八粒目 お姉さん
七月三十一日。時刻は午後の二時を回ったころ。野暮ったい空気を逃がさぬよう、曇が空に蓋をしている。一歩進めば額に汗が滲み、二歩進めば足取りが重くなり、三歩進めばもう嫌になる。先ほどから遠雷の音が絶えず聞こえており、間もなく降りだすであろう雨に備えて、道を行く人は皆そろって早足である。
その日、長瀬香は近所の『サミット』へ歩いて向かっていた。今日の彼女は買い物に行ったところを雨に降られて濡れる予定だ。
――なんだか、最近は雨に塗られてばかりだな。あんまり好きじゃないけど仕方ない。
そんな風に思う彼女の今日の恰好は青いワンピース。二年前になんとなく気に入って買ったのに、一度しか袖を通していない一品。今日のように汚れる予定がある時、彼女はどうでもいい服を選んで着るようにしている。
『サミット』の付近までやって来ると、彼女は駐輪場に見知った顔があることに気が付いた。ふしぎなカフェ店員――窪塚馨である。待ち合わせしている風にスマホを片手にフェンスに寄りかかる彼は、ワンポイントのTシャツにハーフパンツと、いつもと変わらぬ飾り気のない恰好をしている。
あの子って、いつもおんなじような服着てるな、なんて思いながら、香は彼へ軽く手を振ってみた。
「どうも、窪塚くん。君も買い物?」
「いえ。お姉さんを待ってたんですよ」
「驚くな。ここに来るって、よくわかったね」
「いえ。来るのがわかってたわけじゃありません。ただ丸二日待ってただけですよ」
彼の言葉を聞いて、香は顔に出さなかったものの呆気に取られた。
――丸二日。すごいな。昼夜を問わず、食事もとらず、一睡もせず……なんてことは無いんだろうけど。でも、なんでそんなことするんだろう。わたし、気に障るようなこと言ったかな。
内心では不安になりつつ、「そうなんだ」と努めて平坦に言ってみれば、彼はずいとこちらに歩み寄ってくる。既に両者は半径1メートルの距離。内心で「うわわ」と慌てたその時、空からぼたぼたと大粒の雨が落ちはじめた。きっと数十秒もしないうちに、前も見えないくらいの雨になる。
「また雨ですね」と馨は言った。「また雨だね」と香は答えた。
「いいんですか? ここにいると濡れますよ?」
「いいんだよ。それが、わたしの未来だもん」
「長瀬さんは、これが嫌なわけですよね」
「嫌じゃないわけないでしょ。雨に濡れたってなにも楽しくないよ」
香の答えを聞いた彼は、ふいに彼女の手を取って歩き出した。突然のことに慌てながら「どうしたの?」と訊ねるが、彼は答えず『サミット』とは逆方向に歩いていく。本格的に雨粒がアスファルトを叩きはじめても、その歩みは止まらない。
間もなく辿り着いたのは小さな空き地。そこにあるだいぶ年季の入った木製ベンチにどすんと腰掛けた彼は、面食らって棒立ちになった香へ「どうぞ」と座るように勧めた。訳も分からないまま遠慮がちに彼女が座ると、今度はポケットからアポロチョコの箱を取り出した彼は、一粒手にとってかじりつつ、また「どうぞ」と言って勧めてきた。黙ってチョコを受け取って口の中に放り込むと、脳裏にはまさに今現在の雨に打たれる自分が第三者視点で映る。
痛いくらいに降り注ぐ雨の中、並んでベンチに腰掛けるふたり。これだけでもなんだか馬鹿っぽいのに、そろって子どもが好むチョコを食べているんだから、なおさら馬鹿が加速する。それでも、ふたりのカオルは真面目な顔だった。
馨は香を見据えたまま、ふいに呟いた。
「いやな未来が見えても、それから逃げようとしない長瀬さんの気持ちはまったくわかりません」
「だよね。まあ、否定しないよ」
「正直、バカなんじゃないかと思います。いやなことだってわかってるなら、とっとと逃げればいいのに」
「……まあ、否定はしないよ」
「でも、そういうバカなことには道連れが必要だと思うんですよ。雨の中でベンチに座って、アポロチョコを一緒にかじれるようなバカが」
香は、目の前の高校生がなにを言っているのか理解できなかった。
自身の持つ特異な能力について、香が他人に話したことは彼相手がはじめてのことではない。友人に、親戚に、恋人に、数々の人にこの力について話してきた。大抵の場合は驚かれた後、「すごいすごい」と囃し立てられ、「自分の未来も見て欲しい」だなんてくだらないことを頼まれた。そうでなければ株だとか、競馬だとか、そういうカネに関わる話を持ちかけられた。
もちろん彼女の能力はそんなに都合のいいものではないから、こういった頼みは丁重に断るしかないのだが、そうすると相手の目からは興味の光が見る見るうちに失せ消えて、まず間違いなくそこから疎遠になっていった。また一部には彼女の能力を怖がる人もいて、そういう人からはバケモノを見るような視線を向けられた。
だから香は、馨のような反応をする人がいるとは思わなかった。能力を否定も肯定もせず、褒めもしなければけなしもせず、ただ平然と受け入れるばかりか、馬鹿らしい自分の選択に寄り添ってくれると手をあげる人がいるなんて、思ってもいなかった。
生まれて初めての経験にこみ上げてくるものを感じながら、彼女は「そんなもんかねぇ」と天に向かってつぶやいた。
「そんなもんですよ」と馨が斜め下を見ながら呟いたその時――身体を支えていた感触が消え、ふたりは「うぎゃ」と悲鳴を上げながらその場に尻餅を突いた。何が起きたのかと思えば、ベンチの腰掛けが真っ二つに折れている。よほどガタがきていたのだろう。
下着まで濡れていく感覚を覚えながら香はクスリと笑った。
「でも、君がその〝道連れ〟だと、こうやって予期せぬことが起きそうだしなぁ」
「……嫌なら他をお探しください」
「いいよ。他にアテもないし」
香は馨へ手を伸ばし、「改めてよろしく、カオルくん」と握手を求めた。
「よろしくお願いします、長瀬さん」と馨はそれに応じて彼女の手を取る。
「その長瀬さんってのはやめてよ。他人みたいじゃん」
「なら、なんと呼べばいいんですか」
「そうだねぇ」
思案するようにあごを指でつまんだ香は、柔らかい笑顔を浮かべて言った。
「お姉さん、でいいよ?」
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