第77話 とある昔話⑥

 早いもので、小学校入学から半年が経過した。途中、「れん」が突如思い立ってサッカーを始めたり、学校でちょっとしたいざこざが起こったりもしたが、親に大きな心配をかけるようなこともなく、涼音たちの学生生活は進んでいる。


 


「みーせて」


 


 もはや当然のように上がり込んでいる「れん」の部屋で、涼音は両腕を伸ばしながら懇願した。そんな彼女の膝の上には本日配布されたばかりの通知表があって、そこには様々なアルファベットが踊っている。


 こんな風に目に見える形で他者から評価を下される機会は、これまでほとんどなかった。ゆえにその新鮮さは刺激に飢えた童子を熱狂させ、配られるや否やクラスのあちこちで評定の比べ合いが始まっていた。涼音はそれに参加しながらも、内心ではずっと、「れん」は大人からどう見られているかが気になって仕方なかった。


 


「構わないけど」


 


 ランドセルに手を差し入れて、「れん」は涼音の前に校章が箔押しされた二つ折りの厚紙を置く。それきりなにも言わなかったので好きにして構わないのだと判断し、中を覗いた。


 


「うわぁ」


 


 国語も算数も理科も社会も、細分化された項目の一つだって漏らさずにA評価。涼音もかなり良い成績を残した方だと自負していたが、とても「れん」には敵わない。


 もっとも、「れん」が他の同級生よりずっと勉強ができることなど、前から知っている。だから涼音が知りたかったのは、それ以外だった。


 


「うわぁ」


 


 同じ声ながら、トーンはまるで異なっていた。勉学で輝かしい成績を残す傍ら、『生活』の項目において、惨憺たる結果が覗いていたからだった。特に生活への関心・意欲という項目は酷い有り様で、文句なしの最低評価となっている。別枠に記入されている担任教師からのコメントも異様で、「非常に落ち着いていて学業の理解も他の子にないものがあります」と一旦は上げて、けれどそこから「しかしながら~」から始まる「れん」の問題行動一覧が延々と羅列。そこにはグループワークで一切言葉を発さないことであったりだとか、泣かせてしまったクラスの女の子に頑として謝ろうとしなかったことだとかが綴られていて、担任が「れん」の扱いにこれでもかと頭を悩ませているのが一目でわかる。涼音のものと比較しても、書き込みの量がちがい過ぎるのだ。


 


「なんか、すごい」


「社会はA判定だそうだ。これだけ文句が付いているのに」


「…………?」


 


 「れん」の皮肉を完全には理解しきれなかった涼音だったが、彼がそこまで目の前の紙きれにこだわっていないのは感じ取れた。どこか達観して、吹っ切れてしまった雰囲気が前々から「れん」にはある。その独特な世界観は、正直なところかなり魅力的に映った。学校の誰もが先生を絶対のものとして信奉する中で、彼だけがそのルールに縛られていない。涼音にはどう頑張っても、そんなことはできない。


 


「でも、本当にいいの?」


「なにが?」


「だってこれ、うそだもん」


 


 とんとん、と担任のコメントを指先でつつく。まるで彼が非業の限りを尽くす怪物かのように書かれたそれは、実のところ若干の脚色が否めなかった。まあ、ここぞという場面で地蔵のように口を閉ざしてしまう「れん」にも責任の一端はあるのだけれど。


 


「まちがってなんかいない。学校において教師は絶対で、彼女らがそれは白だと主張すれば黒も赤もみんな白なんだ。だからこれは正しいよ」


「言ってることがむずかしい」


 


 けれども、卑屈になるときだけ饒舌な「れん」を見るのはあまり嫌いではなかった。日頃あれだけ無感情なようでいて、しかしきちんとなにかを思って生活しているのだというのがわかるからではないかと涼音は考えている。「れん」は機械なんかではない。それを知っているのは、先生まで含めても学校では涼音一人だけ。どういうわけか、それが少しだけ誇らしい。


 


「なにが面白いのさ」


「だって、おこってる」


「…………」


 


 表情にほとんど変化はない。でも、「れん」は今、確かに怒りをあらわにしている。彼は涼音と同じく血の通った人間で、涼音と同じように喜んだり怒ったりする。半年がかりにはなったが、近頃は時折、そういう顔を見せてくれるようになった。


 


「わざわざここにこんなことを書くってことは、遠回しに父さんや母さんを非難しているのと同じなんだ。……それが、やるせない。せめて、僕がもう少し……」


「じゃあ、こうしちゃおっか」


 


 涼音は悪い笑みを浮かべて、自身のペンケースを漁った。そこから取り出したペンを構え、そのまま――


 


「はい、はなまる。たいへんよくがんばりました」


 


 コメントなんか見えなければいい。だから、そこに被せて大きく真っ赤な花丸を描いた。涼音はいつの間にか心情的に「れん」の側に立っている。彼の両親がどんな人か知っているし、彼が不器用ながらに家族を大切に思っているのを知っている。その人たちが傷つくのはなにも面白くないから、こうしてしまえばいい。


 


「これは……」


 


 「れん」はしばらく呆気に取られて、しかしそこから立ち直ると。


 


「……上手だ」


 


 そう言って、珍しく表情を綻ばせた。いつだかぶりに見せる、年相応の笑顔だった。


 


「でしょ?」


「ああ、最高」


 


 涼音にとって初めての、権威への反抗。胸がどうしようもなくドキドキ跳ねて、けれど罪悪感や後味の悪さはない。――本人さえ気づいていないがその胸の高鳴りには他の構成要素も含まれていて、それが今後、彼女の人生の進行方向を決定づけることになる。


 だが、当人にそんなことを知る由はない。悪事を共有して笑う時間が、その一瞬においては、まちがいなく永遠だと思っていた。

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