第4話…悔恨と慟哭…

 夢をみている。沖田慎吾の妻、葉子と、娘の芽衣が暗闇の中で抱き合い、彼女たちのいるところだけが光っていた。

 葉子は喪服を着ている。芽衣は母親の肩をしっかりと握りながら、ぐったりと眠っていた。葉子の顔は、ここからは見えない……。斜め後ろにいるここからは、葉子の左耳の裏が見えるだけだ。

 ここ?フラウは首をかしげる。こことは、ここは、どこだ?自分の夢の中だということだけは何となく理解しているが、ただの夢にしては、あの葉子と芽衣の姿は現実の匂いが強く、まるで、暗闇というフラウの夢から、現実にいる葉子と芽衣の日常を覗き見ているような感覚がした。

 椅子に腰かけている葉子……豪華でも質素でもない椅子には、見覚えがある。あれは、沖田慎吾の実家のダイニングテーブルの椅子だ。そうか、葉子と芽衣は今、慎吾の実家にいるのか。

 葉子は泣いているのだろうか?それとも、ただ疲れた顔をしているだろうか?

 どうにかして、彼女たちに手が届かないだろうか……せめて、声だけでも。そう思って、懸命に声を張り上げる。妻と娘の名前を力いっぱい呼び続けた。

 体は動かない。だから、喉がガサガサになるまで、妻と娘の名前を呼び続けたが、とうとう彼女たちがこちらを振り返ることのないまま、その姿はどんどんぼやけていった。

「…………っ」

 大きく息を呑み、フラウは目を覚ます。少しは見慣れた天蓋が、ぼやけている……涙のせいだ。動悸が酷い。耳の中にまで、心臓が鼓動を打つ音がドンドンと響いている。とてつもない恐怖に支配されていた。

 これほど怖いと感じたのは、子どもの頃に修学旅行で広島に行った際に、原爆資料館を見学して以来だ。だけど、あの時の立ち尽くしたまま一歩も動けなくなるような恐怖とは、また違う……心臓の半分を失ったような、激しい喪失感という恐怖は、未だかつて経験したことがないものだった。

 ゆっくりと体を起こし、フラウは自分自身を抱きしめた。

 違う……自分は、沖田慎吾ではない。沖田慎吾の記憶を有してしまった、フラウ・カースタ・オブリヴィオンなのだ。もう、あの場所へ帰ることはできない……それなのに、どうしてこんな酷い夢を見せるのか。

 フラウは、フェミニスの神、シドゥズ・デエイを呪った。

 今も、葉子と芽衣は、あそこで沖田慎吾を喪った悲しみに打ちひしがれているのだろうか?慎吾の実家は……確か、父はすでに他界しており、年金生活の母と弟夫妻が同居している。あの家で、葉子は幼い芽衣を抱えて、肩身の狭い思いをしていないだろうか?

 考えても仕方のないことばかりが頭に浮かび、フラウの両目からは新しい涙があふれ出した。


〇 〇


 なぜ、あの日……夜遅くに出掛けたりしたのだろう?あんなことさえしなければ、慎吾は妻子を残して若く死ぬこともなかったろうに。よくも、乳飲み子を抱えた妻を、夜中に、一人きりで家に放置して酒など飲みに出掛けられたものだ。

 フラウとして生まれ変わった今なら、それがどれほど冷酷な行為だったのかよく分かる。ケレプスクルムア王国では、ほとんどの場合、育児をするのは父親の仕事だ。フラウも妹のフルーティマも、父と、父の補佐をする侍従たちに育てられた。

 母親は、産後1年は“出産休暇”で体調を整えることに専念するが、公爵である母はベッドの上で公務を行っていたらしい。貴族であるがゆえに、平民ならば保障されている休暇を半ば返上して働いていた。

 そして、公爵夫である父にも、あらゆる仕事がある。家の中では、公爵邸の男主人として全ての采配を振るう役目を担っているし、社交界ではオブリヴィオン公爵夫として“社交”という名の静かな闘いもしなければいけない……男として大忙しななかでも、父は睡眠時間を削りながら自分たちを育ててくれたし、そのことに、公爵である母はいつも感謝の言葉と行動を怠りはしなかった。

 女性は命懸けで子を産む…現に、フルーティマを産んだとき、母は出血が多すぎて死にかけた…当然、どれほど母子ともに健康に出産が終わっても、母親は体力、気力、精神力、その全てを使い切った状態で、回復するまでには時間がかかる。とてもではないが、育児をできるような状態ではない……だから、夫である男が行う。それは、至極当然のことだった。

 そんな父の献身が、沖田葉子と被る……。しかも、葉子は“母親”なのだ。出産をしたのは彼女なのだ。つまり、生物としてのありとあらゆる力を使い果たしたあとに、赤ん坊の育児もしていたわけだ。

 毎日、2時間おきにミルクを上げて、寝かしつけて、オムツを換えて、また寝かしつけて、またミルクを上げて……24時間、これの繰り返し。もちろん、すんなりミルクを飲んでくれる子だったらの話、すんなり寝てくれる子だったらの話である。これを、出産直後に葉子はやっていた。

 沖田慎吾は朝8時に家を出て、帰宅するのは夜の7時。帰宅してから、育児を“手伝って”はいた。オムツを換えたり、寝かしつけたり、ミルクを上げたり。当たり前に、外で働いている自分のほうが妻より忙しいし、疲れていると思っていた。

 それなのに、育児を手伝っている自分は良き夫だと思っていた。

 だから、あの日……帰宅したときに、家の中がきれいに掃除されていなくて、夕飯ができていなくて、葉子は寝間着のままでスッピンで、芽衣は泣いている……その状況で、慎吾はあからさまに不機嫌になり、黙って夕飯をこしらえ、黙って風呂の用意をし、黙って部屋を片づけ、芽衣を寝かしつけた。

 葉子は『ありがとう、いろいろやってくれて。……ごめんね、仕事で疲れてるのに』と、疲れ切った顔で感謝と謝罪をしてくれた。それなのに、慎吾はビールを煽りながら、冷たく『あのさ、1日中家にいて、何やってたの?パジャマのまんまでさ……もっと、しっかりしろよ。大人なんだから』と、言った。

 その瞬間、葉子の顔色が、ス……と変わり、蒼白になったかと思った次には、真っ赤になり、見開いた両目から涙が、ダーーーと、あふれ出し、奇声を上げて激昂した。


〇 〇


 とにかく謝りつづけ、宥めつづけ、なんとか落ち着かせ、でも、葉子は最終的に一言も口を聞いてくれなくなった。

 さすがに慎吾も腹が立ち、夜中に一人で家を出た。二度と帰れなくなるなんて、知りもしないで……。沖田慎吾は、少しも良い夫ではなかった。妻と娘をちっとも大事にしていなかった。いつだって、自分のやりたいことを…仕事も含めて…優先した人生だった。

 フラウは……深淵の中にいた。それなら、次の人生はそんな男にはならない、常に自分を優先するような身勝手な人間にはならない……と、そう単純に決心することもできないでいた。

 そこまで、まだ沖田慎吾の人生を過去のものとは割り切れない。そして、そんなふうに“簡単に決心”することもまた、残酷で身勝手だと強く感じていた。

 フラウの中には、未だに強く沖田慎吾としての記憶が……そして、妻である葉子と、娘の芽衣のことが、残っているのだ。こんな状態で、別人として生きるしかないだなんて……。

「お坊ちゃま?」

 深淵の中に沈んでいたフラウは、突然かけられた声に、はっ……とした。

 顔を上げると、目の前にフィデリスが不安げな顔で立っていた。手には、銀のトレーがあり、ティーカップが1脚、乗せられている。かすかに湯気が上がっていた。

「フィデリス……ああ、ごめん……気づかなかった」

 読んでいた詩集を腹に置き、フラウは私室のカウチで横になっていた。しかし、眠っていたわけではなかったのだが、部屋にお茶を持ってきてくれたフィデリスに気づかなかったようだ。彼の思慮深い茶色の瞳が、主人であるフラウを見下ろしながら揺れていた。

「お坊ちゃま、恐れながら……そろそろ、ご準備を」

 準備?

 一瞬、フラウの頭に?マークが浮かぶが、すぐに思い出した。そうだ……今日は、フラウの婿入りの日。朝は家族で普通に食事をとり、少し心を落ち着けたい……と言って、自分の部屋へ引きこもっていたのだ。しかし、どうやら時間が来てしまったらしい。

「こちら、ハーブティーでございます。少しでも、お坊ちゃまの気持ちを和らげられたら、と……おれ」

 フィデリスはどこか思いつめた顔でトレーをローテーブルに置くと、カウチから半身を起こしていたフラウに抱きついた。

「フィー……」

 囁くように、その名前を呼ぶフラウ。

「フラウ様っ……」

 フィデリスもまた、フラウのことを『お坊ちゃま』ではなく、名前で呼んだ。フラウはフィデリスの逞しい背中に手を回し、強く抱き返した。


〇 〇


 フラウと侍従のフィデリスは幼なじみであり、フィデリスのほうが5歳年上で、親友であり、兄のような存在でもあった。

 貴族の居城や邸宅に使える使用人たちには、きちんとした階級がある。大きく分けて、上級使用人と下級使用人だ。大貴族であるオブリヴィオン公爵の領地にある、それも、居城に使える上級使用人ともなれば、大抵は、そのもの自身が貴族の令嬢や令息だった。

 侍従であるフィデリスも、男爵家の長男だ。しかし、男であるがゆえに爵位継承権がなく、行儀見習いとして少年の頃にこの居城へ来た。

 フィデリスの両親からすれば、オブリヴィオン公爵家の居城で勤めているあいだに、どこかの貴族令嬢にでも息子が見初められることを願っていたようだが、今のところ、フィデリスの心にあるのはフラウへの忠誠心と友情だけだ。

「フラウ様……もし、お辛いことがあれば、すぐに私にご連絡ください。王宮だろうと何だろうと、このフィデリス、すぐに駆けつけますからね」

「ありがとう、フィー……大好きだよ」

 フラウの口元に、思わず笑みが浮かぶ。例え、それが限りなく不可能に近いことであったとしても、すぐに駆けつける、と言ってくれたフィデリスの気持ちが嬉しかったし、とても心強く感じた。

「……今朝の夢は、ご成婚に関することですか?それとも……」

 いったん体を離し、フィデリスが尋ねてきたことに、フラウは静かに頭(かぶり)を振る。今朝、フラウが恐ろしく悲しい夢のせいで恐怖に震えていたところに、いつものようにフィデリスが起こしに来てしまったため、彼には悪夢をみたことがバレてしまった。

 フラウはフィデリスが淹れてくれたお茶に手を伸ばしながら言った。

「前世の……家族の夢をみたんだ。地球にいる家族の姿を」

 フィデリスが淹れてくれた薬草茶は、ちょうど飲み頃の温度だ。心身ともに緊張がほぐれる温かさと、ジャスミンに似た香りに、ホッ……と息を吐く。フラウの足の近くに腰かけたフィデリスは、少しうつむきながら『なかなか、消えてくれませんね。前世の記憶……』と、憐憫(れんびん)の含まれた声で言った。

 そう言われ、ふと、フラウは考えた。

 自分は、忘れてしまいたいのか?それとも、忘れたくない……ずっと、覚えていたいのか?

 最初に医者が言っていたとおり、フラウとしての18年間の記憶はじょじょに回復し、今ではほとんど支障はない。だが、母が言っていた“緩やかに戻っていく”という言葉を思い出し、フラウは……自分でも、理由の分からない不安に駆られた。

 戻っていく……ということは、沖田慎吾の記憶は、じょじょに……消えていく、ということ。葉子と芽衣のことをきれいさっぱり忘れる、ということだ。


〇 〇


 昼になる少し前。フラウは、両親と妹のフルーティマ、そして、慣れ親しんだ使用人たちに見送られ、生まれ育ったクレイペウス城を出発する準備が整った。

 供は侍従であるフィデリスと、従僕の青年が二名。護衛官が五名。車は自動運転だが、何か不測の事態が起きたときのために運転手が一名。総勢十名での旅だ。目的地は王都・モールテムにある王宮、サンクトゥス・ヌーバス宮殿。まず、自動車で飛行船の停泊港まで行き、そこから飛行船で半日かけて王都へ向かう……沖田慎吾の記憶を得たフラウにとっては、初めての外出だった。

 ……恐らく、余程の理由がない限り、もうこの地へは戻ってこられないだろう。そのことをフラウ自身だけでなく、両親も、まだ幼い妹も理解している。フルーティマは出発する兄の腰に抱きつき、しばらく離れなかった。

 いかないで、とも、いってらっしゃい、とも言わず、ただ無言で抱きつき、兄の青空色のジャケットを握りしめていた。そんな妹を抱きしめ返し、頭を撫でていると、フラウの口から思わず本音が飛び出してしまった。

「……結婚なんてしたくない」

 両親は小さく息を呑み、周りにいる使用人たちは複雑な顔をする。なかには、すすり泣く女性の従僕や、無言でうつむく男給仕もいた。

「フラウ・カースタ・オブリヴィオン。こちらへ来なさ、…」

「閣下」

 厳しい顔で息子の名前を呼び、恐らく窘めようとしたのであろうオブリヴィオン公爵を、夫であるエスト公爵夫が止めた。このようなことは滅多にないことで、公爵本人だけでなく、使用人たちも静かに驚く。自分の言葉を遮った夫を少し怪訝な顔で見た公爵は、エストの真剣な表情に小さく肯き、大人しく引き下がった。

 エスト公爵夫はフラウに近づき、抱きついているフルーティマの肩を優しくつかんで『レティ……』と声をかける。父に促され、フルーティマは名残惜しそうに、ゆっくりと兄から離れた。最後にフラウの顔を見上げ、涙が張った目で懸命に笑顔を作り、母親の元へ駆けていった。

「フラウ……」

 エストは息子の両頬をふわりと包み、穏やかな声で言った。

「よく聞きなさい、フラウ。お父様はいつだって、フラウの味方だ。何があっても、お父様が君を守る。だから、もし……もし、本気で、フラウが結婚したくないなら、お父様と逃げよう」

 父、エスト公爵夫の顔からは、いつもの悲しげな微笑は消え失せ、フラウが今まで見たことのないほど悲壮だった。その目には強い決意が宿っている。普段は妻である公爵に従順な夫であるエストの、人としての本質的な強さが、確(しか)と映り込んでいた。

 だからこそ、フラウは父の提案に、肯くわけにはいかなかった。


〇 〇


つづく

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