第40話 思いがけない揺さぶり

 視線を彷徨わせていた相沢だが、スマホの振動に気づいて気持ちを切り替えた。

「はい」

 緊張した声で、相沢は電話に出た。電話はオンフックにしてあるので前川にも聴こえている。

「久しぶりだな」

 相手は落ち着いた声の男だった。

「やはり、あなたが出てくるんですね」

 急に無機質になった相沢の声が応える。

「すでに米田があれこれと余計なことをしてくれた後だからな。他にこの事態を収束できる者はいない。私が直接指示を出すまでだ。それにしても、裏切り者を救おうとは殊勝なことだな」

 電話の向こう側の男が嘲笑う。

「米田は生きているんですね」

「当然だ。交渉のカードを殺す必要はない」

 男は平然と言う。

 交渉ということは、相沢が殺し屋に戻ることが前提のはずだ。前川は心配になって相沢の肩を叩いた。それに相沢は解っていると頷く。

「仮ではない名前を得た気分はどうだ?」

「えっ」

 突然話題を変えられて、相沢は反応出来なかった。仮ではない名前。そう、これから相沢健一が自分を示す唯一の名前だ。考えてみると、それはとても不思議な感覚だった。まるでいきなり社会に放り出されてしまったかのような。そんな危うさを感じる。

「お前は本当に相沢健一として生きていけるか?」

 その問いに、相沢は何も答えられなかった。この名前と身分を背負って、これからの人生を歩めるか。相沢には全く見当もつかないことだった。そして男は解っているぞとばかりに笑う。そして長い沈黙が訪れる。

「っつ」

 相沢にはまだ迷いがある。条件次第では殺し屋として生き続ける道を選んでしまう。そしてそれ以外の人生に不安を覚えている。前川はこの反応に大いに焦った。

 一つの揺さぶりが、相沢の気持ちを変えかねない。まさしく薄氷を踏む思いだ。

「今夜十時だ。待っているぞ」

 男はそれだけ言うと、さっさと電話を切ってしまった。

「ま、待て」

 拙いと気づいて相沢は声を張り上げたが、切れたことを告げる電子音が、車内に冷たく響くだけだった。

「くそっ」

 しばらくの間、相沢はどうすればいいんだと呆然としていた。やはり相手は、今度のやつは米田よりさらに上にいる奴だ。一筋縄ではいかない。相沢の性格を的確に把握し、何をどうすればいいかを心得ている。

「俺一人で行きます。やっぱり、戸籍があろうと無理なんですよ」

 ようやく出た言葉は、虚しく響く。どう足掻いても逃げられない。諦めが、心を支配している。米田を犠牲にして新しい人生を歩めない以上、自分は殺し屋から、操り人形から脱出する術を持たないのだ。

「その足でどうするつもりだ」

 前川はすぐには否定的な言葉を言わなかった。ともかく、まずは現状を理解させた方が早い。

 米田に撃たれた傷は、縫合されているものの完治したわけではない。一人で立つのが精いっぱいである。こうなることを見越して米田が撃ったかは解らないが、単独行動できる状態ではない。

 頼む。そう言った米田の言葉が、前川を動かしていた。

「でも」

「お前はもう相沢健一だ!なぜそれを捨てようとするんだ。米田がどんな気持ちでこれだけの書類や工作をしたと思っている!」

 迷う相沢に、前川は思わず力一杯怒鳴っていた。

 相沢の目が大きく見開かれる。

 今まで一つの名前を持たなかったせいか、相沢の自我は脆弱だ。いや、今まで当たり前のように人形として扱われてきたのだ。一人前の人間として振る舞うことに全く慣れていない。そして、自分のためにどれだけの労力を他の人が払ってくれたのか、そこに気づけていない。前川は噛んで含むようにゆっくりと言葉を続ける。

「いいか。今のお前が相沢健一だ。もう殺し屋でも人形でもないんだぞ。殺さないと宣言しただろう。そして、美咲のために素直に泣くことができた。もう、お前は誰かの指示に従うことも、顔色を窺って己を殺して生きていく必要もないんだ」

「それは」

 解っている。変わりたいと願った。変われると思った。でも、自分のような奴が今まで必死に生きてきた誰かを犠牲にして新しい人生を得ていいはずがない。そう思うのは、間違っているというのか。

「何故米田が、わざわざ今使っている名前を本当の名前としたと思う」

「……」

「今のお前を認めたからだ。だから、お前もその自分を受け入れろ」

「そんなことは」

 相沢は驚くと同時に、米田の優しい目を思い出す。あんな目で相沢を見たことなんて、ただ一度もなかった。今までは道具だと割り切っていたからだろう。それが、彼の中で大きく変わったのだと、相沢も理解している。

「前川さん」

「何だ」

「あなたは本当に強いですね」

 呟いた相沢の声に、力がない。

「相沢」

「怖いんです」

 相沢はシートに力なく凭れた。

「俺は普通でいようとするあまりに、色々なものを捨てすぎた。俺は普通の感覚を忘れないでいようとして、人形になってしまったんです。だから、人の感情が自分に向くことが怖い」

「――」

「この中は、相沢健一と名前をもらっても空っぽなんですよ。何もない。そんな奴が、これから先、ちゃんと生きていけますか?命令なしに、操る糸なしに生きていけるんでしょうか?それを、あの男の言葉で気づいてしまったんです。俺はこの先、一人の人間として、生きていけるんでしょうか?」

 遠くを見つめた相沢の目には、何が映っているのだろうか。

 抱えている思いは、前川の想像よりはるかに深く暗かった。


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