第35話 特別な死
翌朝、まだ陽も昇りきらぬ時間に米田から渡されたスマホが震えた。
ビジネスホテルの一室、ベッドの上で相沢はその画面を無表情で見つめた。
泣いたせいか、身体がいつもより重かった。昨日負った傷が熱を持っているせいもあるだろう。病院で手当てを受けたものの、入院しろという医者の言葉を無視してここに来たのだ。体調が悪くても仕方がない。
スマホには、一件のメールが入っていた。相沢は躊躇わずにメールを開く。それは場所と時間が書かれているだけの簡素なものだった。
「――」
開いた口から、言葉は出なかった。気持ちの整理がつかないのは、もう何年も経験していなかった。だが、考え込んでいる時間はない。
相沢は意を決して立ち上がった。足を引きずりながら部屋を出ると、すぐ向かいの部屋のドアをノックした。
「はい」
少し眠そうな前川の声が聴こえたかと思うと、すぐにドアが開いた。
「もうちょっと早く来るかと思ってたのに」
目を擦りながら、前川はぼやいた。
「何でですか?」
怪訝そうに相沢は訊ねる。
「いや、普通ならば愚痴とか言うかなっと」
困り顔の前川は、相沢を部屋に入れながら溜め息を吐いた。
相談するタイプではないとは解っているが、一人で抱え込まれては見ている方が辛い。一方、相沢はそんなことは思いつかなかったと肩を竦めた。残念ながら、そういう普通の人間らしい発想は相沢にはない。
ベッドに腰掛けた相沢の表情からは、落ち込んでいる様子は窺えなかった。前川はそれにも溜め息を吐いてしまう。まったく弱さを見せない姿は、あの泣き崩れた姿を見ているだけに痛々しいものがあった。
「米田から連絡が入りました」
普段通りの涼しい声が、事務的に告げる。その報告に、前川は壁に凭れながら、渋い表情になった。
「ずいぶんと早いな」
「僕の心変わりでも警戒しているんでしょう」
言っている相沢は、やはり事務的だった。そうすることで、無理に平静を保っているようだった。
「なあ、相沢」
「何です?」
「別に感情を表すことは、恥ずかしいことじゃないだろう。少なくとも、俺はそれを弱味として利用する人間じゃない」
その言葉がどれほどの意味を持つかは解らない。それでも、前川は言わずにいれなかった。
器用に生きているようで、相沢は恐ろしく不器用な奴だ。だから、いつも自分のことが後回しになる。今だってそうだ。自分の事を度外視して動いている。こいつはまた、前川紗枝救えればいいと考えているのだ。
「前川さんって、意外と逞しいですね」
「何だと?」
予想外の言葉に、前川は思わず食って掛かった。
相沢は苦笑している。
「僕がどれだけ捻くれたことを言っても、信じてくれるんですから」
「ふん。お前の言う事を一々真に受けていたら、身が持たねえよ」
ずっと落差だと思っていた言動も、相沢が自己防衛でやっていたと解れば何でもない。現に、目は全く誤魔化せていない。そして、米田はきっと気づいていないだろう。昨日、佐々木の話を聴いていた時の相沢の目は、激しく揺れていた。無表情を貫いていても、感情は大きく揺れていたはずだ。いや、動揺していたからこそ、佐々木の胸ポケットに美咲の写真が入っていることに気づき、号泣したのだ。
救えなかった命。自分が関わらなければ死ななくて済んだかもしれない命。それに、相沢は動揺すると同時に後悔したはずだ。あの時の出会いがなければ。そう思わなければ涙なんて流れなかっただろう。
「美咲の事は、もう忘れたと思ってました」
すとんと力が抜けたように、相沢が呟いた。ようやく、仮面を脱ぎ捨てたというべきか、あれほど淡々としていた相沢から疲れが見えていた。
「忘れられるわけないだろ」
「他の死は、すぐに忘れるのに」
相沢の視線がどうしてと困惑するように彷徨った。泣いたのは自分勝手だったことに気づいたからだ。彼女の死を思って泣いたわけじゃない。そう思っていたのに。
「美咲が死んで悲しいと思いました。俺が殺してしまったんだと、そう思うと、彼女に関わったことに後悔しました。でも、依頼を受けて殺したことには変わらない。彼女は政治の道具にされて殺された。それならば、今までと何ら違いはない。それなのに」
「お前とちゃんと向き合った奴が、その中にいたか?」
前川は何気ない感じで、その言葉を投げかけた。
人の死が、総て同じ意味を持つことなどない。その事実を、相沢は今回のことで初めて知ったのだ。だったら、しっかり考え、受け止めなければならない。
ゆっくりと、相沢が下を向く。
「なんで、俺なんかに」
小さな呟きは、とても重かった。
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