三十四粒目 未来への落下

 ――足立の想定した緊急事態。それは、消防隊の到着が遅れること。そしてそれは現実のものとなっていた。付近でトレーラーの横転事故が起きたせいで道が塞がれ、消防車が足止めを食らっていたのである。


 火元であるビル二階では既に黒煙が充満。煙が降りてきた一階も同様。通常の方法での脱出は困難。消防隊の到着を待つ余裕があるかもわからない。となると、残された手段はひとつ。窓から飛び降りることだ。


 しかし、何もないところへ飛び降りたのではそれこそ本末転倒、命の危険がある。現在、香達が池袋を奔走しているのはそこに理由があって、つまり彼女達は着地に備えて緩衝材となるものを用意しようとしていたのである。


 馨がビルに入ってからもう十分以上が経過する。役に立ちそうなものが見つからず、香が一旦ビルの前まで戻ってくると、ちょうど足立、島津と合流する形となった。


「足立さんっ、島津さんっ! そっちは見つかった?」

「ダメだ。クッション、マット、カーテン……思いつく限り当たってみたが、見つからない」

「俺も。今のところ使えそうなものは、なにも……」


 三者、空振り。香の方にもアテが無かったのだろうと、影の落ちる彼女の表情で理解した足立は、「なかなか難儀な状況だね」と息を吐く。


 沈む雰囲気。暗い沈黙。


 ――なにも方法がないわけじゃない。まだ、なにか、きっと――。


 脳細胞を総動員させたその瞬間、香の頭にキラリと光るアイデアがあった。


「……ねえ。足立さんたちのお店のわたあめを使うって、どうかな?」

「……つまり、わたあめを大量に作って、クッションの代わりにすると?」

「そゆこと」


 再び、沈黙。一瞬の間を置き、足立は大きく声を上げて笑い出す。無理もない。それはあまりに荒唐無稽過ぎた。


「いやいや。ありがとう、長瀬さん。そのメルヘンな提案のおかげで緊張が解けたよ」

「ちょ、ちょっと! わたしは本気で――」


「待った」と声を発したのは島津である。考え込むように眉を眉間に寄せる彼は、思わぬ言葉を続けた。


「長瀬さんの〝メルヘンな提案〟、もしかしたら使えるかも」





 ふたりのカオルがいる五階にも、いよいよ黒煙が迫ってきた。熱気にも尋常ならざるものがあり、肌に滲み出てくる汗は十秒と持たずに乾いて消える。


 少しでも新鮮な空気を求め、床に這いつくばって顔を伏せる馨は、美緒の口元に手を当てた。まだ息はあるが、弱まっていることは間違いない。この子にも、そしてもちろん自分達にも、残された時間はもう少ないと……命のカウントダウンがはじまっていると、ふたりのカオルは理解していた。


「……ねえ、カオルくん。ごめんね、わたしのせいで」

「お姉さんが悪いんじゃありませんよ。俺が好きでやってることです」

「でも、このままじゃ、わたしたち――」

「なに弱気なこと言ってるんですか。絶対に帰るって、約束したじゃないですか」

「うん。でも、ごめん」

「……お姉さん。未来に戻ったら何やりましょうか」


 急な馨の問いかけに、香は答えることができずに固まった。それでも彼は構わず続ける。


「俺、お姉さんと一緒に行きたいところがあるんですよ。服屋です。俺、ファッションとか全然わからなくて。夏はまだいいんですよ。Tシャツ着てればいいだけですから。でも、冬とか秋が大変で。だから、イイ感じの服、選んでもらえませんか?」


 ――そっか。カオルくん、わたしを元気付けようとしてくれてるんだ。バカじゃん。自分だってギリギリなのにさ。こんな目に遭ったのだって、わたしのせいなのにさ。本当、バカだよ。


「……高いよ、わたしに頼むと」

「もちろん、夕飯くらいおごります」

「冗談。いいよ、タダで。その代わり、わたしからもお願い」

「はい、俺に出来ることなら、なんでも」

「ずっと、わたしと一緒にいて。〝道連れ〟とかなんだとか、そういうのは関係なく、ずっと」

「そんなお願いなら大歓迎です。お姉さんといると、毎日毎日、忙しいくらいに楽しいですから」


 ――……ああ、よかった。笑われなくて。ああ、よかった。カオルくんと出会えて。


 意識が身体と乖離していく。景色も音も曖昧になる。全身が泥と化していくかのように動かなくなってくる。〝死〟がふたりの首筋に両手を這わせた――まさにその時、「カオルくーん!」と輪郭のぼやけた声が外から聞こえた。


「カオルくーん! 窓! 窓から飛び降りて!」


 それは、〝外側〟の香の声。


 五階から地表への距離は20メートルを超える。生身の身体が飛び降りてどうこうなる高さではない。それでも、馨は立ち上がった。生きて帰るという約束を果たすために。


「信じるの? わたしの言葉だよ?」

「もちろんですよ。だから信じるんじゃないですか」

「……痛い目に遭っても知らないんだから」


 笑って答えた馨は最後の力を振り絞って美緒を担ぎ上げ、わずかに見える光だけを頼りに窓に歩み寄る。窓枠に足を掛ければ、顎を殴られたように世界が揺れた。あと一歩なのに、あともう少し前に体重を掛ければいいだけなのに、その程度があまりに遠い。


「……カオルくん。ひとついい?」

「……はい、どうぞ」

「……好きだよ」


 その言葉が彼の背中を力強く押した。足裏に力を込めてぐらりと前に倒れれば、宙に投げ出された身体は重力を受けて自由落下していく。


 やがて全身を襲う衝撃。まぶたの重さに耐えかねて目を閉じる直前、馨の視界に映ったのは大きなくまのぬいぐるみだった。

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