二十六粒目 能力の喪失

 翌日。今日の天気は夏らしくない曇天。天気予報によれば雨は降らないとのことだが、じっとりと湿った空気は肌にまとわりついてくる感じがある。このように不快指数が高い日は人間以外もうんざりするのか、蝉の鳴く声もしない。


 そんな日にも関わらず、香はスキップみたいな軽い足取りで空の下を歩くほど上機嫌だった。あまりに浮かれているようではあるが、無理もない。今日の彼女には日々の〝ノルマ〟が無かったのだから。


 今朝、いつものように自分の未来を確認するためにアポロチョコを食べた香が見たものは、〝無〟だった。はじめのうちは何かの間違いかと思い何粒か立て続けに食べたものの、何も見えない。とうとう一箱消費したものの、やはり同じ。これはいよいよ、枷でしかなかった自分の能力が消えたらしいと考えた彼女は、興奮して「よっしゃー!」と拳を突き上げた後、笑いながら涙をぼろぼろこぼした。


 現在、香が向かっているのは喫茶店『しまうま』。もちろん、馨にこのことを報告するため。彼女の格好が青いワンピースであるのは、馨が〝道連れ宣言〟をしたその日の服装に合わせたためである。


 ――カオルくん、わたしの能力が消えたって聞いたらどんな顔するかな? 〝道連れ〟にもう用は無い、なんて言ったら慌てちゃうかな? もしかしたら泣いちゃうかも、なんて。


 ……いやでも、あの子はカッコつけのところがあるから、意外とシレっとしてるかも。でもとにかく、まずはありがとうだよね。散々お世話になってきたわけだし。


 そんなことを考えているうちに、香は『しまうま』へ辿り着いた。時刻は十時二十分。いつも開店時刻の前に着いていたことを考えれば、やや遅いといえる。


 扉を押せば真鍮製ベルのいつもの音。この時間の平日だと店に客がいないのもいつものこと。しかしその日の店の雰囲気はなんだか静か過ぎるくらいで、すぐに飛んでくるはずの「いらっしゃいませ」の声もなかなか届いてこない。


 半ば指定席と化した角のボックス席を選んで座った香は、ふと馨と出会ったばかりのことを思い出す。そういえば、あの子にわたしの能力について打ち明けたのもこの席だったかもなんて、なんの気無しに思い出に浸ってみたその時、ひげが特徴的なマスター室藤がキッチンの奥から現れた。なんだかやけに顔が青白く、いかにも体調が悪そうだ。風邪でも引いたのだろうか。


 香はマスターへ「おはようございます」と手を振る。


「カオルくん、遅刻ですか? まったくダメですねぇ。お給料カットですよ」


 調子のいい彼女の軽口に、マスターは「いや、違うんだ」と答えて俯く。


「彼はもう、いないんだ」

「ええ? 急に辞めちゃったんですか?」


「亡くなったんだ」


 時間が凍る。言葉を失った香へ、マスターは自らを納得させるようにもう一度だけ呟いた。



「亡くなったんだよ、事故に巻き込まれて」






 窪塚馨は確かに死んだ。昨日の昼、時刻は二時過ぎ。手伝いに向かったレストランで火事が起こり、有毒ガスを吸い込みすぎたせいだ。


 この事件は新聞や朝のワイドショーに取り上げられた。死者数もたった一人だけであることに加え、同日に起きたトレーラーの横転事故の方が絵的に派手であったことも手伝い、記事の大きさでいえば四方5センチ。ニュースの長さでいえば三十秒にも満たない程度ではあったが。


 知らせを受けた香の頭は真っ白になった。「嘘でしょ」だとか、そういった安っぽい言葉すら出てこなかった。ふらふらとした足取りで家に帰った彼女は、ベッドに飛び込み、ただ無為に朝と夜が過ぎるのを待った。色も感情もない日々は時間すら曖昧であった。


 数日経つと、どうやって住所を調べたのかはわからないが、馨の葬儀の通知が家に届けられた。


 久しぶりにパジャマ以外の服に袖を通し、豊島区内にある葬儀所へ向かえば、喪服姿の人よりも制服を着た高校生の数の方が多い。中には大粒の涙をこぼしながら声を押し殺して泣いている人もいる。「なんだよ、結構友達多いじゃん」と呟いた瞬間に涙が出てきそうになって、香は慌てて目頭を抑えた。


 芳名帳に名前を書き、香典を渡し、みんなと並んで椅子に座ったところで、二度と動くことはない馨の姿を見る気になれず、香は席を立って式から抜け出した。


 家に帰り、冷凍庫の奥に眠っていた冷凍炒飯を炒めて食べて、シャワーを浴び、ベッドに倒れ込んだところで、今日まで我慢していた涙がとうとう溢れ出てきた。


 涙を流せば彼の死を認めたことになる。彼の死が本物になる。「やめろ、やめろ」と彼女は何度も唱えたが、止まる気配はない。泣き疲れて寝て、起きて、ふとした時に馨の顔が思い浮かんで、また泣いた。



 どうしようもなかった。

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