三十二粒目 変わらぬ未来

 時刻は午後の五時過ぎ。『A train』での仕事も無事に終わり、バックヤードで帰り支度を進めていた馨は、ふと大きなため息を吐いた。慣れない環境での仕事に疲れたというのもあるが、なにより大きな理由は別にある。というのも、火事を防ぐという目的を果たしたにも関わらず、香共々未来へ戻れないのである。


 バイトの休憩時間中、この現象を〝外側〟の香へ相談したところ、彼女はコーヒーを飲みながら「だったらこっちで暮らせばいいんじゃないの」というあまりに身も蓋もない答えを放り投げたものだから、ふたりのカオルはそろって「えぇぇ」と間延びした声を上げた。


「だって、戻れないんでしょ? それならそれでいいんじゃないの」

「いやいや、よくないですよ。俺の中にはお姉さんがいるんですよ」

「すぐに慣れるでしょ」

「慣れませんよ! トイレとか、今の時点でいろいろと大変なんですから!」

「そりゃ今は大変だろうけどさ、いつかは大丈夫だって。道連れでしょ?」


 こういった彼女の気ままかつ無責任な発言を、〝内側〟の香は「他人事だもん。さすがわたしってカンジ」と評価した。


 さて、かなり遅めの昼休憩を取るブラザー室藤へ帰る旨を伝えた馨が、控室からフロアへ出ると、カウンター席に座って携帯を弄っていた〝外側〟の香が「お疲れお疲れ」と彼を軽めに労った。


「どうする? どっかで夕飯でも食べてく?」


 ふたりのカオルが一体になったこの状況で、のんびりと夕飯を食べることができるほど、馨は豪胆な性格をしていない。「いや今日は」と断りかけたその時、「おやおや、奇遇だね」とふたりに声をかける人がいた。カオル達にとって聞き馴染みのあるその声の主は足立、彼女の背後に構える大男は島津である。


「しかし、私達には不思議な縁があるようだね。なにかにつけて顔を合わせているような気がするよ」

「だねぇ。狭いもんだねぇ、世界って」と香は感心したようにしみじみ言う。

「もしくは、私達が広い世界をわざわざ狭めて生きているだけかもしれないね」


 笑いながらそう言って、香の隣の席へ腰を落ち着けようとする彼女のことを、島津は「足立さん」と恥ずかしそうに言って引き留める。「ああ、悪いね」と受けた彼女は、落ち着きかけた腰を再び浮かせ、島津に聞こえないよう声を潜めて言った。


「本当はもっと語らいたいところだが、今日は彼が私を〝貸切る〟予定でね。申し訳ないけど、失礼させてもらうよ」


 なるほど。交際は順調らしいと、窓際のテーブルへ向かうふたりを馨が横目で見ていると、〝内側〟の香がクスリと笑い、「お似合いだね、あのふたり。美女と野獣ってカンジで」と茶化した。馨は声には出さないものの、大きく頷き彼女の意見に同意した。


 それから、結局その日は真っ直ぐ帰ることに決まり、三人は共に店を後にした。


 駅への道中、「もしかしたら、本当に一生このままかもよ?」と、〝内側〟の香は冗談っぽく呟いた。「勘弁してくださいよ」と笑いながら答えつつも、馨が半ば本気で今後の人生を憂慮していると、〝外側〟の香がふいに「あ」となにか思い出したような声を上げた。


「どうされました?」


「忘れ物、ほら」と香は自らの頭を指す。たしかに、朝から被っていたカンカン帽が無くなっている。


「ごめん、カオルくん。取りに戻っていいかな?」

「構いませんよ、行きましょうか」


 もう間近に迫った池袋駅に背を向けて、元来た道を戻っていく。空は未だ明るく、空気は気怠さすら感じるほど温い。馨の少し先を行く〝外側〟の香は、明後日の方向へ視線を投げながら「ねえ」と彼に声を掛けた。


「カオルくん。もし、カオルくんの中にずっとわたしがいるままだったら、どうする?」

「困りますね、シンプルに」

「だよね。じゃ、もしそうなったら一緒に暮らす?」


 核弾頭級の破壊力を持つ発言に、馨の足は思わず止まる。まさかそんなことあるわけがない、ただの聞き間違いだろうと、平静を装い歩き出そうとした彼の足首へ、「中にいるわたしにとっても、慣れた環境で暮らす方がいいでしょ?」と二の矢が放たれる。


 身体中の血液が身体を昇ってきて、馨の顔は途端に真っ赤になった。急激に水位を上げてきた動揺の水により、陸で溺れかける彼をちらりと見た香は、「ウソウソ。冗談だって。カオルくん、顔赤すぎ」とケラケラ笑う。


「なにわたしにいいようにやられてんのさ」と内側の香は彼を責めたが、純な高校生に先のような冗談を受け流せというのも無理な話である。


「やっぱり、カオルくんをからかうのは楽しいねぇ」


 皮を剥く前の茹で卵みたいに煮立った頭を、頼りない夏風でなんとか冷まそうと、無心で過ごす馨の視界は、ゆらり天へと昇っていく白い線があるのを捉えた。『A train』の方角だ。


 ――まさか。


 頭に過ぎる嫌な予感。逸る思いに突き動かされるまま脚を動かす。外側の香の「ちょっと!」という声も構わず進む。全身を揺らす鼓動。必要以上に身体を伝う汗。


 ……やがて脚を止めた馨は、嫌な予感が現実のものであることを知った。


 彼の視界に映ったのは、無慈悲かつ無尽蔵に白煙を噴き上げるビルだった。





 ビルの周囲には携帯のカメラを構えた野次馬が大勢集まっている。まだ消防車は到着していないらしい。建物を舐めるように眺めれば、あちこちの窓が割れ、白い煙が噴き上がっているのが見える。


 未然に防いだと思っていた火事が発生してしまった。つまり、未来は変わらなかった。となれば、これから訪れるはずの誰かの死も避けられないものなのだろうか。


 ――待てよ。つまり、足立さんと島津さんが――。


「……ふたりが、危ない」


 内側の香のか細い呟きに弾かれる形で、馨が思わずビルへと駆け出そうとしたまさにその直前、「おーい」と声を上げながらふたりのカオルの元へと駆け寄ってくる影があった。足立、島津の両名である。


「ふ、ふたりとも! 無事でしたか!」

「見ての通りね。そんなに焦る必要はないさ」と答える足立はいつもと変わらぬキザっぷりである。安堵したふたりのカオルは、揃って深い息を吐く。


「しかし、どうして戻ってきたんだい?」と馨へ訊ねたのは島津だ。


「あ、いや。お姉さんが帽子を忘れまして」

「そりゃ大変だ。でも残念だけど、諦めた方がいいかもね」


 眉間にしわを寄せた島津は煙に包まれつつあるビルを見上げる。


「二階のゲームセンターで、電気系統にトラブルがあったみたいでさ。なんだかわけがわからないまま火が回って、あっという間にこの感じだよ。まあ、避難するのは楽だったけど」

「しかしおかげで夕食を食べ損ねた。いまに私のお腹が機嫌を損ねるぞ」


 皮肉な笑みを浮かべた足立は自らの腹を撫でる。同時にぐぅと空腹の虫が悲鳴を上げた。本来ならば赤っ恥の場面にも関わらず、足立は「ほらね」とあくまで爽やかである。


 ともあれ、ふたりの死は回避した。「一件落着でいいのかな」と、内側の香が懇願するように言ったその時、「離して!」と心まで痛くなるほど悲痛な叫びが辺りに響いた。


 青ざめた顔をした三十代ほどの女性がふたりの男性に腕を引かれる形で抑えられている。どこか見覚えがあるなと思えば彼女は、池袋中を逃亡した少女、西島美緒の母親である。


 嫌な予感が身体中を蠢く気配を覚えた馨は騒動へと急ぎ歩み寄り、「どうしました?」と声をかける。すると、彼女を引き留めている男性のうちひとりが、馨へうんざりしたような顔を向けた。


「いやね、この人の子どもが――」

「美緒がいないの! どこにも!」


 男性の説明を遮る形で叫んだ彼女はさらに続ける。


「一緒に出てきたはずなのに、どこにもいないの! 中に戻ったのよ! ぬいぐるみを忘れたから! だから、探しにいかなくちゃいけないの!」

「落ち着きなさい。もうすぐ消防も来るし――」

「手遅れになったらどうするのよ?! 離して! ……もうわたしから、これ以上なにかを奪わないで……!」


 そうか――と、馨の頭に理解が広がる。それと同時に「そのまま抑えていてください」と呟いた彼は、ビルに向かって歩み出す。そんな彼の肩を背後からぐっと掴んで止めたのは、遅れてやって来た〝外側〟の香だった。


「カオルくん。まさか、行くなんて言わないでよね」

「行きますよ。誰も死なせないためにここまで来たんですから」

「そこまでする必要あるの? たった一回会っただけの子なんだよ?」

「ええ。たしかに、たった一回会っただけの子です。普通だったら、たぶんこんな無茶な真似しようとしません」

「だったら――」


「でも、たった一回会っただけの子が亡くなっても、俺の知ってるお姉さんは、きっとそれを自分のせいだと思ってしまいます。自分が未来を変えたせいで、また人が死んだって、そう思ってしまいます。だから行くんです、俺は。美緒ちゃんだけじゃなくて、お姉さんの心も救うために」


 馨の肩から手のひらの温かみが消えた。振り返らずに「行ってきます」と呟いた彼は、ビルに向かって駆けだした。

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