に伝える仕組みの構築」だった。どれも春菜にはぴんと来ない。おそらく誰にとってもそうではないだろうか。
春菜の予想は当たった。登校すると教室で同級の男子たちが爆笑していた。
「昨日、禿げた爺さんが自転車で来てね、拡声器を握って近所の畦道で演説をはじめるんだよ。町議員に立候補したのでぜひ一票をと」
「渋川ヒデアキという人だろ。作業員みたいな恰好で
「背広くらい着て、車を借りればいいのに。拡声器も運動会で使うタイプだろ。ださいよな」
「泡沫候補ってやつだよ。ボランティアもいないのかな」
「ため池がどうとか、悲惨な出来事がどうとか、わけのわからないことを言ってたな。悲惨なのは自分だろ」
「でも町として大学進学者に返済不要の奨学金を出すというのは、いいんじゃないの」
「あれは新卒で琴浦町に帰ってきた場合だけ返さなくていいことにするんだって。こんな町に帰る奴なんか、ほとんどいないよな。仕事がないもの」
そこで担任が姿を見せたので揶揄の嵐は終わった。
春菜が昼休みに校庭に出ると、かすかに渋川ヒデアキと名乗る声が聞えてきた。続いて何かを熱烈に訴えているようだが、うまく聞き取れない。その場の状況は見えなかったが、おそらく男子生徒らが囃し立てたように聴衆がいないのだろうと想像できた。実に気の毒な気持ちになり、自分だけでも聴いてあげて主張を記録しなければならないという使命感が湧いてきた。渋川ヒデアキは、英明の親戚か祖父ではないかと思ったのだ。
放課後、春菜は図書室で藤城に相談を持ちかけた。渋川ヒデアキを取材させてほしいと言うと、藤城は眉をひそめた。新聞部は幅広く取材するが、選挙運動は対象から除くという不文律があった。生徒を選挙違反となる行為や政治団体の勧誘から守るためだ。春菜はそれを承知の上で藤城に平身低頭した。
藤城は春菜を椅子に座らせた。
「福井さん、なぜ渋川ヒデアキ氏を取材したいの」
「ユニークな選挙運動をされているという噂なので」
藤城は少し厳しい口調になった。
「下手をすれば渋川氏を嘲笑うことになるよ」
春菜は恥ずかしかったが、本当のことを言おうと決心した。
「あの人と読みが同じ名前なんです。血がつながっている方かもしれないと思ったんです」
藤城は首を傾げて考え込んだが、しばらくして口を開いた。
「なるほど。それにしても完全な個人的理由だね。一応は校長先生にお伺いを立ててみるが、返事は明日まで待ってほしい。くれぐれも自分だけの判断で動いてはいけないよ。選挙の世界にはいろいろな落とし穴があってね、福井さんがまずいことになるかもしれないし、反対に渋川氏に迷惑をかけることになるかもしれないからね」
彼女はうなずいた。
翌日、春菜は藤城に図書室へ呼び出された。
「校長先生と協議したが、やはり新聞部員としての取材は許可できないということになった」
春菜はひどく落胆したが、見ると藤城の目が笑っている。
「ただしだ、これから伝える条件を完璧に守れるなら、個人としての接触は我々は関知しない。いいかい、黙認ではなく関知しないだ。そこを誤解しないように」
条件とは厳しいものだった。まず渋川ヒデアキとは偶然に出くわした形にし、取材を断られたら素直に引き下がること。取材は選挙運動の最終日である土曜日の日中だけにすること。自宅が選挙事務所のようだが電話をしたり訪問しないこと、また関係者には接触しないこと。ヒデアキと飲食を共にしたり、おごったりおごられたりしないこと。寄付や応援演説などもってのほか。その他、十数項目だった。
次いで藤城は言った。
「悪いが退部届を書いてくれないか」
少し浮かれた気分になっていた春菜は、心臓が止まるかのような衝撃を受けた。慌てて藤城は付け加える。
「選挙が終わったら部に戻ってきてもらうよ。それまでは福井さんは新聞部員ではないということにしておきたいんだ」
少し抵抗はあったが、春菜はその提案を受け容れた。そして両親には選挙が終わってもヒデアキのことは絶対に言うまいと思った。
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