二十三粒目 甘い誘い
怪しげな占い師の元を去った後、馨は香を探して雑踏の中を歩いていた。しばらく通りを歩いたが見つからず、「どこまで行ったんだ」と呟きつつ携帯を取り出して連絡を取ろうとしたところで、酒場の軒先に出ている屋台でハイボールを呷る香を発見した。ジョッキに口を付けたままグイと傾け、炭酸のはじける液体を喉へと流し込むその姿は、まさにやけ酒である。心配になった馨は彼女へと歩み寄り「お姉さん」と声をかけた。
「お、カオルくん。ゴメンゴメン、先行っちゃって」
「いいんです。それより、占いなんて気にしない方がいいと思いますよ。あの占い師さん、明らかに胡散臭いですし」
「わかってるって。もう大丈夫」と笑った香はツナギの袖で口元を拭う。酒を呑んだはずなのに、彼女の顔はなおも青白い。
「よっしゃ、本格的に幽霊捜しだ。カオルくん、手分けして情報収集だよ」
「本当に大丈夫ですか? 無理そうなら今日はやめておいた方が――」
「平気。未来を現実にしなかったら、そっちの方が具合悪くなるし」
馨の言葉を遮った彼女は笑顔で親指を立てる。空元気を振り絞っているのは、馨からすれば一目で明らかだった。
「じゃ、なんかあったら連絡ヨロシク。わたしは適当に、近所の神社とかお寺とか周ってみるからさ」
「……無理しないでくださいね」という馨の呟きは雑踏の中に混じって消えた。
香とその場で別れた馨は、幽霊の目撃情報を求めて近隣の店を巡った。「幽霊なんて見つかるはずもない」と適当にならず、必死になって店員や客から話を聞いて周ったのは、香の体調を心配してのことだ。今の馨にあるのは〝道連れ〟としての使命感ではなく、一刻も早く彼女を帰らせてあげたいという思いやりの心ばかりだった。
五件も店を周ったが、当然、幽霊の情報などあるはずもない。それでもめげずに目についたインド料理店で話を聞こうと、馨が扉に手をかけたその時、店の扉が逆側から開かれた。店から出てきたのは、島津・足立のわたあめ屋コンビ。本日二度目の遭遇である。
馨の顔を見た足立は、たいして驚いている風でもなく「おや」とにこやかに手を挙げる。
「まさか、同じ日に別の場所で二度目の遭遇を果たすとはね」
「これはまた奇遇ですね。おふたりは何をしてるんですか?」
「お察しの通り、デートさ」とウインクした足立を、島津は「こ、こら、足立さん」と恥ずかしそうにたしなめた。
〝イイ感じ〟の雰囲気は、見ているこちらが恥ずかしくなってくる。馨がどこか居心地の悪さのようなものを感じていると、足立が「それで」と話を振ってきた。
「君は祭りをひとりで楽しんでいるのかい?」
「いえ。お姉さんと来ているんですが、ちょっとした用事で、別行動してるんです」
「用事、ねえ……」と意味深長に語尾を伸ばした足立は、探偵風にあごを指でつまむ。間を空けてしまうと下手な詮索されてしまうような気がして、馨は慌てて話を逸らしにかかった。
「そ、そういえば、おふたりは、ここの辺りで幽霊を見ることができる場所って知りませんか?」
ふたりは顔を見合わせ、「幽霊?」と上がり調子の声を合わせた。
「急な話だね。なにかあったの?」と訊ねたのは島津である。
「お姉さんのリクエストなんですよ。幽霊が見たいんですって」
「なるほど。そりゃまた大変そうだなぁ。足立さん、知ってる?」
「いや、申し訳ないが心当たりはない。そもそも、祭りの夜に幽霊を探そうというのがなかなか難儀だとは思うけどね」
案の定の答えに「そりゃそうですよね」とがっくり肩を落とした馨へ、足立は「まあまあ」と微笑みかける。
「これでも食べて元気を出すといい」と彼女が取り出したのは、馨にとっては馴染みであるアポロチョコの箱だ。
「子どもの頃を思い出すだろう? 射的の屋台で当てたんだ」
足立はビニール包装の封を切ってふたを開き、自分の手のひらに数粒乗せて食べた後、残りを箱ごと馨へ手渡した。
「残りは君にあげよう。たしか、長瀬さんも好きだったはずだ」
「ありがとうございます」と素直に受け取った馨は、箱を傾けてチョコを手のひらに取り、いつもの味を、いつものように口の中へ放り込む。
軽い食感を奥歯で噛んだその瞬間、彼はまるで時間が逆転したような激しい目眩に襲われた。
〇
気づくと、馨は神社の境内にいた。正面には見覚えのある立派な鳥居が見えて、雑司ヶ谷にある鬼子母神堂であることを彼は理解したが、なぜここにいるのかはわからない。ほんの少し前まで周囲を取り囲んでいた喧噪は遠く、虫の鳴く声が聞こえてくるばかり。光源となるものが周囲に無く、背の高いイチョウの木が闇夜に染まった葉を揺らしながら、バケモノのようにこちらを見下ろしているのが恐ろしさすら感じられる。
ここがどこで、いつ、どうやって、やって来たのか。
本来であれば抱くべき疑問を馨が塵ほども考えられなかったのは、頭が割れるように痛んだせいだ。気を抜くと意識が弾け飛びそうな状態にもかかわらず、足は勝手に動き出す。
――なんだか、昔にも似たようなことがあった気がする。母さんに勧められて、生まれてはじめてアポロチョコを食べた日も、こんな感じで、頭が痛くて、意識が朦朧として――。
身体は意外にも真っ直ぐと進み、やがて境内にある手水舎まで至る。本能が水を求めているのだろうと、馨が身体の操縦桿を手放せば、いよいよ上半身ごと舎へ乗り出した。
――頭を、冷やせば、きっと、楽になる。
朦朧とした意識の中、鼻先が水に触れるまさにその直前、馨は思わず飛び退いた。目前まで迫った水面に映っていたのが、自分ではなく香の顔だったからだ。
慌てて辺りを見回したが誰もいない。「お姉さん?」と呼びかけても返事は無い。よほど驚いたおかげか、頭を真っ二つに割るほどの頭痛も嘘のように立ち消えた。
「どうなってんだ、こりゃ」と思わず声に出して呟いた馨は、本殿へと続く短い階段へ腰掛け、いったい自分に何が起きたのか考える。彼の脳裏に過ぎったのが、先ほど足立から貰ったアポロチョコである。思えば、アレを食べた時から記憶が飛んでいる気がする。
ポケットを探れば、チョコの箱が収まっている。それを取り出した馨は、恐る恐るふたを開いて匂いを嗅いだ。いつも通りの人工的な苺の香りが漂うばかりで、とくに異常はなさそうだ。今度はひと粒舌の上に乗せて味を確かめる。こちらもやはり異常はない。いよいよ奥歯の方へ舌で押し込み、思い切って噛みしめたその時――。
どこからともなく「カオルくぅん」と弱々しい声が聞こえてきた。それに続けて暗がりからにゅっと現れたのは、全身びしょ濡れ、泥だらけ、黒髪がべったり顔に張り付いた女。
――もしや、幽霊!?
理解の瞬間、堪らず「うわうわ」と情けない声を上げた馨は腰が抜けて動けなくなったが、よくよく見てみれば何てこともなく、その正体は香である。
なんとか立ち上がった馨は、彼女へ持っていたハンカチを渡しつつ訊ねる。
「な、なんですか。どうしたんですか、いったい」
「道歩いてたら車が水たまりはねてさぁ、それが顔にかかってさぁ、その拍子にバランス崩して転んだ先がまた水たまりでさぁ、立ち上がる前にまた別の車が通って水たまりはねてさぁ。もう散々」
「……たしかに、散々ですね」
香は「でしょ?」と答えつつ、手渡されたハンカチで顔や髪の毛を拭く。
「それで、情報は集まった?」
「いやいや。それよりもまず、その幽霊みたいな恰好どうにかした方がいいですって」
「幽霊?」
首を傾げた香は手水舎へ歩み寄り、水面に自分の顔を映した。「うへぇ」と素っ頓狂な声を上げたのは、まさかそこまで酷い状態だとは夢にも思っていなかったのだろう。
「というか、まさかその自分の恰好を見て、『幽霊を見た』って勘違いしただけじゃないですよね?」
「いーや違うね。アレは絶対ホンモノの幽霊!」と香は言い切ったが、何か思うところがあったのか、「仕方ないか」と諦めたように息を吐く。
「帰って着替えて、それからホラー映画でも観て、それでよしとするかな」
「ええ、そうした方がいいと思いますよ」
「ん、そうする」と頷いた香は真面目な表情を馨へ向ける。
「てことで、アレだ。カオルくん、ウチ来る?」
突拍子もないその提案に、馨は金槌で頭をぶん殴られたような衝撃を受けた。
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